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ザネル~記憶から消された新世界の物語~  作者: 麻生優樹
第三章 影
25/39

3-3第一波、ヨンギツァ襲来

                   23


 ヨンギツァ市は、赤十字回廊の交差点にあたる要衝であり、また東西と南北に連なる交易都市群のリーダー的存在として、自らを任じていた。ことに、百年ほど前の「北方の覇王」ガドリングの脱落によって、その地位もまた、万全となりつつあった。


 また、東に大伽藍山脈、西にビズワ河と対岸の大岸壁に挟まれた峡谷の間に発達した中継地という地政学的な条件から、ここは一種、難攻不落の要塞といった様相を呈しており、住人たちの間にも、よくいえば独立自主、卑俗な言い方をすれば反抗的な気性が強く、だからこそ一応はニザーミアの指導精霊師を受け入れつつも、市を牛耳る自治組織…有力者の代表による統治機構「乙名衆」は、決してニザーミアに気を許していなかった。


 市の象徴は、西河岸の高楼としてそびえ立つ「物見の塔」である。

 峡谷に挟まれたヨンギツァにあって、この塔からの眺望は、古来より外敵に接近を知るための防衛の要であった。

 ニザーミア学府院の仲介による「ナナシ同盟」が赤十字回廊諸都市の間で締結されてからはや百年余り。

 古の千年紀ニマーマ時代より頻発したという…確かな記録は残っていないが…この地を侵す外敵と呼べる脅威はすでにいなくなったものの、この塔には常に、十名余りの乙名衆から一名の監視人が輪番で常駐しており、昼の間は常に見張りを絶やさなかった。

 とはいえ、これも現在は形式的な名誉職となっており、実質的には乙名衆……だいたい、功成り名を遂げた交易商の老人たちが日替わりで務める、一種のセレモニーでしかなかった。


 リクード・ベスタ老は、そんな乙名衆の中では最長老的な存在だった。もっとも、乙名衆たちの間でのヒエラルキーは、基本的に存在しないのだが。

 ただいずれにせよ、彼に後進に道を譲る、などという謙虚な心がけなど皆無であり、こと「物見」に関しては、自らを第一人者と任じていた。他の乙名衆たちが「形ばかりの」物見役を果たすのに対して、彼は休息時をのぞけば、しばしば天測台に立ち、地平線の先を眺めるのが常だった。


 こればかりは、ケツに羽根の生えた若造に任せられん。


 それが日頃の口癖だった。

 もっとも、その日に限っては「過ぎ越し明け」で祝祭気分が明けやらぬという事情も手伝い、不謹慎にも酒を片手に登楼していたのだが。

 そのため「ついにやってきたその日」の兆候を察知するのに、いささか遅れが生じてしまったことは否めない。事実、その日ばかりは天測台の屋上に陣取った彼は、しばし酒をきこしめした後、うたた寝を決め込んでいたのだから。


 もっとも「発見」が多少早かろうが遅かろうが、結果に変わりはなかったのだが。


                 ※


 どこから聞こえてくるのか、妙に耳障りな羽音が、次第に大きくなってきた。

 ベルタ老は最初、季節はずれの羽虫が、塔の頂上まで迷い込んだと思った。


 ……なんじゃい、せっかくいい気分で寝ておったに……。


 彼は重い腰をあげ、羽虫を退治しようと、目を開け、長椅子から起きあがった。

 寝ぼけ眼を凝らしてみても、虫など、どこにもいない。

「妙…じゃの…?」

 それに、羽音は一つではない。どうも…かなり多くの虫たちが、まとめて接近しているような、不愉快な音だ。

 この八月明けは、ヨンギツァにとっては最良の季節である。南からの季節風がちょうど回廊を吹き抜ける、さわやかな時期なのだ。もちろん虫が発生するような時節でもない。

 ほろ酔い気分をふりほどきながら、ベルタは高楼の天測台の上に立った。


 丘陵地帯を南に流れるビズワ河と、ソーワ河の分岐点、旧アッカドの町の果てに、大ガラン山脈の険しい山嶺がそびえている。が、問題は、その上だった。

 雲の形状がおかしい。

 妙に赤茶けたような色彩を帯び、まだ月齢で7日目だというのに、まるで夕暮れのような色をしている。

 それに、時折、山嶺の彼方に光る、まるで稲光のような光線は、何なのか?

