2 メンタル粉砕! 実力は作戦で補え
試行錯誤しているうちに、いつの間にか夏がやってきていた。
具体的には夏の甲子園・地方大会の1回戦が始まりつつある。
強豪ぞろいの我が大阪府の場合、なぜか全国への出場枠が1枠しかないため、その限られた枠を巡って180校もの野球部が凌ぎを削ることになっていた。
7月8日。
此花区・舞洲球場に集まった俺たちは、1回戦の突破に向けて気合を入れていた。
「がんばるぞー!」
「おー! 中垣内ォー!」
キャプテンの号令の下、全員で円陣を組む。もちろんベンチメンバーの俺も参加する。
俺たちの野球部は半分以上が1年生だ。
そもそもウチの中垣内商業という学校自体が去年出来たばかりなので、自然とそういう世代分布になってしまう。
ちなみに2年生の先輩は全部で5人。
去年はどこかの学校と連合チームを組んで出場したらしく、結果は1回戦負けだったとか。
今年こそ2回戦に進むぞ! と息巻くキャプテンを中心に、基本的にポケーッとした可愛らしい先輩が多い。
いや男、それも先輩に可愛いと言っていいものだろうか。ともかく2年生の方々はみんな気の良い人たちだ。イジメられたりしたことは一度もない。
一方の1年生は個性派が揃う。
もちろん実力面でのトップは投手の水走有也だが、他の面子もなかなか性格的に濃い連中ばかりだ。足の速い奴もいれば口が悪い奴もいる。走れない上に守れない奴だっている。ミスばかりする奴だって一人か二人はいる。
どれも個性。悪く言えばアクの強い奴らだった。
「なーにを他人事みたいに。あんたも十分に個性的じゃないの、この格好つけ少年!」
「なっ!? 人の心を読むなんて褒められたことじゃないぞ!」
俺の指摘に、マネージャーの氷野はペロリと舌を出す。
円陣の時はニコニコ笑顔だったのに、俺に対しては冷たい目をしやがって。本当によく表情の変わる女だ。
「そんなことより、あっちで伏月の先発が投げてるわよ」
「伏月の先発?」
「ほら、あっち」
氷野が指差した方向に目をやると、グラウンドの端っこで相手高校のユニフォームを着た左投手がコンクリの壁を相手にキャッチボールをしているのが見えた。
こんな大会を前にして、まさかの「壁当て」である。
ベンチにはいくらでも人がいるのに、あえて壁とのキャッチボール。
やはり伏月のエース・保田久さん(3年)がメンタル面で大きな問題を抱えているという裏情報に誤りはないようだ。
「ウチのミズハイくんもかなり大きいけど、あの保田って人も結構な巨漢ね」
「そうだな」
「うわ、180センチもあるんだって! 他にも!」
氷野が手持ちの雑誌『野球ボーイ』から情報を引っ張ってきてくれる。
俺も昨日ちゃんとチェックしておいたから、わざわざ読んでくれなくてもいいのに。
「なになに。えーと『体重はなんと100キロ。巨体から放たれる直球は昨年度の大会で157キロをマーク。昨年は惜しくも江袋高を相手に2回戦負けしたが、キャッチャーの捕逸がなければ甲子園も夢ではなかっただろう。プロのスカウトも注目する超高校級左腕の1人』だって。凄いわね、1回戦からこんなのが相手だなんて……」
「ああ……憂鬱だな」
個人的にも、高校球児の概念を崩しかねない存在がウヨウヨいる大阪の環境には若干違和感を感じずにいられない。
水走にしろ保田久さんにしろ、なんだよ左で平均球速150キロって。
俺なんて最速で125キロも出ねえよ。おかしいだろ!
