1-3再び、森の中で……
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寝起きが悪いエイレンをようやくなだめすかし、旅立ちの支度を始めるには、叩き起こしてからさらに1時間も要した。
「仕方ないじゃない! 女の子なんだから、いろいろと準備することがあるの。アンタとは、生まれがそもそも違うんだから」
それが彼女の口癖だった。
旅を続けるうち何度か同じ台詞を聞かされ、ついには反論する気力さえなくなってきた。あと二日もすると、本当に夜になってしまうんだ。いまは、少しの時間も惜しいんだ……と言ってみたところで、
「そんなこと判ってるわよ! アンタさまに言われなくてもねっ!」
の一言を返されて、それでおしまいだ。
…にしても、随分と準備に念入りだな。
ふと気づくと、洞窟からエイレンの姿が見えなくなっていることに、ディギッツは気づいた。もしかすると、髪を漉きに、外の水場にでも出て行ったのだろうか。
思わず、溜息が漏れてしまう。
こんな状況でも、こんな惨めな旅でも、外見を取り繕うのが名門イルーラン市の「姫君」たるエイレンの面目なのかも知れないが、それにしても……。
口の中で愚痴を呑み込みつつ、ディギッツの中で妙な違和感が芽生え始める。
違う。
少なくともつい先刻まで、彼女は「騒々しく」身支度を調えていたのだから。
じゃあ、この静けさは、何なのだ?
外に出て行った? どこに?
考えてみたら、僕たちは騒動の後、この洞の周辺をろくろく探索もせぬまま、眠りについてしまったのだ。
とすると、エイレンがこの近辺で身繕いする場所など、あらかじめ知っているはずもない。それに、ああ見えて彼女はかなり臆病、いや……慎重肌なのだ。
「エイレン!」
さして広くもない洞に、ディギッツの声が大きく木霊した。
もちろん、返事はない。
胸騒ぎは、徐々に大きくなる。
「そろそろ出発するよ! 準備ができてるなら! 早く戻って……」
さりげなく、平然とした声を張り上げるのが、そろそろ苦痛になってきた。動悸が激しくなってくる。
「エイレン! あんまり時間がないんだ! 早く出発しないと、本当に日が暮れてしまうんだ!」
ディギッツは洞から外へ、足を踏み出した。
雨はすでに霧雨へと変わっている。白いカーテンを下ろしたような様子で、深い森の奥は見渡せない。
夕刻特有の赤みがかった空と相まって薄いカーテンに包まれたような常葉樹の森は、静まりかえっている。
「いい加減にしてくれないかなぁ! 本当に、時間がないんだ…エイレン?」
かすかに、ベールの森の奥から返事らしき物音が木霊した。
ようやく、ディギッツは安堵の溜息を漏らした。
「なんで、そんな遠くへ行くのかな? 自分勝手な行動も、たいがいにしてもらえないかな? 僕たちの置かれた立場も、少しは理解して欲しいんだけどね!」
つい、ディギッツの口からは押さえつけていた愚痴が漏れる。
安堵感ゆえ……。
だから、彼は真後ろに迫っている「それ」に気づかなかったのだ。
巨大な影が、ディギッツへ被い重なったとき、初めて彼は、状況に気づいた。
そして、既に遅すぎた。
エイプ・オムの一撃が、ディギッツの頭上から振り下ろされた。
反射的に避けようとしたディギッツの左肩に、棍棒がぶち当たる。
べしゃっ!
ひしゃげたような鈍い音を立て、炸裂した攻撃にディギッツは倒れ込む。
……こいつらは、まだ諦めていなかったのだ!……
遠のく意識を必死にたぐり寄せながら、ディギッツは思考を巡らせようとする。エイプ・オムたちは森に潜みながら、二人の痕跡を辿り、そして洞窟を探し当てたのだ。そして、二人が外へと出る瞬間を、待ちかまえていたのだ。
……なぜ、そんなに……執念深く?
