延長戦! 流ればかりのシーソーゲーム!
× × ×
8回177球を投げきったところで、俺は監督からアイシングを指示された。
ようやくお役御免だ。反省点もあったけど、まずは氷野にアイシングのサポーターを付けてもらうとしよう。
「氷野。あれをやってくれないか」
「ライトオーバーツーベース。ライト前タイムリーヒット。センター前タイムリーヒット。セカンドエラー。ライト2点タイムリーヒット。レフト前タイムリーヒット。四球。レフト前タイムリーヒット。ファーストゴロ。よくこれだけ打たれたものね」
氷の冷たさとは別の冷たさが、こちらの心をビシバシと叩いてくる。
ちなみに氷水の入ったものを右腕に巻きつけて疲労した筋肉を冷やすなんて発想は鴻池監督の現役時代にはありえなかったらしい。ウチの部にそういうものが用意してあるのは、おそらく水走を慮ってのことだ。別に俺のためにあるわけではない。
氷野にサポーターを巻いてもらい、ようやくベンチで一呼吸つける。
8回177球――8失点。
まさにガトリング砲のようなフォッサマグナ打線に手も足も出なかった。何をやっても何を投げても、どれだけ力をこめたストレートを放っても、3つ目のアウトカウントには繋がらなかった。
きっと「流れ」だけの話ではなかった。むしろ今までがラッキーすぎたんだ。新設2年目の部に水走がやってきて、エースとして全国まで導いてくれて。
大した実力もないのにチームが地区大会を突破できたのはあいつのおかげだった。それが証明されたのだ。白日の下に晒されて、あとに残ったのは……。
「あのさ……なにか答えなさいよ。上手く慰められないじゃない」
「本当のことだから言い訳できないし、それに下手に慰めなくていいよ。今はこの気持ちを大切にしたいんだ」
手元に残っていたのは指先の痛みと、純粋な悔しさだった。
打たれて悔しい。
投手たる者、呉羽道弘は……やはり投手だった。来年は、これからは、なんて考えてしまうくらいにボールを投げる人だった。
「呉羽くん、氷野さんとイチャつくのもいいけど、まだ終わってないからね……」
なぜか近くに座っていた三住先輩にたしなめられる。
別にイチャついているつもりはないし、イチャつきたくもないけど、普段あまり怒らない人に注意されると「うっ」と良心がチクチクしたりした。
なので俺は氷野から逃げるようにしてベンチの最前列に向かう。
グラウンドは9回表・中垣内の最後の攻撃。
2対8という絶望的な状況ながらも、上位打線から始まる好打順となっている。
しかしトップバッターの深野はあえなくセカンドゴロ。
どうにかチャンスを作るべく、チームの期待は2番の大東に注がれる。今日もエラーを連発してくれているので、せめて打席では名誉挽回してほしいところだった。
「ああっ」「おしい!」
だが、彼もまたセンターライナーに終わってしまう。
やっぱり上位の出塁率が低すぎるなあ……チームのバランスを考えても打線の組み替えは必至となりそうだ。
ふと、ネクストサークルにいた今津先輩と目が合った。
『3番、キャッチャー今津くん――』
フォッサマグナの応援席から「ス・ネ・ル! 祐作!」コールが飛んでくる中。
俺に向けて、しきりに「楽にさせてやる」と呟いていた先輩は、スネル祐作さんの初球をフルスイングで吹き飛ばした。
土のグラウンドをいくらか跳ねたボールは、そのままライン上をレフトフェンスまで転がっていった。打った今津先輩は一気に3塁まで突っ込む!
