1-5かつて空を飛んだ種族
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最初、目に映ったのは炎だった。
ゆらめく炎が、かすかに見える。
やがてディギッツには、それが囲炉裏の火であることが判った。彼は、獣の皮でできたような衣に包まれ、囲炉裏端に寝かされていた。
テントか? ここは……。
左肩。左肩は…何かしらなま暖かいものでくるまれている。ディギッツがよく確かめれば、それは一種の冷湿布だと判ったことだろう。
命だけは長らえたようだ。
ディギッツには不思議と何の感慨も湧いてこない。
というより、自分がいるこの世界が現実かどうかも判別できないのだ。
まして息をしていること自体、他人事のように思えてならない。横たわっているこいつは誰かの死体で、自分はおそらく、それを少し高い中空から見下ろしているのだろう。そう考えた方がしっくりくる。
そもそも…僕は、誰だっけ…?
囲炉裏に揺れる炎をぼんやりと眺めながら、考える。
そうか、名前は…ディギッツ、って…言ったっけ。たしかそんな名前だった。
ニザーミア学府院の火精師見習い、それが僕だった…と思うけど…本当かな?
いや…だけど、もう精霊師見習いじゃないんだっけ。
少しづつ、自分自身のことを思い出していくと、だんだん胸の中に、苦い物がこみ上げて来た。
思い出したくもない記憶。
ミザーミア学府院を追い出されて……。
じゃない、そうじゃないんだって!
ディギッツは、必死になって嫌な思いを打ち消す。
そうじゃなくて! ニザーミア学府院かられっきとした特命を受けて、北の廃都ガドリングへ旅をしているんおだ、僕は。
で、旅の途中でエイプ・オム…大猿たちに襲われて、それで……。
あれ、誰だっけ。もう一人、連れ合いがいた。女の子だったかな…旅の道連れが。
エイレン…エイレン…そんな名前の…。
そうだエイレンはどこにいる!?
ディギッツは、ようやく「この世界」に帰還した。
冗談じゃない、こんな所でのんびり寝てる場合か!!
勢いよく寝床から身体を起こそうとして、支えた左肩に激痛が走った。そのまま勢いよく、前のめりに転倒する。
枕元に置かれていた盆が、その上に置かれた食器ごと勢いよくひっくり返り、大音を立てる。
「まあまあ、元気な兄さんだこと! 今の今まで、大人しく寝っ転がってたと思ってたらこれだもんな。おやおや! せっかくの朝飯までパアだ、もったいない」
左肩を押さえ、痛みに顔をしかめながら見上げると、そこには屈強な…それでいてどことなく人の良さそうな男が腰掛けている。どうやら彼を助け出し、手当をし、看病までしてくれたのだろう。
男は、ラクーンと名乗った。
ディギッツの頭が、めまぐるしく回転し始めた。まず丁重に、助けてもらった礼を述べねばならない。それに自分が遭遇した、この恐ろしい事情についてもきちんと説明しなければ。それに何より、ここはどこで、彼らは何者で、そして夜まで、あとどれくらい時間が残されているのかも聞かねばならない。
そう、時間もない! 夜が来るんだ。確か襲われた時点であと三日、あと三日! ガドリングまで辿り着くにももう、時間が……。
まるで洪水のように、思いが脳裏を駆けめぐって大混乱をきたしている。
言葉が、うまく繋がって出てこない。
「エイレンは…あの…女の子が! 女の子が倒れてなかったですか? 女の子が! エイレンっていうんですけど、はぐれてしまってて、倒れてて…猿たちにもしかして、もしかして! やられてたら…助けて! 助けてやらないと…」
もはや、支離滅裂だ。吐き出すようにひたすら言葉を繋いで、ついに彼は胸を押さえて咳き込み、そのまま再び倒れ込んでしまう。
