4-3敵地へ乗り込む決意
32
月齢は、すでに13を越えた。
太陽は既に西のの空へと傾きかけている。
夜の帳が下りる前に、何としてもニザーミアへと到達せねばならない!
だが、一行の焦りとは裏腹に、キュタールの峠での一騒動もあり、迂回した峠の難所越えというおまけまでついて、かなりの時間を無駄にしてしまった。
そしてまた、ここへきて新たな問題が深刻化しつつあった。
ことに、ラクーンとレクター、二人の体に起きつつある異変は深刻だった。
一行は噴火湾を南下し、ようやくイェガー・シェラ半島の付け根まで到達しつつある。行程的にはニザーミア学府院まであと二日、というところまで来たのだが…。
ユリアのいうデクス・バブル…『精霊の暴走』現象の影響は、ニザーミア…いやニーフ・ガスト塔へ接近するにつれ、さらに激しさを増してきたのだ。
スコール族のラクーンも、そしてもともと精霊防壁の弱いレクターにおいては、その影響は深刻だった。
こうなると、目的地を目の前にして、一行は頻繁に休息を取りつつ、じりじりと前進するしかなくなった。しかも、キュタールでの騒動に懲りて、赤十字回廊東端の駅逓に立ち寄ることさえ避けなければならない。
しばしの睡眠すら、不安な平原で摂らねばならないのだ。
「おそらく『敵』は、我々と同じルートで、先にニザーミアへ向かっている…いや、それはすでに確実だろう」
オルトは告げた。
「ニザーミアへ、何をしに…向かったんだろう? その…僕そっくりとかいう男は」
「少なくとも、友好的な目的でないことは確かだな」
想像するだに、身震いがしてくる。
一行は、仮眠を摂るために、平原に突き出た岩場の陰に身を寄せ、仮初のキャンプを設営した。相変わらず、ディギッツの火精は沈黙したままだが、オルトは携帯用の「火つけ道具」らしきものを使い、焚火を起こした。
精霊師と邪術師では、このあたりの手順もまるで異なるんだな。
ディギッツは、妙な感慨に捕らわれる。
一番深刻なのは、レクターだった。
柚足の合図が出た途端、そのまま岩場に倒れ込み、肩で荒い息をする。こうなるとディギッツとエイレンが、比較的無事でいられるのが、不思議なくらいだった。
「僕たちが…精霊を失って、ナマクラになったのが幸いしたのかもしれないな」
ディギッツに想像できるのは、その程度だ。
「ボクタチ、っておっしゃいましたけど、エイレンさんは先だって、キュレーンで水の精霊業を、お使いになりましたわネ。それでナマクラですの?」
そういえばそうだ。
「よく分からないんだけど…私、大伽藍山脈から下りてリヨルドに着いたあたりから、ずっと頭が重かったの。でも、それが…思わず使っちゃったクライスで、一時きれいに消えちゃったのよ」
「おそらく、バブルで放射されたエネルギーがアナタ方にも蓄積されたけど、たまたま発動させた水精呪で、リセットされたんですワ、きっと。
ところで今、あの時と同じように水精が使えますか、エイレンさん?」
エイレンは試しに両腕を高く掲げ、背中に回しながら呪を唱えかけたが、すぐに諦めたような表情になった。
「全くダメみたい。あの時、たまたま使えただけね」
「じゃあ、僕にも同じように…そのエネルギー…とかいうものが溜まってるんじゃないのかな? けど、僕の場合は、全然、火精を感じないけど」
「アナタは特異体質ですから、分析の範囲外ですワ」
ユリアは平然と、嫌なことを言い放つ。
だが…休息を取っても、レクターの容体は悪化するばかりだった。
「すまん…ディギッツ…なんかこう…口から、内臓が…飛び出しそうなくらい…なんだ」
レクターは口を押さえ、ついにうずくまる。
見ると、鼻から、そして耳からも、鮮血が吹き出している。
瘴気の影響は、それだけ大きいのだ。
はあ、はあ…と激しく息を吐くレクターは、それでも気丈に振る舞おうとする。
「しかしまあ…ディギッツ…おまえ、相当にタフだよ…。どこで…そんなに、鍛えられたんだ?」
「おそらく、イクスペルだろうな」
ディギッツが言った。
「僕の生まれは北のはずれ、イクスペルの漁村なんだ。
先だって、邪術師ユリアが言っただろう? 北極柱のことを。僕も見たことはないけど…故郷イクスペルは、あの近くなんだよ。ひょっとすると、知らず知らずのうちにいつも瘴気に曝されてたから、いつの間にか慣れっこになってたのかも…知れないな」
「ひゃあ! イクスペル…か…。オレ、初めて知ったよ。あんなトコ…まだ、人間が…住んでたんだな……とっくの昔に……誰も……いなくなったって……」
レクターは、ここで激しく咳き込んだ。
鮮血が口からも逆流し、こぼれ落ちる。
一生懸命、エイレンは彼の口をぬぐった。だが、こぼれ落ちる血は、止めどがない。
「もう、限界だな、この人は」
ラクーンはぽつり、と言った。
「オレは、この人を連れて、リヨルデへ戻ることにしよう。これ以上、一緒にいても、足手まといになってしまいそうだからなあ、残念だがな」
