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ザネル~記憶から消された新世界の物語~  作者: 麻生優樹
Introduction
3/39

1-1なんとも悲惨な出発の光景

                       1


 深い森の中で、奇妙な戦いが、えんえんと果てることもなく続いていた。


 土砂降りの雨は激しく地面を叩きつけ、煙るように飛散する。だから視界が、ほとんど効かない。

 地面はほとんど泥の海と化すなかで、二つの人影を囲むように、数体の巨大な白い獣が繰り返し、執拗に襲いかかっているようだ。

 白い獣たちは、二本の長い腕をムチのように振るいながら、小さな人影に何度もつかみかかる。


 大白猿と呼ばれる大型の類人猿だ。


 かなりの威力がある上腕部から繰り出される掌がひとたび当たってしまえば、おそらく襲われている二人はひとたまりもなく、吹き飛ばされて一巻の終わりだ。

 ところが意外なことに、これまでの大白猿の攻撃はことごとく、空振りに終わっている。紙一重の差で掌は空しく空を切るばかりだ。

 すさまじい土砂降りの雨がカーテンとなって、猿たちの視界を邪魔するのか、あるいは襲われている人間側が、それなりの手練れなのか。


 黒い人影の二人は、どうやら少年と少女のような風体である。


 着込んでいるのは耐水性の雨具らしい。少年の方は、さらに長い杖らしき得物を手にしている。

 もっとも、少年はこれを武器にして闘っている様子ではない。

 単に敵へ向けて振りかざしているだけだ。

 そして少女はといえば、まったくの丸腰のまま、両腕を胸の前で十字に組んで、跪いている。戦闘に参加しているという体ではない。

 攻撃どころか、防御にすらまったく役立たぬ体勢なのに、なぜか猿たちはこの二人を圧倒することができない。


 よく見れば、少年が何かを呟き、棒を振りかざすたび、対象の大猿の前で、小さな火の玉が弾け飛んでいる。土砂降りの雨に弾かれると、白い火花が飛び散るところを見ると、炎ではない何か別物かも知れない。


 猿はこの小さな「かんしゃく玉」によって眩惑されているようだ。もっとも威力はさほどのものではなく、文字通り単なる「目くらまし」だ。

 一方、猿たちもかなり執拗で、この少年少女を泥の海に叩きつけて息の根を止めるまでは、決して戦いを止めようとしない。

 あわせて五体いる怪物たちは、その外見に似合わず、かなりの知能を有しているようだ。リーダーらしき大柄の猿の甲高く短い叫び声を合図に、左右からローテーションを組んで、二人を挟み撃ちにしつつ、その大きな長い腕を交互に振り下ろす。

 顔面は毛むくじゃらで表情は判別できないが、すさまじく興奮していることだけは確かだ。


 と、少年の傍らでうずくまっていた少女が、何か一言叫び声を発した。

 同時に彼女が胸の前で組んでいた両腕を勢いよく天に向けると、黒いフードで隠されていた長い髪が、まるで叩きつける雨粒に逆らうかのように舞い上がった。

 髪は逆巻き、まるで紅蓮の炎が彼女の頭髪に宿ったかのように。


 ごう、と大気中の水が少女を中心に渦を巻き、大猿たちもその渦動に翻弄されて一瞬、たたらを踏んだ。

 再び、少女が少年に向かって叫んだ。

 彼は杖を水平に構え、頭上で一閃する。

 青白い炎の塊が、最前列で踏みとどまっていた白猿の、ちょうど毛で覆われた顔面を、狙い澄ましたようにヒットした。

 大気を切り裂くような、甲高い悲鳴が響き渡る。土砂降りの雨音にさえかき消されることのない、その大音声は仲間たちの動揺を誘うのには充分だった。

 しかも、運の良いことに、ヒットした相手は、群れのリーダーだったようだ。

 顔面を両手で激しく掻きむしりながら、リーダー猿は悲鳴を上げ続ける。


 それはまた仲間に対する、撤退命令でもあった。



 こころなしか、雨も小降りになってきたようだ。


 少年と少女は何とか雨宿りできる場所を探しながら、ぬかるみの中をさまよい続けた。

 疲労はピークに達しつつある。だが、ここで気を抜けば、再び猿たち…あるいはもっと性質の悪い敵に遭遇してしまうかも知れない。

 すでに刻限は「夕刻」に達しつつある。

 この時期、森では夜行性の生物たちが目覚め始める。陽のあるうちに、この果てしなく続く大森林地帯を抜けられないならば、せめて彼らの目の届かない安全な場所に避難するしかない。

 

