1-4そもそも吉兆か凶兆か、といえば?
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きっかけは、灯火だった。
それは、凶兆とも、吉兆とも噂される現象だった。
北辰大陸ニザーミア学院府の所在する東岸イェーガー・シェラ半島の突端、方向にして東北東二キロ先にそびえ立つのが「ニーフ・ガスト塔」。「呪縛の塔」とも「祈りの塔」とも呼ばれる廃墟である。
その禍々しさから、学院の精霊師たちはそこを正式には「岬」とだけ呼び、もちろん塔への立ち入りは、厳重に禁じられている。
塔自体は前千年紀、つまりニマーマ紀の遺跡らしいが、その由来について知るものはいない……という以前に、教導精霊師の許可を経ずに前千年紀に関して必要以上の興味を持ったり、余計な詮索や無責任な流言を立てること自体、ニザーミア精霊師としては「厳に慎むべきことである!」という教育が…建前上は…徹底していたのだ。
その塔が、つい先の「暁」の刻、つまり閏八月の月二十九日も終わろうとするとき、突如として無数の灯火に包まれた。「ヤーマの灯火」もしくは「ヤーマの妖火」などと呼ばれる発火現象で、公には「一種の自然現象でしかない」とされていた。
なぜならば、少なくともこの現象が「地水火風」4精霊エレメントのいずれによっても説明のつかぬ、謎だったからである。
暁の東の空、無数の針を突き立てた尖塔、といった奇怪な形相を映す、古代建造物ニーフ・ガスト塔の先端にくまなく光る灯火は、巨大な塔をいっそう禍々しく浮き上がらせている。
もちろん、それが人の手によるものでないことは確かだ。塔の入口は固く閉ざされて幾久しく、そもそも「封印された」前千年紀の遺産であるこの塔が、東北東の端、岬の突端とはいえニザーミア学府院の敷地内にあって、取り壊されることもなく遺されたこと自体、学院府にとって一種のタブーなのだから、近寄る酔狂などいるはずもない。
時ならぬ怪現象に騒然とする学府院だったが、ディギッツにとってみれば、全くの関心外の事件でしかなかった。というのも、彼はそのとき、深刻な事態にあった。深刻どころか、絶望的といってよいかもしれない。
正確に言えば、彼は暁に空を灯火が染めた頃、こちらの世界の住人ではなかった。
ディギッツは、北方の辺境イクスペルの集落から「選抜され」、おおいなる期待を抱いてニザーミヤ学府院へ入府し、すでに三年が経過していた。
火の精霊を専攻する見習い精霊師としては、ともあれ初級課程を修了し、あと二年もすれば認定精霊師として故郷に錦を飾ることになる、はずだった。
火の精霊師すなわち火精師は、他のエレメントを習得する者たちに比べて格段に数が多い。精霊師としてのステイタスとすれば「俗物」という、あまり名誉ある扱いを受けてはいないものの、それは単にこの北辰大陸世界にあって「火」の需要がいちばん高いという理由によるものなのだが。
そもそも「火精師」は「造化を司る」者たちであり、この世界で冶金をはじめとする工芸全般はもとより、さまざまな技術分野や医術に至るまで、それぞれの都市村落において欠かせない「技術者」なのである。
ニザーミヤ学府院に召還されることもなく、勝手に精霊を習得した、いわゆる巷間の「野良精霊使い」と呼ばれる者たちも、その大半がこの「火使い」である。ましてニザーミヤ出身の「認定精霊師」身分ともなれば、少なくとも辺境の一集落にあっては名士扱いとなる。
召還、変成といった基礎課程で、ディギッツは相当に非凡な才能を発揮した。
彼が呼び起こす炎のエレメントは、同期生の中でも飛び抜けていた。スペルの習熟度もずば抜けて早く、またその試技は正確無比であった。さらにエレメントを駆使して行う冶金や錬成…つまりは応用編「工芸技術者養成課程」では、このまま着実に技術を習得すると学院に残って「導師精霊師」のコースを歩むことさえ可能なほどに、独創的な創成能力を発揮し、指導教官を驚嘆させたものである。
まさしく彼は、将来を嘱望されていたのだ。
ところが、このとき彼の身に、ちょっとした異変が起こった。
原因は、全く分からない。
それがつい一月ほど前。「妖し火騒ぎ」が起きるほんの二日前のことだった。
最初は、いつものルーチン「錬成術」修行での出来事である。
錬成は、主としてテクタイト…つまり硬鉱石の加工をもって、その課題とする。第三段階つまり修飾変成の課程にまで達していたディギッツは、一般課題の冶金とは別に、次の過ぎ越し祭で出展するための「アーチのオブジェ」制作に没頭していた。
同期の友人であったレクターなどは、複雑なシンメトリック構造をもつ金属加工を、造作なく両手を複雑に交差させつつ、略称スペルだけで次々と継ぎ足していくディギッツに「おまえには隠し腕が何本あるんだ?」と真顔で尋ねたものである。
ところが「その時その瞬間」、ディギッツの掌から「精霊が抜け落ちた」。
……火が、衰えた……
突然、視界から色が総て消え失せたようなショック、といえば分かりやすいだろうか。
スペルを唱え違えた、といった単純なものではない。それは、彼自身がいやというほど熟知している。
いまの今まで、あるのが当然であった、たとえば彼の周囲に存在するはずの「空気」がすべて、この瞬間に消滅し、一瞬にして窒息状態になってしまったのである。
呼吸ができない。苦しい……!