「だから寝てろって! 兄さんあんた、ムチャクチャ猿に殴られてんだから。イキナリ起き出してどうするんだ。
いいから落ち着きなって。その…ナントカって女の子さんは、安心しなよ。ちゃーんと隣のテントで寝かせてっから」
ラクーンと名乗る男は言った。
「兄さんも、まあ見た目は華奢だけど、けっこうな騎士様だな。起きて一番に、まず女の子の心配か。はは、大切な彼女か」
そうじゃない、彼女とか、そういう存在ではなく…つまり……。
ディギッツはあわてて事情を説明しようと試みたが、咳き込んでしまって声が発せられない。ギリギリと胸に、張り裂けそうな痛みが走る。よほど胸部を強打したのだろう。
だが、エイレンもどうやら、助け出されたようだ。
それを聞いて、ディギッツの全身から力が抜けていった。少なくとも、最悪の事態だけは避けられたのだ。
ディギッツたちが大白猿に襲われたのは、東西南北を結ぶ交易路である「赤十字回廊」の交差点、ヨンギツァから北に向かって百キロほど上ったところ、かつてボータルカと呼ばれた村落があった盆地附近のようだ。だが、すでにその村落も離散してしまい、ここ数日はディギッツたちも、野宿の強行軍を強いられていたのだ。逆を言えば、大白猿エイプ・オムにすれば、格好の標的だったともいえるが。
ディギッツを助け出したのは、スコール族と呼ばれる遊牧民の一家だった。
閏八月は、羊たちを中央高原から、彼らスコールの居留地である大伽藍山脈の東、リヨルデまで移送する季節に当たっており、たまたま山嶺から水を確保するため、ビズワ河縁に下りてきたラクーンたちが、ディギッツの大立ち回りに遭遇した、ということらしい。
普通なら、滅多に平地に移動することがないスコール人たちに助けられたのは、まさに精霊の導きとでも言う他はない。ディギッツは心中で、火の精霊師の守護神ヤーマに感謝の印を切った。
「まさか川縁で、妖し火がドカンドカン、爆発するとは思ってなかったからよ」
ラクーンは、さも面白そうに語った。
「お陰でボルクどもは怯えて暴れまくるし、水を呑むどこじゃなくなって、散り散りバラバラに逃げ出したからな。んで、森の中からは猿どもが叫んでるしよ。もう、何がなんだかワケがわかんなくてな」
「ボルク…というのは?」
「羊だよ羊。俺らは家畜をそう呼んでるんだ。あいつら臆病だからよ、森ン中から奇ッ怪な叫び声なんか聞こえてくればよ、もうパニクってワヤでよ。牧童たちはよ、それこそ逃げ出すボルクをよ、ひっかき集めるだけで大騒ぎでよ!」
大袈裟な手振りも交えて、ラクーンはそのときの状況を教えてくれた。
およそ百数十頭ものボルクを束ねていたスコール族の牧童たち数名が、急斜面を川縁まで移動したのとほぼ同時に、エイプ・オムがディギッツたちを襲撃する騒ぎが起こったようだ。
彼がたまたま火の精霊を召還し、ザップの呪によって大爆発を巻き起こしたとき、ラクーンは森の中にまで逃げ込んだ数匹のボルクを捕まえようと、悪戦苦闘していたらしい。そこへ興奮して我を忘れた数匹のエイプ・オムが乱入し、大騒動の第二幕が切って落とされたという次第である。
ラクーンは、よく使い込まれた大型の石弓を自慢げにディギッツに見せびらかした。
「ま、下の土地に降りるときは、一応の用心に持っていくんだが…正直いって、こいつはもう長い間、使ってなかったのよ。
けどまあ、腕は落ちてなかったのさ。ボルクに向かってきた猿一匹、ドタマに礫が命中したのよ。そしたら今度はクモの子散らすようにな、猿たちが泡吹いてトンズラこいてくれたから。兄さんたちも助かった、ってワケだな」
事情も分からぬまま、森に散ったボルク羊たちをかき集めるうちに、ラクーンはディギッツを発見し、そして彼の同僚は、水辺で倒れているエイレンを見つけたというわけだ。