『不公平だ、不公平!』
そんな格好悪い思考が口の奥から出てこないように気をつけつつ。
俺はユニフォームのポケットから『マル秘メモ』を取り出し、保田さん対策を慎重に練り上げることにした。
身体能力でも技能でも勝てないなら、別の方法で勝利を掴み取るまでのこと。
氷野の叱咤を俺は忘れていない。
× × ×
ホームベースの前で一列に並び、全員で深々と一礼をする。
青年の精神的鍛錬を題目に掲げる高校野球というスポーツでは、ルールの次に『礼儀』『清純な少年らしさ』が重んじられる。
いわゆる「あんまり出過ぎた真似しちゃダメよ」って奴だ。
故意死球などもってのほか。
勝負を避けるための故意のフォアボール――ルールで認められた「敬遠」すら、世間では卑怯者の行いとして扱われてしまう。
無論、全力勝負で正々堂々と勝つのが最善ではある。フェアプレーの精神に則った上で勝利した方がプレーする側としても気持ちがいい。
だが一方で、個人的には「戦い方」の幅を一方的に狭めてしまうのはどうなんだろうとも思う部分もあった。それに正々堂々と実力だけで勝負することだけが正しいのなら、いっそ予選なんかせずに一番強いとされる学校を甲子園に送った方が手っ取り早い。
どんな学校にもチャンスが与えられている大会なのだから、そのルールの中でどれほど足掻こうが文句を言われる筋合いはないはずだ。
そんな中で今回、俺が苦心の末に編み出した『対・保田久の戦術』は――はたして野球の作戦に含まれるのか。ルールの範疇なのか。自分でもよくわからないグレーゾーンの戦法だった。
だからこそ、自己弁護として、これも1つの「戦い方」なんだと、俺自身に言い聞かせておきたい。一番強いチームを決めるのではなく、勝ったチームが一番強いのだと理解しておかなければ、グラウンドにいるのも恥ずかしくなってしまいそうだから。
『1回表、中垣内商業の攻撃は、1番・センター深野くん――』
まず一礼して、ウチのチームの深野がバッターボックスに入る。
彼はとても足が速い。内野安打を狙うため水走の指導で左打席にも立てる(打てるわけではない)ようになっていたが、今回は俺の指示で右打席に入ってもらった。
なぜなら、一打席目の狙いはセコいヒットではなく、クリーンヒットだからだ。
相手は左投手だし、何より慣れた右打席のほうが深野もやりやすいだろう。
「うおー!! 速すぎるぜー!!!」
ストライク、バッターアウト。
残念ながら深野はスピードボールにバットを当てることすら出来なかった。
ここ最近ずっと水走を打撃投手にして速球に目を慣らしてきた彼だが、やはり付け焼刃ではどうにもならなかったようだ。
後続もあっさりと打ち取られてしまい、俺の考えた第一の作戦はひとまずお預けとなる。
『1回裏、伏月高校の攻撃は――』
「……ねえ、あんた。その作戦って本当に必要なの?」
ウチの野手陣がベンチから出ていき、それぞれの守備位置についてから、氷野がポソっと話しかけてきた。
「必要だ。ウチのチームが作戦抜きに伏月に勝てるはずないからな!」
「自信満々に言わないでよ。でもみんな作戦のことが頭にあるせいか、自分のバッティングに集中できてないみたいよ?」
「それは、あいつらがバカだからさ」
俺としては格好良く事実を述べたつもりが、氷野にはブザマな言い訳に聞こえたらしく、左肩にガシッと肘打ちを喰らってしまう。
クソッ、大切な商売道具になんてことをしてくれるんだ。まあ俺は右投げなんだけどさ。
ウチのチームがあっさり三者凡退を喫した後、裏の守備から登板した我らが水走は、キラキラと汗を振りまきながら、強豪伏月の打者を相手に三者連続三振を決めてみせた。ズバッと三振毎度あり。あいつ本当に何者だよ。
2回表、3回表、とウチの打者が塁に出ることはなく、相手エースの保田久さんは順調な立ち上がりを見せていた。
しかし4回表。先頭打者である深野が予想以上の粘りを見せる。
フルカウントから4球、ファールで粘り続けた深野に対し、伏月バッテリーは四球を選択。
続く2番・大東との勝負を選んだ。
「よかった。さっきベンチ裏で速い球を打つコツを教えてあげた甲斐があったよ」
さらりと言ってのける水走だけど、それだけで結果が出たとはあまり考えたくない。
きっと深野だって自分なりに考えたはずだし、何よりこれ以上水走に完璧になられると俺の立つ瀬が完全になくなってしまう。我ながら卑屈な発想ではあるけど、やっぱりプライドは守らないと人間らしく生きていけないのである。
出塁した深野はもちろん盗塁を狙った。俺はこれを止めず、むしろ監督に進言する。
「鴻池監督! 2つ、狙っちゃいましょう!」
「お前が言わんでもやっとるわ。ただあの保田とかいうの、クイックも速いぞ」
監督はマウンドの保田久さんを見つめる。