よく眺めると、ラクーンの肌は黒ずみ、二の腕には血管の筋が浮き出ている。
瘴気が逆流して、彼の身体を蝕んでいるのは明らかである。
ラクーンもまた、ひた隠しにしていたが、身を蝕む『精霊』の瘴気と、必死になって戦っていたのだ。
「情けない話だ。仲間の敵討ちなんて、意気込んでたんだが…オレの出番じゃなかったようだな。あとは頼む…必ず、仇を…取ってくれ」
どれほど心残りだろうか。
それが判るだけに、ディギッツとエイレンには、大きく頷き、彼の手を握ることしかできなかった。
※
「きついことを言って悪いが、ここから先は強行軍だ。もう、ゆっくり休息している暇はないぞ」
レクターを見送ったあと、オルトが言った。
太陽は、すでに西の空低く傾き始めている。夕闇が、すぐそばまで迫っているのだ。
「それから一言言っておく。
お前たちは、住み慣れた学び舎に帰るんじゃない、危険きわまりない敵地に乗り込むんだ。そのつもりでいろ」
冷酷なセリフだが、それが現実だ。
ディギッツにも、エイレンにも、それは分かっていた。
「ディギッツ、あのね、私にも、気づいたことがあるの」
黙々と歩を進めつつ、エイレンが思い出したように、語り始めた。
「いつだったっけ…あ、そうか…洞窟にいたときだったかな、キミが聞いたこと。
ヤーマの灯火騒ぎの後、過ぎ越しのお祭りがどうなったか、知りたがってたでしょう? けどね、実はあたしも…全く知らないのよ。修行中に気絶して、気づいたら、もうお祭りなんかとっくに終わっていて、目覚めたとたんに、オービス首席導師様のもとへ、連れて行かれたの」
「じゃ、じゃあ、僕とまったく、一緒だったんだ」
「そうよ、あたしたち、一緒なの」
荒い息を吐きながら、まるで気を紛らわせるように、エイレンは話し続けた。
「それに、ね。ニザーミアから使者を命じられたとき、キミが首席導師様にお会いしたときのこと、あんまりよく、覚えてない、って言わなかった?
実は私も、よく覚えてないのよね。
ガドリングへの使者を頼む、って言われて…そのあと、なぜか両手を出すように命じられたけど…そのあと何があったのか…気づいたら控えの間に座っていて、どうしたのかと思ったら、あたふたと支度させられて。そのあと、キミが来たでしょ。何が何だか判らなくて、だからあたし、かなりムカツイてたの、あのとき」
「そうか…それもまた…僕と一緒だ」
最初の出会いのとき、エイレンがひどく不機嫌だった理由がこれで納得できた。
「ね…思うんだけど、そのときの記憶は、意図的に…消されてるんじゃないかな?」
「な、なんのために?」
「わかんない。けど、何かがあった、って思うのよ。たぶん、私たちがこの使命を果たすために、必要だった何かが、そのときに施されたんだ、って考えれば……」
「あらあら、エイレンさん。また苦しそうでらっしゃるケド、無理はなさらない方がよろしいのではありませんノ?」
連れだって歩いていたディギッツとエイレンに、いきなりユリアが声を掛けた。
「無理…なんかしてないわ。だいいち、休んでる場合じゃないんでしょう? あなたの同僚さんが言ってるじゃない」
「護衛の言うことですモノ、あまり真に受けることはございませんワ! それにニザーミアを前に倒れたら、元も子もありませんものネ。
それにディギッツさんも、あまり無理をなさらないほうがヨロシイんではなくて?」
「いや、僕は大丈夫……」
「だって、ひどい傷でしたのヨ~。ワタクシがお手当て差し上げたときには、上半身が傷だらけ、火傷だらけでらしたものネ!」
「え? ディギッツ、この人に、手当てしてもらったの?」
エイレンが、驚いたように尋ねた。
「あ、ああ……」
「そりゃもう、当然ですわネ~。だって姐様が弾き返した遅効爆裂を、真正面からお受けになったんですモノ。そのまま放っておく方が、どうかしてマスわよ、ねぇ~」
「そーなんだ。へえー、この子に、手当てしてもらったんだ……。
それはそれは。とっても、良かったわね」
「あ、いや、それはニキータ前導師の命令とか、だったから」
「そーそー、あれはたしか…エイレンさんが、北の岬へオルトと二人きりでお出かけの間、のコトでしたっけ?」
「……はあ?」
今度はディギッツが困惑する番だった。僕が気を失っていた間、エイレンはオルトと出かけていた? そんなこと、彼女からは何も聞いてないし。
「それって、エイレン…?」
「姐様の命令で、オルトはお姫様を、復興現場までご案内差し上げたんですのヨ。
あの無愛想なオルトにしては、積極的でしたわネ~。
それに、お誘いしたらエイレンさんも、二つ返事で喜んでご一緒したんでしょ。こういうのって、一般には何てお呼びするんでしたっけ…デエト…とか…」
「はいはい! くだらないおしゃべりは、もうおしまい! 先を急ぐわよ!」
エイレンは、ユリアの言葉を遮って、そのまま早足で先に行ってしまった。