「地面に、むちゃくちゃデカい穴が空いてるだろ。それで周りの木は黒こげになってるだろ、ついでにチリヂリ丸焼けになって、大猿が2~3匹寝っころがってるだろ。
もう、何が何だか…兄ちゃん、何かバクチク仕掛けでも破裂させたのか? まるで…う~ん、ずっと昔、どっか都で見た、過越し祭りの大花火みたいな大爆発だったもんな、あれって…」
ディギッツは、改めで自己紹介するかたわら…胸の痛みにむせながら、途切れ途切れではあったが…自分がニザーミア学府院から使わされた精霊師…火精師であること、エイレンと共に廃都ガドリングを目指す途上で、大猿たちの襲撃を受けてしまったことなどを話した。
「ひゃー、火使い様だったか! こりゃ驚いた」
ラクーンは目を丸くした。
「俺らは風使いの裔だから、火使いの…ええと…セイレーシさんなんか、お目にかかったことなんかなくてよ。そういや昔、都に上ったときに鍛冶屋の火使いから武具揃えてもらったんだが、あの時はドえらくぼったくられたもんだ。それ以来だな、ふーん」
感心しているのか何なのか、いたく感慨深げに彼は呟いた。同じ精霊使いとはいえ、市井の鍛冶職人と同列に扱われたディギッツは一瞬熱くなり、思わず抗弁しそうになって思いとどまった。仮にも命の恩人なのだ、この素朴そうな牧童は。
「にしても、エラくおかしな話だ。兄さんたち、なんで大猿どもに…その…つけ狙われにゃならなかった? 話聞いてると、たまたま猿どもと鉢合わせになった、って感じではなかったようだしな。何かあいつらに悪さでもしたか。ん?」
ディギッツは思い切り頭を振った。それこそ、彼のほうが知りたいことだ。ラクーンも、全く訳が分からない、といった様子である。
「考えてみりゃ、大猿どもが人を襲うって、まず滅多にないもんな。俺らが知ってる限りでは、森でサルの赤子を掠ったバカ商人が、大猿の群れに襲われたって話があるくらいだな。街へ連れ帰って、見世物にしようとしたのさ。
バカバカしい。小銭稼ぎのために命を落とすってな、アホ丸出しだ。
第一、アイツらはベリーの樹になるミゼル…あいつらの大好物の果実なんだけどもよ、俺らには食えねえのな、あれムチャクチャ臭くてよ! アレしか口にしねえからな。
もちろん人を襲って食うなんて、聞いたこともねえ。第一あいつら、図体に似合わず、えれえ臆病なんだ。羊見かけたら、アイツらの方が逃げ出すくらいだからな。よほどワケアリでもなけりゃ…」
ラクーンからそう告げられても、ディギッツは困惑するしかない。
本当に、あのエイプ・オムたちから恨みを受ける覚えもなく……唯一、考えられることがあるとすれば、彼らがニザーミヤ学府院からやってきた「精霊師」である、ということだけだ。だが、猿たちにとって、それに何の関係があるのか。第一、二人が火と水の精霊師であることなど、猿たちに判別できるとも思えない。
結局、原因究明は振り出しに戻るしかない。
「もしかすると…猿だけじゃないのかもな、狂ったのは。ここンとこ、確かに何かおかしい気がするな、俺らもそう思うときがあるんだ」
ラクーンは、ふと思いついたように呟いた。
「だいたい、閏の八月にボルクどもを伽藍山に返す、ってのが、そもそも早すぎるんだ…いつもなら、十月近くまでは高原でマルマル太るまで、羊っつうのは草を食わせるてから山へ返すのが習いなんだ。
けどな、今年に限っては、あいつらがムチャクチャ落ち着かなくてよ、グボグボやかましいんだわ、しょっちゅう啼きやがるしよ、草は食わねーで、ちょっと目を離すと脱走しまくるしよ。
それに、空気が、ここンとこ妙に重たいんだ。晴れれば妙にアタマが痛むし、雨が多いと今度は羽根が痛むしよ」
羽根? 羽根なんか、この男のどこについているんだ?