高校球児でありながら、しっかりクイックモーションを身に着けていた保田久さんは、おそらく事前に深野の『足』を知らされていたのだろう。
モーションを早めて瞬く間に2番打者の大東を2ストライクに追い込んだ。
投げるモーションが早い上に球まで速いので、これではさすがの深野も走りようがない。
「アカンな。大東はバントとか下手やし、どうにか当てたいけどなあ」
「ここでバントですか?」
「ノーアウトで1塁ならバントやろ。もう2ストライクやらムリはさせんけど」
監督はそう言うが、こっちの作戦としてはむしろバントは悪手である。これからもできるだけ急けてほしいところだ。それより粘りまくって球数を稼いでほしい。バントでも捕手がボールを拾うようなナイスバントならいいんだけど、ウチの連中にそれは見込めない。せいぜい三塁手に拾われてゲッツーが関の山だろう。あの速球に上手いバントなんてムリだ。
言ってしまえば、俺はとにかく相手の捕手にミスをしてもらいたいのだ。
保田久さんは去年キャッチャーの捕逸で試合に負けている。
投げたボールを受け取ってもらえず、あまつさえ紛失されてしまい、その隙にホームスチールを決められ、負けてしまったそうだ。
それから保田久さんは自分以外の他人を信じられなくなり、同じ部員ともほぼ喋らなくなったらしい。
唯一、今年から正捕手になった2年の大宮山さんとだけは言葉を交わしているそうなので、俺はその信頼のラインを叩かせてもらおうと考えていた。
さすれば投球は保田久さんの一人相撲となり、おのずと勝機が見えてくる。
今のシチュエーションなら――俺としてはバントよりも、まずは投手と捕手の責任でしかないクリーンヒットを1本打たせて、その後で重盗を決めるなりして2塁に向かわせ、とにかく試合の最初から保田久さんに捕手の実力について疑惑を覚えさせておきたいところだ。
ウチのチームも2・3塁になれば1点くらい取れるだろう。
「本当にせこい作戦よね……」
「うるさい。弱いところを叩かなくて何が作戦なんだよ」
「たしかに他の分野で頑張れとは言ったけどさ。情報収集ならともかく、こんな『こすい』マネをさせるつもりなんてなかったのよ?」
呆れたようにため息をつく氷野の顔を見て、俺の中の良心が疼いた。
しかし、勝つためには仕方のないこともある。
それにあからさまな弱点を見つけていながら、こちらがそこを攻撃しないのは、むしろ勝負に手心を加えているようで相手に対して失礼だ。
エースのメンタルに気を配らなかった相手に責任があるとも言える。
カキーン。
「おっ!! 打ちやがったぞ!!」
「え!?」
監督の声にメンバー全員が立ち上がる。
みんな『大東にあんな速球が打てるわけない』と思っていたので、自然と目線が下を向いていたのだ。
水走以外。
大東はすっぽ抜けた球を丁寧にレフト前に運んでみせた。元々致命的にセンスがないだけで肉体はちゃんとできている奴なので、保田久さんの球にも力負けしなかったようだ。
俄然、盛り上がってくる。
弱小野球部なので応援団なんていないけど、ベンチからは声援が飛んだ。
「いいぞ、大東!」
「うおーっ!!」
みんなの声援に手を振って返す大東。
1塁ランナーの深野は2塁に進んでおり、これで俺たちは無死1・2塁。
言うまでもなく得点のチャンスだ。
そして俺の作戦にとってもまたとない好機だった。
「~~~~~~!」
「~~~!!」
いきなりのピンチに保田久さんは捕手の大宮山さんをマウンドに呼び寄せる。
会話の内容はわからない。
ただ、2人とも焦っているのか、しきりに額の汗をぬぐっていた。
まさか、こんな格下の高校に追い詰められるなんて。
おそらく2人が焦っているのには、打撃陣が水走の快速球を前に九者連続三振なる死屍累々の結果を残していることも影響しているのだろう。
名前を知らないような学校にプロみたいな完成度の投手がいて、完璧に抑えられている。
このまま点を取れずにいると最終的には負けてしまうかもしれない。
「クソがよッ」
低い声がわずかに聞き取れた。やはり保田久さんは焦っている。
だったら、次の一撃が決まれば通常以上に効果的なはずだ。
アンパイアの指示で試合再開。
打者は3番・キャッチャーの今津先輩。太っちょの巧打者。
鴻池監督の采配は――あれ、何だっけ今のサイン。
「氷野、あのサインは何だ?」
「覚えておきなさいよ。グラウンドに背を向けて座るのは『好きにしろ』のサインでしょ」
下手したら試合放棄ともとれるサインだけど、監督としては相手側の出方を窺う意味もあるのかもしれない。
相手のエース・保田久は崩れかかっている。
それは裏情報を知っている俺でなくても、何となくわかるようだ。
まあ、なんてったってあの汗の量だからなあ……水牛みたい。
「うっしゃ! 頑張ってる水走のためにも打っちゃるか!」
