8 怪物にはバントを捧げよ! 氷野と水走そして呉羽
その男は浅黒い肌の持ち主で、日差しの強いグラウンドにおいては唇のピンクが特に目立っていた。その男は一塁手だったが、守備に就く時以外は常に自前のバットを携帯しており、実質的にはほとんど「打者」に近い人物だった。
もし高校野球がDH制だったならば、おそらく彼は試合中ずっとバットを握っていることだろう。
相手チームのベンチから伝わってくる『風格』は、初対面の俺たちにすら、そのような印象を抱かせた。
男の名は綿引。
平成の怪物である。
「そう、あの者こそ綿引武敏。江袋高の3年生。春の甲子園で1試合4本の本塁打を放ったとんでもない化け物よ!」
いつものように相手選手の恐ろしさを教えてくれるのはマネージャーの氷野。
相変わらず雑誌『野球ボーイ』が情報源のようだが、彼女なりに俺の仕事を手伝おうとしてくれているのはわかるので、素直に傾聴させてもらう。
「――身長180センチ、体重90キロのきっちり締まった身体から放たれる高弾道のホームランは、プロ関係者の間でも広く知られており、今年のドラフト1位候補として各球団がネットを張っている。しかし本人はプロ行きの話をまるでしないため、密かにメジャーを目指しているのではないかとも噂される……」
「単にシャイでお喋りしないだけらしいけどな」
思わずツッコミを入れてしまった。
強面で知られる綿引さんだが、なにぶんホームラン・アーチストとして知られるようになる前から、ほとんど人と喋ったところを目撃されていないそうなので、きっとメジャーなんてのは周りの人間がごちゃごちゃと話を盛っているだけだろう。
「………………」
3塁側ベンチでバットと一緒に待機している綿引さんは、ピンク色の唇を真一文字に結んでいた。その目線は投球練習を行う水走の姿だけを捉えているように見える。
「……あんまり話の腰を折らないで欲しいわね」
「ああ、ごめんよ」
「それで今回の作戦はどうするの?」
「そうだな。できれば全打席敬遠したいところだが……」
残念ながら過去の前例があまり評価されていないので諦めざるを得ない。
人の尊厳の範囲内で、かつ自分たちが胸を張れる試合になるならば、多少の卑怯な作戦は厭わない、というのが俺や水走のスタンスだけど、有名選手への敬遠策については実行した場合のバッシングを考えると、できるだけ避けたいのが本音である。
高校生らしく正々堂々と戦え、とか。
卑怯者の球児を甲子園に入れるな、とか。
想像するだけでも恐ろしい。
だが、相手は3年生の今夏までに通算67本塁打を記録している化け物。
いくら水走でも一発くらいの被弾は免れまい。俺なんて問題外だ。
しかし敬遠策は……。
「……やはり敬遠はダメだ」
「そりゃそうでしょうけど、じゃあどうするのよ」
氷野は不満そうに頬を膨らませる。
わりと珍しい表情だ。
「うーん。一応1つだけ考えてあるんだが、いかんせんうまくいくかどうか」
そもそも水走がこの案を呑んでくれる気がしなかった。
あれは顔だけ温和そうに見えて、内側では投手たる者のプライドをきっちり守っている男だからなあ。
わざとヒットを打たれろなんて……きっと承服してくれないに違いない。
× × ×
今日も今日とて舞洲球場のサイレンは鳴り響く。
いつの間にか準々決勝である。お客さんの数は初戦と比べてどんどん増えてきていて、1塁側スタンドにはウチの学校の生徒の姿もチラホラ見受けられた。
もっとも待望の応援団のほうは未だに編成される兆しすら見えない。
あれがあるだけで空気とか変わるんだけどなあ……なんて小さく嘆きつつ、俺はベンチからマウンドの水走にサインを送った。
『アレタノム』
『オコトワリ』