ここ数日来、過ぎ越しの祭礼のために無理をし過ぎたのかも知れない。
祭礼のオブジェ制作など、彼一人で引き受けるには、少々荷が重すぎるのは判っていた。ここ最近、周囲のおだてもあって、調子に乗りすぎたのだろうか。
ディギッツは、呼吸を整えた。
いや、別に周囲の空気が消え失せた、わけではない。肩で粗く息をしながら、彼は必死でスペルを思い浮かべ直した。
落ち着け!
落ち着いてもう一度スペルを詠唱すれば、精霊は再び、掌に宿るはずだ。
そう、思いこもうとした。
だが、拡げた両の掌から、再び精霊が呼び起こされることはなかった。
オブジェの製作台座を前に、うずくまってしまったディギッツに、ようやく周囲の生徒たちは気づき、心配そうに声をかける。
「だいじょうぶ、大丈夫…大丈夫…ダイ、ジョウブ…」
ちょっと無理をしすぎたようだから、少し休めば大丈夫だ。心配ないって。過ぎ越しマツリまでは、まだ三日もあるんだから…今日一日は、ちょっと休ませてもらうよ。
結局、彼はそのまま高熱を発し、熱に浮かされたまま三日間、意識を失っていた。
幸いだったのは、明け方に訪れるはずだった「夏至の過ぎ越し祭り」そのものが中止になり、彼の担当したアーチが未完成に終わってしまったことも含めて何もかも、うやむやになったことであろう。
ディギッツが「あちらの世界の住人となり」ベッドで苦悶してた頃、ニーフ・ガスト塔に灯った妖しの灯火は、ニザーミヤ学府院中を混乱に陥れていたのである。
三日目、ちょうど東の空が白み、ヤーマの灯火が消え失せた頃に、ディギッツの高熱も嘘のように引き、彼は意識を取り戻した。
目覚めたばかりの彼を待っていたのは、首席導師オービス・ブラン直々の呼び出しであった。知らせを運んできた友人、レクターの妙に口ごもった態度から、ディギッツにはそれが不吉な知らせであることは容易に想像できた。
「僕は、いったい…何日くらい、寝込んでいたんだ?」ディギッツはおずおずと尋ねた。
「…三日…」
三日?
ということは…過ぎ越しの祭礼は…終わっているではないか!!
ディギッツは二の句が継げず、ただ呆然とするだけだった。
レクターは、彼に「急いで教監棟へ来るように」という首席導師からの命令だけを早口で繰り返し、目を背けながらそそくさと、ディギッツの居室から出て行ってしまった。
…出しゃばってアーチ制作などという大役を引き受け、過ぎ越しのマツリをぶち壊しにしてしまった自分は、どのような叱責を、あるいは処罰を受けるのだろう?
あわてて身支度を済ませたのち、寄宿舎を出て学院中庭を越え、北のはずれに位置する教監棟へ急ぎながら、ディギッツの脳裏に浮かんだのはもっぱら、そのことだけだった。
日が高くなったというのに、中庭にも宿舎にも人影はほとんどなく、過ぎ越しの祭礼が行われたとすれば、いくらなんでも閑散とし過ぎている。
だが、そんな学府院に様子さえ、ディギッツの目には入らなかった。
いつもは指導教官や見習い学生たちで賑やかな居住棟も食堂も、無人であった。
北のはずれ、教監棟の首席導師指導室は、思いの外に広々としている。
ディギッツに背を向け、窓の外を眺めていた首席導師オービスを部屋の奥に認めると、ディギッツは彼が口を開くより早く、大声で詫びの言葉を詠唱した。
私めは、自らの分を弁えぬ愚かなる非才の徒であります!
償おうに償いきれぬ不始末をしでかし、私めディギッツ・ベル・オーは
自らを滅却すべきほどの、恥辱と悔恨の念に苛まれております!!
このたびの不始末、お詫びしても済まされることではないこと、重々承知して
おります!
