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ザネル~記憶から消された新世界の物語~  作者: 麻生優樹
第一章 夜
5/39

1-3再び、森の中で……

                   3


 寝起きが悪いエイレンをようやくなだめすかし、旅立ちの支度を始めるには、叩き起こしてからさらに1時間も要した。


「仕方ないじゃない! 女の子なんだから、いろいろと準備することがあるの。アンタとは、生まれがそもそも違うんだから」

 それが彼女の口癖だった。


 旅を続けるうち何度か同じ台詞を聞かされ、ついには反論する気力さえなくなってきた。あと二日もすると、本当に夜になってしまうんだ。いまは、少しの時間も惜しいんだ……と言ってみたところで、

「そんなこと判ってるわよ! アンタさまに言われなくてもねっ!」

 の一言を返されて、それでおしまいだ。


 …にしても、随分と準備に念入りだな。

 ふと気づくと、洞窟からエイレンの姿が見えなくなっていることに、ディギッツは気づいた。もしかすると、髪を漉きに、外の水場にでも出て行ったのだろうか。

 思わず、溜息が漏れてしまう。

 こんな状況でも、こんな惨めな旅でも、外見を取り繕うのが名門イルーラン市の「姫君」たるエイレンの面目なのかも知れないが、それにしても……。

 口の中で愚痴を呑み込みつつ、ディギッツの中で妙な違和感が芽生え始める。


 違う。


 少なくともつい先刻まで、彼女は「騒々しく」身支度を調えていたのだから。

 じゃあ、この静けさは、何なのだ?

 外に出て行った? どこに?

 考えてみたら、僕たちは騒動の後、この洞の周辺をろくろく探索もせぬまま、眠りについてしまったのだ。

 とすると、エイレンがこの近辺で身繕いする場所など、あらかじめ知っているはずもない。それに、ああ見えて彼女はかなり臆病、いや……慎重肌なのだ。


「エイレン!」

 さして広くもない洞に、ディギッツの声が大きく木霊した。

 もちろん、返事はない。

 胸騒ぎは、徐々に大きくなる。

「そろそろ出発するよ! 準備ができてるなら! 早く戻って……」

 さりげなく、平然とした声を張り上げるのが、そろそろ苦痛になってきた。動悸が激しくなってくる。


「エイレン! あんまり時間がないんだ! 早く出発しないと、本当に日が暮れてしまうんだ!」


 ディギッツは洞から外へ、足を踏み出した。

 雨はすでに霧雨へと変わっている。白いカーテンを下ろしたような様子で、深い森の奥は見渡せない。

 夕刻特有の赤みがかった空と相まって薄いカーテンに包まれたような常葉樹の森は、静まりかえっている。


「いい加減にしてくれないかなぁ! 本当に、時間がないんだ…エイレン?」


 かすかに、ベールの森の奥から返事らしき物音が木霊した。

 ようやく、ディギッツは安堵の溜息を漏らした。


「なんで、そんな遠くへ行くのかな? 自分勝手な行動も、たいがいにしてもらえないかな? 僕たちの置かれた立場も、少しは理解して欲しいんだけどね!」

 つい、ディギッツの口からは押さえつけていた愚痴が漏れる。

 安堵感ゆえ……。


 だから、彼は真後ろに迫っている「それ」に気づかなかったのだ。

 巨大な影が、ディギッツへ被い重なったとき、初めて彼は、状況に気づいた。

 そして、既に遅すぎた。


 エイプ・オムの一撃が、ディギッツの頭上から振り下ろされた。

 反射的に避けようとしたディギッツの左肩に、棍棒がぶち当たる。

 べしゃっ!

 ひしゃげたような鈍い音を立て、炸裂した攻撃にディギッツは倒れ込む。

 

……こいつらは、まだ諦めていなかったのだ!……


 遠のく意識を必死にたぐり寄せながら、ディギッツは思考を巡らせようとする。エイプ・オムたちは森に潜みながら、二人の痕跡を辿り、そして洞窟を探し当てたのだ。そして、二人が外へと出る瞬間を、待ちかまえていたのだ。


 ……なぜ、そんなに……執念深く?