 彼は、望遠鏡を地表附近に向けた。

 雲が、ゆらめいている。いや……あれは、雲ではない!


 雲…にしては、妙に色が毒々しい、朱色というか、鈍色というか…濁った血が、まるで水面から湧き上がってくるような、イヤな光景だ。

 もやもや……と、東の方角から接近してくるそれは、雲ではない。


 ──虫の大群だ!!──


 ようやく、ベルタ老人にも、事態が理解できた。

「ミージェ! ミージェ虫がきおったぞ! 禍つ雲が起こったぞ!!」

 老人は叫びながら階段を駆け下りようとして、石段に蹴躓き、そのまま転落した。

 

 不吉な羽音は、その音量をどんどん増していき、やがてその「禍つ雲」は、塔へと押し寄せてくる。

 市民に知らせようとして石段に蹴躓き、そのまま気を失ったベルタ老は、ある意味、幸いだったのかも知れない。

 これから起こる惨劇も、そして身を断ち切られる苦痛も、その一切合切を経験しないで済んだのだから。


                 ※


 市民たちが「大廊下」と呼んでいるヨンギツァ中心部の交易市は、ちょうど過ぎ越し祭礼を終えたあと、次に来る秋の夜長に向けた「買い込み」の市民でごった返していた。ことに八月末は、山を越えてボルグ羊が降りてくるので、新鮮な肉が大量に出回る時期でもあるのだ。


 最初に悲鳴を上げたのは、野菜売りの若い女だった。

「なにこれ! ムシ! 虫よ! たかってるの!」

 商品の青物に食らいついた羽虫を見つけ、彼女は必死になって振り払う。

 だが、虫たちは、その数をどんどん増してくる。


 振り払うどころではない。これは異常事態だ。


「ミージェだ! こいつ! どこから湧いてきやがった!」

 悲鳴を聞きつけ、売り子の男も加勢する。ミージェ…それは、ガラン山脈の南、湖沼地帯に多く棲息する羽虫の一種で、植物と動物両方の特性を持つ、奇妙な生物である。

 夜には水辺で小動物を捕らえ、昼は沼地の芦原の上に群れを作り、光を養分に変えて成長する。

 見た目は「梨モドキ」に羽根をつけたような不気味な風体だが、別段、人に害を与えるほどの生物でもない……それが、単体でいる限りは。


 だが、いまのミージェは、単体ではなかった。

 羽虫たちは、どこからともなく飛来し、やがて「大廊下」全体を包み始めた。

 商品を食い散らし、屋台を覆い、そして、最後には人の身体にまでまとわりつき、その小さな口でついばみ始める。

「虫! ムシが襲ってくる!」

「に、肉が…せっかく仕入れた肉を食うんじゃねえ、コンチクショウ」

 口々に商人たちは悲鳴を上げ、大立ち回りを続けるが、もはや市場を守る、などという事態ではなくなっていた。

 すでに虫の大群は、雲霞となって、町全体を覆い始めていたのだ。


「ダメだ! 逃げろ! こりゃもたねぇ!」

 親方らしき人物が、周囲に向かって大声で怒鳴った。

「せかさないでよ! まだ勘定が終わってないんだから」

 それでも未練がましく、拡げた商品や代金を回収しようとする女たちを叱りつける。

「バカヤロウ! 命が危ねえってときに、カネの算段してどうする!

 さっさと来い!」


 混乱が混乱を呼ぶなか、商人たちも、そして市民たちも、大あわてで近くにある建物へと逃げ込んだ。


 既に、周囲には雲霞がたちこめ、視界はほとんど利かない!


 群がる虫たちは壁のように、逃げまどう市民たちの前に立ちはだかる。人々はひたすら両手を振り回し、目を瞑ってただ前へと歩を進めるしかないのだ。

 踏みつぶしたミージェから浸み出した脂に足を取られ、転ぶものが続出する。

 先に避難したものたちが、あわてて扉を閉め、残された者は、必死で叩く。

「あけてちょうだい! お願い! まだ子供がいるの!」


 半刻が過ぎた。


 そこここに、倒れて動かない者が、石畳に転がっている。虫がたかり、黒々としたその塊は、もはやぴくりとも動かない。


 つい先ほどまで活気に満ちていた大廊下は、またたく間に、死の回廊と化していった。


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