なれど! こ…このたび…もとい、今回のみにおかれましては、
首席導師の…お慈悲をもちまして…ななな何卒…
寛大なるご処置を…賜りたく…
ディギッツが謝罪とも嘆願ともつかぬ口上を述べている最中、首席導師オービス・ブランは窓の外を眺めつつ、素知らぬ様子で立ちつくしていた。
「三日間ほど、高熱を出して、倒れていたそうだけれど、もう歩き回って大丈夫かな? 無理をして呼び出してしまい、悪かったね」
振り返ったオービスの表情は、柔和そのものだった。口元には笑みを浮かべている。
「は、はい! もう何ともありません!」
直立不動のディギッツの額から吹き出している汗は、冷や汗だった。意識が遠のきそうなほどの混乱は、高熱のせいではない。
考えてみれば、首席導師…つまりニザーミアにおける最高位の精霊師…と対面すること自体、初めての出来事だった。彼が三年前、この学府院へ招聘されたときにも一度、面通しをしているはずなのだが、そちらの記憶は全くない。
「そうか、では少し、話をしようか」
あくまでもオービス導師の表情は柔和そのもので、怒りなど微塵も感じられないほどだ。だがディギッツにはそれが、決して喜ばしい兆候とは思えなかった。
…そして、その予感は的中した…。
「両手を、前に出してごらん」
微笑を浮かべながら、オービスが近づいてきた。ディギッツは目をきつく閉じ、両手を差し出した。首席導師の命令に逆らえるはずもなく…。
過度の緊張によるものなのか、ここからディギッツの記憶も少々あやふやである。
覚えているのは、彼の精霊が、彼の掌から「消失」してしまったことを、首席導師に知られてしまったこと。それは彼自身の告白によるものか、さもなければ手を差し出した瞬間にオービスから「見破られた」のか、定かではないが。
そしてもう一つ、オービスからの命によって、ディギッツはもう一人の同僚と共に、遙か北方の廃都ガドリングに現在は滞在しているという、前首席導師ニキタ・ディボックスへの親書を携えて、早急に出発すること。
ニザーミヤ学府院の「勅使」として、ガドリングへ赴く。
それがどれほど「重要な使命」なのか、そしてなぜ、そんな大役を見習い精霊師でしかないディギッツに託すのか。
唐突に命を受けた彼には、混乱が混乱を呼んで、まったく理解できなかった。
ガドリング「廃都」は、学府院から北方五百キロは優に離れた場所である。
しかもそこはすでに廃棄されて久しく、いまは人住まぬ、文字通りの廃墟と化したと伝えられる都市でもある。そもそも、なぜそんな場所に、前首席導師という名誉ある地位にいた者が滞在しているのか?
普段のディギッツなら、そんな疑問がいくつも湧いて出るだろうし、そこから導き出された結論も、自ずと理解できたことだろう。だが、いまの混乱しきった彼に、それを求めることはできなかった。
「親書…と…おっしゃいましたが…それは一体、どのような…」
なかば上の空で、ディギッツはむしろ尋ねてはならぬ質問を、オービスにぶつけてしまった。いましがた手渡された親書のスクロールには厳重に封印が為されている。もちろん、宛先である前首席精霊師ディボックス以外、この封を解くことはできない。そして、その内容を尋ねることなど、タブー以外の何者でもないのだ!
だが、オービスは絶やさぬ笑顔のまま、彼の問いに答えた。
「内容はね、ヤーマの灯火に関する意見具申なのだよ」
「は…?」
「そうだね、君はその間、病に伏せっていたからね。判らないのも無理はない。まあそのあたりの事情は、同僚に尋ねるといい。ここ三日ほどの間に、いろいろな出来事が起こったのだよ」
首席導師は、ディギッツの肩に軽く、手を触れて囁くように告げた。
「この使命は、君…いや君たちにしか託せない。それをよく理解しておくことだ」
「それでその…親書をディボックス前導師にお渡ししたあとは……」
「あとは、ディボックスの差配に任せなさい。彼の者の言葉は、私の言葉だ」
一瞬、オービスの表情から笑顔が消えた。
それはまた、これ以上の問答は不要、退席せよ、という合図でもあった。
別室に、首席導師から「同僚」と指名された人物が待機していた。
エイレン・オルニード・モーティマス。
ディギッツの困惑に、更に謎が加わってしまった。
通称「エイレン姫様」。ディギッツと同期でニザーミヤに招聘された精霊師見習いの少女だったが、彼とはほとんど面識がなく、この場が初対面といってもよい間柄だった。