ディギッツはじっとラクーンの方当たりを眺めるが、もちろん、それらしき痕跡も欠片もない。少々碇肩でいかつい感じはするが、ごく普通の人間だ。
不思議そうな表情を浮かべたディギッツを眺めながら、ラクーンは苦笑する。
「妙なことをしゃべくる野郎だと思うだろ。けどな、こいつぁスコールの習い性なんだ。俺らの祖先は風使いの裔だったし、空も飛んだんだ、大昔は。空で暮らしてたからな。
ま、だからこそ空気…つか大気が読めるんだ。
ここ最近、何っつうのかな…兄さんたちのコトバを借りると、精霊たちがムチャクチャ重いんだ。垂れ込めてるつうのか…そういうとき、俺らはアタマも羽根も痛むのさ。
もっとも羽根はニマーマの昔、とっくに肩から落ちて取れちまって、背中から消え失せちまってるけど…羽根がなぁ」
ニマーマ紀、つまり神話の時代の話まで持ち出されると、ディギッツには返答のしようもなかった。
「ま、バカ話だと思って聞けばいいわ。気にしなくていい。ともあれ兄さんも命拾いしたことだし、夜は長いし。しばらくはゆっくり、養生して身体を治せばいいだろ。どうせ俺らも、しばらくはここで止まって朝を待つし」
ディギッツは、突然思い出した。
「そうだ! 僕…僕は倒れて、どれほどの間、気を失ってたんですか? 今、何日目なんですか、夜、夜は…」
「兄ちゃんは…う~ん、丸一日っつうところかな。もう夕暮れだ、夜まであと一日…」
思わず、ディギッツは飛び起きた。
左半身に痺れるような激痛が走ったが、構ってはいられない。寝台から無理矢理身を起こし、静止するラクーンを遮って、彼は天幕の覆いを開いた。
目に飛び込んできたのは、まさしく薄暮の世界だった。
スコール人たちのキャンプは、ビズワ河岸から、断崖を少し上ったところに設営されていた。北辰大陸を縦貫する大伽藍山塊が西にそびえ、太陽はすでにその山裾に張り付くような位置にあり、西の天空からいままさに滑り落ちようとしている。
羊たちは、河川敷より少し上、テーブル状の平地が幾何学的に並ぶそこかしこに分散して集められ、膝を曲げて休んでいる。おそらく、もう眠る準備にかかっているのだろう。ぐお、ぐお…と、寝ぼけたような鳴き声を立てる何匹かの牡羊を除けば、至って静かなものだ。
「急がないと……いけないのに……」
ディギッツは、力なく呟く。
「まさか兄ちゃん、あんたら夜を徹して旅する、なんて言い出さないだろうな」
「それも…やむを得ないかも……」
ラクーンが呆れたように語りかける。
「は、悪い冗談だ。まっくら闇の中を、呪いの都まで、猿にシバかれて身体にガタきた兄さんと華奢なお譲ちゃんが旅する…ってなぁ…自殺でもしたいのか?
正気の沙汰ではないな。第一、その相方のタイセツな彼女の嬢ちゃんはまだ目覚めてないんだぞ。それとも無理矢理ひっぱたいて叩き起こすか? ん?」
そうか、エイレンのことを忘れていた。エイレンはどれほどのダメージを受けているのか、それすら確かめていないではないか。どちらにせよ、日の明るいうちに廃都ガドリングまでたどり着けないことが決定的になった以上、ここに止まるしか選択肢はない。
「ま、お嬢ちゃんもそろそろ目を覚ますだろうさ。兄さんと違って、見た目には大した傷もないようだからな」
ラクーンが再び声を掛ける。
「あとは、ゆっくり傷を癒すんだな。どうせ、夜は長いんだ。それに今は閏八月の過ぎ越しだ。お嬢ちゃんの具合が良くなったら、景気よくマツリでもおっぱじめよう、な」
「ま…マツリ!?」
「何だ? スコールだって、過ぎ越しの時くらい祝うぞ。ま、オレら流儀の祭りだから、ちょっとばかし羽目が外れるけどな。精霊師さまと違って、あんまし神聖に祝う伝統がないのは勘弁な」
ラクーンはたくましい肩をゆすりながら笑った。
祭り。
今のディギッツにとって、それは余りにも不似合いな、場違いな単語だった。だが戸惑うばかりの彼をよそに、ラクーンは上機嫌でボルクたちに声を掛けながら去った。
太陽は、葡萄色の空を染めながら、ゆっくりと眠りにつこうとしている。次にこの地平から姿を現すときまで、彼らにできることといえば、気長に待つことだけだ。
ディギッツには「そのとき」が、永遠の先のような気さえしてきた。