せっかく頑張って作ったサインなのに、きっちり首を振られてしまう。
1回表。水走は連投を物ともしない快速球で、瞬く間に江袋高の上位打線を三者三振に仕留めてみせた。
4番綿引さんの出番はまだ訪れない。
× × ×
試合前日――というか5回戦・朝陽寺戦の帰り道のことだ。
学校近くでバスから降りた俺たちは、灰塚さんから大きな荷物を受け取った。
曰く、綿引さんを打ち取るためのスペシャルアイテム。
部室に戻ってからみんなで中身を取り出すと、荷物の中には大量のおにぎりの他に1枚のDVDが入っていた。
『こんにちはー! このディスクはパソコンに入れて使ってくださいねー!』
映像の再生はそこまで。
ニコニコ笑う灰塚さんをテレビから消して、ディスクをノートパソコンにブチ込むと――出てきたのは、それまでの綿引さんの全打席をわかりやすく表でまとめたエクセルのデータだった。
そこから読み取れたのは、綿引さんについての2つの情報。
「……この人、67本もホームランを打っているのに打点は少ないわね」
「それに犠打がとても多いよ。4番打者なのに……」
「チームバッティング重視という奴なのかしら。変なチームだわ」
こんな具合で氷野と水走が割り出した分析結果に、別のフォルダに入っていた江袋高野球部というチーム自体の戦績も加味しつつ、最終的に俺が編み出したのが……今日の作戦だ。
すなわち『江袋高の監督はやたらバントさせたがるから、いっそ綿引さんには全打席バントしてもらおう作戦』。
綿引さんにホームランを打たれないために、あえて前のランナーを出塁させて、できるだけバントしやすい環境を整えてやろうというわけだ。
データによれば、江袋高は過去3年間で極端に併殺打が少なかった。
これはおそらく着実にランナーを次のベースに進めていった結果だ。
きっと相手の監督さんは「ランナーがいるならバント」「ゲッツーは許さない」というドクトリンをチームに浸透させているタイプなのだろう。その教義はどんな打者にも当てはめられていて、4番打者の綿引さんすらも例外ではないわけだ。
「綿引さんの犠打の数を考れば、バントができるタイミングなら必ずバントを使ってくるはず。だから初回は1死1塁2塁で回そうと進言したのに、当の水走がアレではなあ」
「ほんとに……相変わらずみみっちい作戦よね」
ベンチでため息をつく氷野。
あれだけ作戦を求めておきながら、いざ俺から聞き出したらこの言い草である。
全く。だから女って奴は……おっといかんいかん。
投手たる者、男女意識は区別までに留めておかないと。
× × ×
『2回表、江袋高校の攻撃は――』
『4番・ファースト綿引くん――』
聞くところによれば、今日の試合の球場アナウンスを担当するのは江袋高放送部の方らしい。丈夫な木綿のようにしっかりした声色は、彼女の日頃の鍛錬の証なのだろう。ちゃんと伝えたいという感情が俺のところにまで届いている。
「かっとばっせかっとばっせ、わったひきー!」
「わったひきー! わったひきー!」
球場の雰囲気がガラリと変わった。
3塁側の江袋高応援団、1塁側の雑多な観客、両軍のベンチメンバーその他――誰も彼もがバッターボックスの綿引さんを見つめている。
衆人環視の中で右打席の彼が睨みつけるのはマウンドの水走有也ただ1人。まるで他のことなど気にしていないかのように……ただただジィっと投じられるボールに狙いを定めているようだった。
「すごいわね」
俺の隣で氷野が感心するように頷く。
「何がどうすごいんだ?」
「いじわるな言い方しないでよ、あんまり……そうね、積雲の玉内さんも人を引きつける力があったけど、あれは主にあの人の人柄によるものだったわ。でもこの綿引さんは違う……その抜きんでた能力にみんなが関心を寄せている。かくいう私もこの対決が気になって仕方がないもの」