そう気合を入れて打席に立った今津先輩だったが、残念ながら保田久さんの速球を前に手も足も出なかった。
せめてものあがき、と2ストライクからバントを試みるも――失敗。
スリーバントで三振となった。
続いて打席に立つのは……あの男である。
「……よし」
彼は白い輪の中でトントン、とバットの先を地面につけた。
水走有也。
走・攻・守・投の四拍子が揃った化け物。
それでいてイケメンなんて、神が五物を与え給うた稀有な例だろう。
先ほどの第1打席は保田久さんのチェンジアップに手を出してしまい凡退していたが、水走のことだ。そんな手に二度も引っかかるはずがない。
『呉羽くん。僕は9回まで行けるよ。だから君にはまず相手を見ていて欲しい』
『どういうことだ?』
『相手の隙を見つけて欲しいんだ。そうすれば勝てる。そしてチームを勝たせた君は、紛うことなきエースだ』
試合前にあいつはそんなことを言ってきた。
元より、氷野のハッパを受けて相手の情報は集めていたので、あいつには惜しみなく相手チームの弱点を教えてやった。
もちろん卑怯な作戦のことも。
『いや、それは卑怯じゃない。そんなので追い詰められる相手が悪いんだよ』
あっさりと言ってのけてくれた水走だったが、その言葉のおかげでいくらか救われている自分がいたりもするので、何も文句は言えない。そもそも文句を言うだけの理由がない。
理由が無くても心情的に文句はぶつけてやりたいけど。
五物のうちの一つくらい寄越せとか。イケメンはくたばれとか。
でも、投手たる者、マウンドにいなくても格好つけなくてはならないからそれはしない。
「水走! 例の作戦を頼んだぞ!」
「……了解したよ。呉羽くん。本当は君がやるべきだと思うけどね!」
ベンチの俺と軽く言葉を交わした後、水走は氷野に向けて小さくウインクした。
愛する女に別れを告げて、ヘルメットをかぶりバットを持つその姿は、さながら中世の戦士の様だった。
『4番・ピッチャー水走くん――』
相手校のマネージャーが場内アナウンスで水走の名を告げる。
これは作戦開始の合図でもあった。
「…………」
打席に立った水走には、まずじぃっとマウンドの保田久さんを見つめてもらう。
それも俗に『ガンをつける』と言われるような、強い表情でにらみつけてもらった。
ヘルメットのツバに精悍な眉毛を隠された水走の顔立ちは、なかなか『悪者』として様になっていた。下手したらチビってしまいそうなほどに。
「な、なんだよ。なんでにらんでくるんだよ!」
もちろんマウンドは遠いので、そんな保田久さんの声がベンチまで聞こえてくるはずはない。
しかしながら保田久さんが怯えているのはよくわかった。
しきりに周囲を見回しているが、なにぶん彼にとってはほとんど会話のない内野陣である。仕方なしに捕手に助けを求めるも、おそらく送られてくるのは投球のサインばかり。
「くそっ! くらえや!」
第1球。ストレート。高めのボール球。ボール・ワン。
第2球。ストレート。これも高めに外れる。ボール・ツー。
第3球。水走に対してバッテリーが選んだのは――先ほど打ち取った時にも使用した、決め球のチェンジアップ。
水走はこれらを全て無視した。
ボールには目もくれず、マウンド上の保田久さんをにらみ続けたのだ。
「タ、タイムだ!」
たまらず、保田久さんが打席に近づいてきた。
「おいお前! なんで俺を見るんだよ! おかしいだろぉ!?」
アンパイアの制止も構わず、理由を尋ねてくる保田久さん。
しかし水走は『何もしていませんよ』と首を横に振るばかり。
無論、アンパイアや捕手の大宮山さんに打者である水走の顔が見えているはずもなく、塁審や伏月の内野陣も打者の表情より飛んでくる球のことを考えているだろうから、水走がにらんでくると文句を言うのはマウンドの保田久さんだけだった。
孤立無援を悟ったらしい保田久さんはそのへんにツバを吐いた後、マウンドに戻る。
その顔は、強張っていた。
その目は、どこも向いていなかった。
「墜ちた……わね」
氷野の言葉通り、保田久さんは捕手の大宮山さんの指示を聞かず、自分の思ったところに投げ始めるようになった。当然、捕手の大宮山さんにとっては予想外の場所に投げ込まれるわけであり、時には捕逸する時も出てきた。
結果、1・2塁は2・3塁になり、際どい球をファウルで粘り続けた水走はフルカウントから四球で出塁。1死満塁となって、打席には5番の赤井が向かう。
『5番・ファースト赤井くん――』
「頼むぞ……キーマン!」
「オレはアカズキーちゃんの方が好きだな」
「は? アカズキー?」
「へっ……呉羽、お前小さい頃に友達いなかっただろ」
身長150センチ。体重50キロ。
体躯こそ氷野よりも小さいが、赤井はチームの中では一番偉そうで口が悪くて――そして最も目つきの悪い男である。