 二人は大木の根元に口を開けた洞に潜り込み、一時の休息を取っていた。

 まだ「夕刻」は一両日ほど続く。目的地…ガドリングまでの行程を考えれば、ここで睡眠を取っておかねばならない。


「寒い……」


 やっと少女が言葉を発した。

 土砂降りは止み、すでに霧雨のように変わっていたが、先ほどの大立ち回りでぐっしょり濡らした衣装は、急速に少女から体温を奪いつつあった。


 まずはたき火を起こし、濡れた装束を乾かすのが何よりなのだ。もちろん火は、厄介な敵から身を守るにも好都合である。


「けどあんた、ろくに火も起こせないのよね。ディギッツ」

 少女は、吐き捨てるように声をかけた。

「起こせるさ!」

 ディギッツと呼ばれた少年は、無愛想に言い返す。

「どっかに、乾いた木でもあればね。エイレン、そのへんを探してこようか」

「なに常識っぽい文句たれてるのよ。そんなこと、聞いちゃいないでしょ?」

 そんなことは聞いていない。ではエイレンと呼ばれた少女は「何を」聞きたいのか。

 ディギッツにはよく判っていた。そしてそれは、彼の傷口に塩をすり込むような行為そのものだった。


 エイレンは「おまえには種火すら熾せない」と言っているのだ。

 火の精霊使い…火精師のくせに、火を起こすことさえ、ろくにできないではないか。彼女はディギッツをなじっているのだ。


 だが、ディギッツはあえて、そんなエイレンの当てこすりを無視して、言葉を継いだ。

「だいたい寒いのは当たり前だろう。そんなずぶ濡れのチュニックを着たままじゃ…」

「じゃアンタの前で、服を脱げっての? じょーだんじゃないわ!」


「エイレン。僕がいると邪魔なようなら、僕はここを出て、別の洞を探してもいい」


 少女は、少年の静かながらもきっぱりとした物言いに一瞬、継ぐ言葉を失ってしまったが、少年がにわかに立ち上がるのを見て、彼は本気でこの洞を出て行こうとしているのだと気づいた。


「出ていけ、なんて言ってないわよ! なにそれ、あたしに対するイヤがらせ?」


 少年は何も答えず、濡れたままのチュニックを形だけ整えてから、おもむろに重い背嚢を手にしようとしている。

「どういうつもりなのよ、ディギッツ! 本気で出て行くわけ? それじゃ、あたし一人でガドリングまで行けっていうわけ? 命令を受けたのは……あたしたち二人なんだからね! あんた、首席導師様の命令、本気で逆らおうって言ってるの?」


 首席導師様……。


 その一言に、少年は一瞬、行動を止めた。

 確かに、命令は受けた。自分たちにしか果たせない密命なのだ、と、因果を含められ、ニザーミアを送り出されたのはわずか5日前のことだ。

 命令に逆らうつもりなんか、全くない。

 だけど、問題は…命令した首席導師様ご自身が、僕たちに「密命を果たすこと」を本当に期待されているのか、どうかなんだ!

 ディギッツは、叫び出したかった。

 もちろん、それは口を衝いて出ることはなかった。言っても無駄なことだから。

 


「アンタはいいわよ。勝手して、逆らって、好きにすればいいのよ。でもね、あたしはどうなるわけ? こんな最果ての地までやってきて…使命も果たせずに、ニザーミヤまで一人で帰れる?…ちょっとはマトモに考えなさいよ。あんたそれで平気?」


 エイレンの怒りは、徐々に湿気を帯びてきた。


「そんなことだから…アンタがそんなザマだから…」

 ディギッツは、すでに洞の外に出る気も失せ、じっと彼女の言葉を聞くしかなかった。


「私たち、こんなところまで追放されちゃったんじゃないの……」


 東のニザーミア学府院から「ある密命」を帯び、北方の廃都ガドリングに派遣される、男女の特使。

 それが、火精師ディギッツと水精師エイレンに振られた役割だった。

 そして彼らは、荒廃した街道を抜け、はるか北へ向かっておよそ20日ばかりの行程の旅に出た。


 もちろん、それが単なる「体のいい厄介払い」であることも、彼らはうすうす承知している。「密命」とやらを果たすには、二人はあまりにも非力だ。

 ひょっとするとミザーミア学府院は、最初からこの二人を捨て駒にするつもりで送り出したのかもしれない。


 まともに火をおこすことさえできなくなった「火の精霊使い」の男子と、ろくに水を操ることさえできなくなった「水の精霊使い」。

 この「出来そこないの精霊師」二人が北の果てガドリングへ辿り着くには、あまりにも過酷な世界が待ち受けていたのである。


 

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