「セーフ!」
ボールをくぐり抜けて、アンパイアの判断はセーフ。ベースの上で先輩は吼えた。
「やったったぁ!」
「せんぱーい!」「ナイスバッティーン!」
土まみれの先輩にベンチから惜しみない声援が飛ぶ。アルプス席の応援団も久しぶりにヒットテーマを吹いた。
これで二死三塁。次に出てくるのはウチの主砲だ。
ネクストサークルで素振りをしている水走の眼光はやたらと鋭い。
『4番、レフト水走くん――』
アナウンスが流れると中垣内側の応援席から黄色い嬌声が聞こえてきた。そんな彼女たちも今の水走の目を見たらチビってしまうかもしれない。それほど本気の目をしていた。
いつも気さくで温和な水走でも自ずからあんな表情になるんだな。それこそ恋愛以外で――伏月戦ではわざと保田久さんを睨んでもらったこともあったけど、今ここでは気迫の証明のようだ。
水走の眼光については他のチームメイトも密かに話題にしている。
「あいつの目、やべえッスね……」
「あんなの見たことねえよ……」
そんな恐ろしい状態だったものだから、水走が3球目を力強く飛ばすと、チームのみんなはツーランホームランを疑わなかった。
ところが風向きのせいなのか――あるいはスネル祐作さんの球威が拮抗したのか。
水走の打球は失速して、それでもセンターオーバーのタイムリーツーベースとなった。
これで3対8。なおも二死二塁のチャンス。
打席には赤井が入り、なんと元々小さな身体をもっと小さくさせた。バッティングフォームをかなり猫背気味に変えたのである。
「あれは……必歩剣・歩かし!」
ベンチでわざとらしくビックリしているのは末広の奴だ。
うさんくさい秘技(?)に氷野が「なによそれ」とツッコミを入れる。
「マネージャーなのに知らないのか。あれは元々小さい奴が打席で猫背になることでストライクゾーンを極限まで狭くする技だ。赤井は、プライドを捨てた!」
末広の妙な力説から大まかには理解できた。
なるほど必歩剣。フォアボールをもぎ取るための技術だ。
ストライクゾーンが狭くなればボールカウントが出やすくなる。投手のコントロールも定まらなくなるのでヒットも狙えるかもしれない。
チビを気にしている赤井(150センチ)にとってはまさにプライドを捨てたプレーだ。かなり良い作戦だから今後も使いたいけど、たぶん断られるだろうな。
「ボール・フォア!」
きわどいボールをカットして、どうにかフォアボールを手にした赤井。
『6番、ショート寺川くんーー』
バットを3本束ねたキャプテンがそのまま打席に入ろうとして、慌ててベンチまでいらない2本を捨てに戻ってきた。
もはや打つことしか考えていない人の仕草だ。
「打て!」
鴻池監督の怒号に合わせたかのように、キャプテンはボールをレフト前まで飛ばした。
相手のレフトはバックホームをかけたが、すでに走っていた2塁走者の水走がホームにスライディングをかけて4対8。
なおも二死一二塁とチャンスは続くなか――打順は7番以下の下位打線に回ることになる。
ここでようやくフォッサマグナの伝令が出てきた。
エース・スネル祐作さんの球数はすでに120球。
交代か。続投か。
「まだオレはいける! いけるんだよ! こんな奴らにやられてたまるか!」
はっきりと聞こえてきた祐作さんの声に、ベンチ前の北口と平野は目の色を変えた。
そうか。今までは持ち前のポーカーフェイスと情報不足もあって、祐作さんの性格がさっぱり見えてこなかったけど、そんな風にウチのチームを侮ってくれる人ならば使えるかもしれない。ウチの伝家の宝刀――メンタル攻めを。
『7番、サード北口くん――』
『8番、ライト平野くん――』
「ちぃっ!」
マウンドで吼える祐作さん。
北口と平野にはバッターボックスで相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべてもらった。明らかに格下のバッターが二アウトなのに余裕の笑みとなれば、さしものエースさんも対戦に集中できなくなるかもしれない。そんな小さな可能性に賭けたのだ。