 かすれる彼の視野には、濡れて泥濘と化した地面と、その先にいる毛むくじゃらのバケモノしか映らない。左肩を襲う激痛が、辛うじてディギッツの意識を「ここ」に繋ぎ止めているだけだ。


 倒れて身動き一つ取れない彼を見下ろしながら、エイプ・オムは身の毛もよだつ咆哮を上げた。それは勝利の雄叫びか、それとも復讐の歓喜か。


 ちょ…ちょっと…待て…

 復讐?…何の?…誰の?…誰に?…どうして?…


 一匹の大猿の咆哮に、仲間が呼応する。

 霧の森に、猿たちの狂喜が木霊した。

 エイレン!

 ディギッツは、不意に彼女のことを思い出す。

 エイレンは、彼女は…彼女も、彼女も…彼女も! ケダモノたちに蹂躙されたのか?

 不意に、意識がはっきりと戻ってきた。

 彼の中に、何かが灯った。


 突然起き出したディギッツを見て、驚いたのは猿たちだった。

 エイプ・オムの合唱はぴたりと止み、喉の奥から絞り出すような威嚇の唸り声にとって変わった。


 左肩の激痛が周期的に襲ってくる。錫杖も…洞窟の中に置いてきた…。

 武器もない。使えるのは右手だけ。こりゃ下手に起きない方が良かったか。

 先だっての闘い以上に、今回は絶望的な状況だ。

 だが…。

 なせかディギッツには、戦える気がする。

 そう、何かが「戻ってきた」ような直感が、いま一瞬、彼の脳裏をよぎったのだ。


「古のニマーマより契りし、約定を以て我は火を求む!」

 ディギッツは朗々と、フルスペルを詠じる。

 湧いてきた。火が灯った!

「ザネルの地に充ち満ちたる淵源より、解き放たれたる精霊を以て、我は之を使役す!」

 猿たちは、威嚇の唸り声を上げながら、ディギッツを包囲する。

 一触即発、包囲網はじりじりと狭まってくる。


 だが、そこで猿の動きは止まった。


 ディギッツの差し上げた右手の先に、光り輝く輪郭が徐々に拡がっていった。それは猿たちにも、何であるか理解できた。唸り声に、困惑と「畏怖」の響きが混じり始めた。

 ディギッツは、その間を逃さなかった。


「ザップ!」

 叫ぶと、一気に地面に叩きつける。

 じゃっ!

 炎と水が激突し、一瞬にして爆風のような水蒸気が吹き上げられた。

 超高速度の熱風いや疾風は、瞬間的に彼を包囲するエイプ・オムに激突し、なぎ倒した。すさまじい悲鳴が周囲から上がった。


 視界は全くゼロになり、つい今し方まで獲物を狙っていた大猿の群れは大混乱に陥った。疾風が吹き払われると、ようやく状況がはっきりしだした。

 数匹の猿は、咆哮を上げながら顔を掻きむしっている。数百度を超える高速高圧の蒸気をぶつけられ、顔面が焼けただれたのだろう。二、三匹は数メートル先に吹き飛ばされたまま、微動だにしない。

 巨大なエネルギーをぶつけられた湿地には大きな窪みができ、しゅうしゅうと音を立てながら、まだ蒸発を続けている。


 だが…同時に、ディギッツの身体からも「精霊」が失せてしまった。一瞬の攻撃のために、僅かに残っていた精霊をすべて解きはなってしまった。そして、もう「何一つ」彼の中に残っていない。


 左肩の激痛が戻ってきた。立っている気力もない。

 一匹の猿が、よろよろと立ち上がる。視力を失い、半身を爛れさせながらも、ディギッツの気配を感じながら、にじり寄ってきた。弱々しく、だがそれでも復讐の執念だけはかき消さぬまま、拳を振り上げる。


 こんな猿……ほんの一瞬前のディギッツなら、敵ではなかった。


 だが、いまの彼には、こんな手負いのバケモノさえも、絶望的な存在になりつつある。無茶をしすぎた。一瞬でとどめを刺せなければ、二の矢はない。

 再び、彼は地面に倒れ込んだ。

 旅の目的さえ果たせぬまま、ここで猿になぶり殺されるのか……。


 朦朧とする視界の果てに、光と炎が見えた。

 何者かが近づいてくる。騒々しい罵声や喊声が、徐々に大きくなってきた。

 だが既に、ディギッツにはそれを認識する力は残されていなかった。


 後は暗闇……。


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