彼のエレメントが「火」であるのに対し、エイレンのそれは「水」だから、同期入院生50人ほどの中でもほとんど接点がなかったし、更にいえば「どこかの馬の骨」出身のディギッツに対し、彼女は正真正銘「名家のお姫様」だから、そもそも同じ学府院にあっても住む世界は別だった。
南の双子都市イルーランを治める導師の家系であるモーティマス家の次女ながら、エイレンは長女を差し置いて、その家督を継承し、特例待遇のもとでニザーミヤに入府したというもっぱらの噂である。同期生はおろか、修士精霊師クラスでさえ一目置くという、強烈なエレメントの持ち主らしいが、いかんせん、噂にどの程度尾ひれがついているのかは判らない。
「挨拶は抜き! 首席導師様からあらましは聞いているでしょ? 一時間以内に出発の準備は終えてちょうだい」
エイレンが、最初にディギッツにかけた言葉だった。
「いやその…ちょっと待ってくれないか。僕はいまの今し方、命を受けたばかりなんだ。君が旅の同僚というのは…驚いたけれど…いろいろと聞きたいことが…」
ディギッツが口ごもると、彼女はぴしゃり、とそれを止めた。
「無駄口はけっこう! 時間がないの」
確かに、時間は切迫していた。ほとんど質問らしき質問もさせてもらえぬまま、あたふたと先輩の修士精霊師たちに旅支度を調えられ、驚いたことに道程表から途中の宿泊先への紹介状、さらに路銀として二人旅にはそぐわないほど高額のテクタイトまで渡され、彼らは(エイレンの言葉通り)命を受けてから僅か二時間余りで、五年にわたって修行したニザーミア学府院…北辰大陸唯一の精霊師養成施設…の正門を後にしたのだ。
最初はデイギッツと口も利きたくない、という風体のエイレンだったが、それでも旅を始めて二日も経てば、嫌が応にも会話せずにはいられなくなる。
ディギッツが寝込んでいた三日間の「空白」で、学府院に何が起こったのか?
エイレンの機嫌がやや持ち直すタイミングを見計らい、幾度となく彼は話題をそちらに振り向けたが、彼女の答えは
「それどころじゃないでしょ!」
「忙しいの、いま」
「黙って歩けば?」
と、とりつく島もない。
唯一、彼が理解したことは、首席導師オービスからの勅命が、いったい「自分にとって」何を意味していたか、の一点だった。
「なぜ、僕たちが、こんな大役を引き受けることになったんだろう?」
かなり急坂だった。ふうふうと息を切らしつつ発した、ディギッツの呟きにも似た質問を聞き止め、彼女が切り返した返答は、あまりにも率直だった。
「あんた、真性のバカ?」
少なくとも、学府院の…火精師見習い組の同期では、彼の才能や適性は突出していたのだ。水精師からとはいえ、バカ呼ばわりされる覚えはない。
抗議しかけるディギッツに、エイレンはきっぱりと言い切った。
「追放よ、ツ イ ホ ウ!」
呆けたような…たぶん、こういう表情を「鳩が豆鉄砲を食らったような」顔というのだろう…ディギッツに、エイレンは追い打ちをかけた。
「分からない? じゃ、もう一回だけ言ったげる。
あたしたちは、ニザーミヤ学府院から、体よく追い出された! ってワケ! そんなことも判らないで、アンタ、のこのこと旅に出たっての? いいわね、火精師サマは、何事にもポジティブ思考で」
ディギッツは、そこで足を止めた。正確には、脚が凍り付いて進めなくなった、と言うべきか。エイレンはゆっくりと振り返り、言った。
「思い当たる節、あるんでしょ? たっぷり」
北辰大陸の東端、イェーガシェラ半島に位置するニザーミア学府院から西へ、大ガラン山脈を迂回しながら赤十字回廊の要衝、ヨンギツァまででおよそ四日、あとは北行して十日たらずで、かつて「北方の覇王」と讃えられた都ガドリング…正しくはその遺跡…に辿り着くはずだった。
もちろん、旅程が予定に沿っていたのなら、の話である。
赤十字回廊の交差点に当たる商都ヨンギツァまでの行程は、平穏そのものだった。木賃宿まがいの宿所の体裁に不満ぶうぶうだったエイレンにしても、少なくとも昼行程の間の涼を取る「ひさし」くらいの役には立つのだから。
だが街道を北に向けておよそ二日で、周囲の様相がにわかに一変した。
行程表に、地図に示されているはずの宿泊地点とやらは、ある町は泥に埋もれ、ある村は何かしら巨大な力で破壊され、廃墟と化している。
確かに、北へ進路を取る旅人はきわめて珍しいとはいえ、少なくとも回廊の東側で、そんな情報は露ほども得られなかったのだ。とすると、この異変は、ここ最近のものと考えるしかない。
そして、その「原因」の一端を、間もなく彼らは身を以て体験することとなる。