「……オーラって奴か」
俺の言葉に、氷野はセーラー服の上からポリポリと脇腹を掻いた。
我関せずといった反応に、俺は小さく「ケッ」と悪態をついてしまう。
だが、俺自身もまた、この強者対決の顛末を心の底から求めていたりした。
マウンド上の水走はすでに3球ほどボールを投げている。俺たちがちょいちょいと会話している間にカウントは1ストライク・2ボールになってしまっており、これはいわゆる『バッティングカウント』だった。端的に言えば投手不利ということだ。
ここで水走が珍しくワインドアップポジションを取る。
「わ、能見みたいで格好良い!」
ベンチの三住先輩が嬌声を上げた。相変わらず性格の可愛い人だ。
水走はそこから、いつもの地を這うようなモーションでボールを投じた。
あの握りはおそらくスラーブ。
右打者に対して切り込むように変化する変化球。左対右の相性の悪さをごまかせる、おそらくバッテリーにとって最善の選択だ。
案の定、綿引さんはそのボールを見逃した。
「ストライク・ツー!」
わずかに縫い目をずらして、いつもより曲がりの小さいスラーブを投げた水走の作戦勝ちだった。あいつのあの柔軟さは本当にうらやましい。
一方で綿引さんは苦い顔一つしない。
むしろ浅黒い目元からはわずかな悦びすら見て取れた。
「2球ほど外に外してからの内側いっぱい……これでツー・ツーね」
氷野にトン、と太ももを叩かれる。
「な、何だよ」
「次にミズハイくんが何を投げるのか賭けをしましょうよ」
「別にいいけど……勝負が気になるんじゃないのか?」
「ぶっちゃけ、あんたなら何を投げるのか聞きたいだけよ」
氷野はフッとスカしたように笑う。
ああ、そういうことか。
だったら――
「もし俺が今津先輩なら、水走には四球で我慢してもらうかな」
「……じゃなくてあんたがマウンドにいたらって話なんだけど」
どちらにしろ言うことは変わらない。怖い打者は避けるに限る。マウンドの帝王たる投手だからこそ、絶対王政時代の名君主のごとく賢く戦うべきなのだ。
その点、水走の5球目は愚かだと言わざるを得なかった。
何を思ったのか、ど真ん中のストレートである。指示していたサインと違ったのか、キャッチャーの今津先輩は捕球することが出来ず後逸していた。
「え、見逃したんか、あいつ」
鴻池監督が驚きの声を上げる。
あの絶好球を見逃した綿引さんは――なんと無表情で1塁に走り出していた。
「あっ……振り逃げだ!」
あまりのことに投げるのを忘れていた今津先輩が慌てて1塁の赤井にボールを放る。
赤井はこれを受け取り、どうにかアウトを取った。
「……まさか手が出なかったわけじゃないわよね」
氷野は訝しげな目を相手ベンチに向けつつ、手持ちのスコアブックに『×(見逃し)』と『K(三振)』を書き込む。
「いや、そこは振り逃げの記号があったような気がするんだけど」
「あ……わかってるわよ」
ひとまず、長い長い綿引さんの第1打席が終わった。
× × ×
水走と江袋高ナインの熱戦は8回が終わる頃まで続いていた。
ここまで0対0。共に無安打という投手戦に、野球に詳しそうな観客はぐぃっと息を呑み、あまり詳しくなさそうな観客はダレた様子で携帯電話をいじっていた。
まあ、正直黙って見ている分には飽きる試合展開かもしれない。
「たおせ! たおせ! みーずはい!」
「片町線で、はよ帰れー!」
しかし、昔ながらの男節で知られる江袋高の応援団は歯がゆい展開にもめげず、ますます盛り上がっていた。彼らに率いられる江袋高の生徒たちも盛んにメガホンみたいなものを叩いている。
さて、ここで注目すべきは、化け物・水走とまともに投げ合っている相手ピッチャーだろう。