かすれる彼の視野には、濡れて泥濘と化した地面と、その先にいる毛むくじゃらのバケモノしか映らない。左肩を襲う激痛が、辛うじてディギッツの意識を「ここ」に繋ぎ止めているだけだ。
倒れて身動き一つ取れない彼を見下ろしながら、エイプ・オムは身の毛もよだつ咆哮を上げた。それは勝利の雄叫びか、それとも復讐の歓喜か。
ちょ…ちょっと…待て…
復讐?…何の?…誰の?…誰に?…どうして?…
一匹の大猿の咆哮に、仲間が呼応する。
霧の森に、猿たちの狂喜が木霊した。
エイレン!
ディギッツは、不意に彼女のことを思い出す。
エイレンは、彼女は…彼女も、彼女も…彼女も! ケダモノたちに蹂躙されたのか?
不意に、意識がはっきりと戻ってきた。
彼の中に、何かが灯った。
突然起き出したディギッツを見て、驚いたのは猿たちだった。
エイプ・オムの合唱はぴたりと止み、喉の奥から絞り出すような威嚇の唸り声にとって変わった。
左肩の激痛が周期的に襲ってくる。錫杖も…洞窟の中に置いてきた…。
武器もない。使えるのは右手だけ。こりゃ下手に起きない方が良かったか。
先だっての闘い以上に、今回は絶望的な状況だ。
だが…。
なせかディギッツには、戦える気がする。
そう、何かが「戻ってきた」ような直感が、いま一瞬、彼の脳裏をよぎったのだ。
「古のニマーマより契りし、約定を以て我は火を求む!」
ディギッツは朗々と、フルスペルを詠じる。
湧いてきた。火が灯った!
「ザネルの地に充ち満ちたる淵源より、解き放たれたる精霊を以て、我は之を使役す!」
猿たちは、威嚇の唸り声を上げながら、ディギッツを包囲する。
一触即発、包囲網はじりじりと狭まってくる。
だが、そこで猿の動きは止まった。
ディギッツの差し上げた右手の先に、光り輝く輪郭が徐々に拡がっていった。それは猿たちにも、何であるか理解できた。唸り声に、困惑と「畏怖」の響きが混じり始めた。
ディギッツは、その間を逃さなかった。
「ザップ!」
叫ぶと、一気に地面に叩きつける。
じゃっ!
炎と水が激突し、一瞬にして爆風のような水蒸気が吹き上げられた。
超高速度の熱風いや疾風は、瞬間的に彼を包囲するエイプ・オムに激突し、なぎ倒した。すさまじい悲鳴が周囲から上がった。
視界は全くゼロになり、つい今し方まで獲物を狙っていた大猿の群れは大混乱に陥った。疾風が吹き払われると、ようやく状況がはっきりしだした。
数匹の猿は、咆哮を上げながら顔を掻きむしっている。数百度を超える高速高圧の蒸気をぶつけられ、顔面が焼けただれたのだろう。二、三匹は数メートル先に吹き飛ばされたまま、微動だにしない。
巨大なエネルギーをぶつけられた湿地には大きな窪みができ、しゅうしゅうと音を立てながら、まだ蒸発を続けている。
だが…同時に、ディギッツの身体からも「精霊」が失せてしまった。一瞬の攻撃のために、僅かに残っていた精霊をすべて解きはなってしまった。そして、もう「何一つ」彼の中に残っていない。
左肩の激痛が戻ってきた。立っている気力もない。
一匹の猿が、よろよろと立ち上がる。視力を失い、半身を爛れさせながらも、ディギッツの気配を感じながら、にじり寄ってきた。弱々しく、だがそれでも復讐の執念だけはかき消さぬまま、拳を振り上げる。
こんな猿……ほんの一瞬前のディギッツなら、敵ではなかった。
だが、いまの彼には、こんな手負いのバケモノさえも、絶望的な存在になりつつある。無茶をしすぎた。一瞬でとどめを刺せなければ、二の矢はない。
再び、彼は地面に倒れ込んだ。
旅の目的さえ果たせぬまま、ここで猿になぶり殺されるのか……。
朦朧とする視界の果てに、光と炎が見えた。
何者かが近づいてくる。騒々しい罵声や喊声が、徐々に大きくなってきた。
だが既に、ディギッツにはそれを認識する力は残されていなかった。
後は暗闇……。