灰塚さんの『マル秘メモ』によれば、江袋高の2番手投手らしい彼は、ストレート主体のオーソドックスな右の速球派であり、今年の春には甲子園で145キロを記録したという。
どう考えても2番手とは思えないスペックだけど、なにせ相手はスポーツ界においては公立の雄と呼ばれるほどの名門校である。
スタメンの打者たちだって並み居る連中とは大違い。みんな体格がしっかりしてて、なおかつ野球が上手い。守備とか、走塁とか。細かいところまで気が配られている。
この回だってそうだ。
9回表。少し疲れの見え始めた水走の虚を突いて、四球で出塁した9番打者がセカンドベースを盗み取った。
さらに1番打者が丁寧に送りバントを決め、この回でようやく江袋高の選手は3塁を踏むことになった。それまでは四球やエラーでランナーが出塁しても水走が根こそぎ封じていたので3塁まで行くことがなかったのだ。
1死3塁のピンチに、捕手の今津先輩がタイムを要求する。
「どうするのかしら……かなり疲れてるみたいだけど」
氷野が心配そうにマウンドを見つめると、気づいたらしい水走がニコニコとこちらに手を振ってきた。
「あれが疲れているように見えるのか?」
「ごまかしているだけよ。あんたもわからないわけじゃないでしょ」
「……大丈夫だよ。今日はあいつを休ませるために手を打ってあるから」
氷野が「えっ」と俺の顔を見てくる。
あまり気にしていなかったけど、こう近くでまじまじと見ると、ずいぶん整った目鼻をしているものだ。
まだ子供っぽさが抜けない今はともかくとして、きっと3年生になる頃にはかなり様変わりするはずだ。それも相当良い方向に華が出てくるはず。
逆に1年生ですでに花が咲いている水走は、2年後どうなっているんだろう。ケガはきちんと治っているのだろうか。もっとイケメンになっていたりするのかな。
「……何やて? 水走の奴、降りひんつもりなんか?」
「はあ……ハッキリそう言われました」
鴻池監督と伝令・末広の会話が聞こえてくる。
あいつはまだまだ投げるつもりでいるらしい。
「せっかく3番手の三住をレフトから外して、わざわざ南郷に慣れへん外野に入ってもらったのになあ。少しは無理せず休ませへんと、そのうち肘壊れてまうぞ」
かつての古傷を案じる鴻池監督。
氷野のミラクルで治してもらった水走の左肘だが、次に壊れたら今度こそ取り返しがつくどうか、正直なところ誰にもわからない。
一応、水走はウチの野球部に入る前に病院に行ってみたらしいのだけど、その時は担当の医師から「奇跡的に治っているがこんなのは長続きしない」「長い目で見て、スポーツはあきらめなさい」と言われたそうだ。
だが、あいつはウチに入ってきた。大好きな野球を続けるために。
「……三住、ほんで呉羽。お前ら言ったれや。あと2つくらい俺らでアウト取れるって、マウンドに向かって言うたれ!」
「い、一応もう一回行ってきます!」
またマウンドに走ろうとする末広を、鴻池監督が右手で捕まえる。
「アホタレ! さっきので2回目やから次で最後になってまうやないか! しゃあない、もう辛抱できるところまであいつに投げさせえ! ケッタクソの悪い! 呉羽はブルペンで投げてこい!」
河内弁全開で指示する鴻池監督。
本当なら監督命令でさっさとアンパイアに降板を伝えてしまえばいい話なのだけど、これまで水走1人に勝敗を預けてきただけあって、できるだけ彼の意見を尊重したいと考えているみたいだった。
あるいはかつて社会人野球まで投手をやっていた自分自身の気持ちを重ね合わせているのだろうか……どちらにしろ下々の俺たちは黙って従うのみ。
ブルペンに向かう時、氷野からお茶をもらった。いつも飲んでいるスポーツドリンクより美味しく感じたのが不思議だった。