それが功を奏してか、ウチの二人は連続四球(と押し出し)をもぎ取ってくれた。
ついに3点差。5対8で二死満塁。
一発出れば逆転もありうる大切な打席に入るのは、9番投手でただ今アイシング中の俺ではなく――ベンチから出せる代打。
『9番、ピッチャー呉羽くんに代わりまして、谷川くん――』
ヒョロっとした身体の先にバットをくくりつけたような人が、ヘルメットをかぶってバッターボックスに向かう。キャプテンと同じ2年生ながら、今年は控えとブルペン捕手に甘んじている先輩だが、目も当てられない内野守備とは対照的に打つのは意外と上手い。
もっともチームの中では平均より上手い方というだけで、キャプテンや水走とは比べものにならない。なによりパワーがないので当たっても外野まで飛ばないのである。
なので谷川先輩はチーム内の紅白戦では常に内野安打を狙っていた。それも打球を跳ねさせて内野手のボール処理を遅らせる――さっき深野が試していたボルチモア・チョップだ。
「待てよ……さっきはフォッサマグナに余裕があったから通用しなかったけど、このタイミングなら再考の余地はあるかもしれないな」
「今度は谷川先輩をホームランバッターとして演出すればいいのかな」
水走がイヤミのない笑みを向けてくる。
「ああそうだ。どうせならチームみんなでやったほうがいいかもな」
「だったら、みんなでやろうか」
世の中変なもので、水走が声をかけるとチームメートが一つにまとまりやすい。俺の話は誰も聞いていないのに、水走の話にはみんなが耳を傾けているからだ。
おかげで説明いらず。さっそくチーム全員で「偏向させた」エールを送ることができた。
「谷川さーん、この前みたいにバックスクリーンまで!」
「とにかく飛ばしてくれよ! お前ほど飛ばせる奴は水走くらいなんだから!」
「ガワさんならセンターオーバーなんてチョロイッスよね!」
「そこのスカウトが『弾道4』ってメモしてましたよ!」
こんなエールがモヤシみたいな谷川先輩に次々送られるのだから、とにかくシュールな光景だった。まともな思考をしていたらダマされるはずがない。
しかしながら折からの追い上げムードに焦っていたのか、あるいはベンチから別の指示でもあったのか、フォッサマグナの内野は下がり始めた。
あとは谷川先輩を信じるだけ――打球をバウンドさせてもらう。
飛ばすバッティングはいらない。とにかく叩きつけていただきたい。いつものように。
キィンッ!
「しまった! 肝心の谷川先輩にゴロの指示を出してなかった!」
「なにやってんのよ、バカ!」
我ながら初歩的なミスだった。ちゃんと情報共有しておかないとこうなる。
しかし、打球はありがたいことに三遊間をキレイに抜いていた。レフトの好返球があったので1点止まりとなったが、これで6対8。なおも二死満塁。
ここで谷川先輩には代走が告げられ、末広と入れ替わりにベンチに戻ってきた。
「……ああ。いいね。やっぱり野球って楽しいよ」
その貧相な顔をついさっきまでいたグラウンドに向ける先輩の姿は、やはり球児としての幸せにあふれていた。
一方のマウンドのスネル祐作さんは完全に憔悴してしまっている。
ついに打者一巡して、再び打席に入った深野が、勢いそのままにライト前にタイムリーヒットを放つと、祐作さんは「ありえない」とばかりにマウンドを蹴り上げた。
1点追加してスコアは7対8。ついに1点差まで追い詰めたのである。チームメイトたちは「一矢報いる」つもりが「追いつけるかもしれない」と盛り上がっており、先ほどフォッサマグナが同じように連打で点を入れたこともあって、自分たちもまた逆転できるものと信じているようだ。
続く大東に対してはヒットで自信をつけた谷川先輩から声が飛ぶ。
「ここで打たなきゃ、来年には僕にセカンドを取られてしまうよ!」
「う、うおおおおお!」
大東は体勢を崩しながらもフォークボールをレフトに打ち返してタイムリーツーベース。このあたりの身体能力はさすがといったところだ。というか、こいつは何も考えないで振り回したほうが合うのかもしれない。
その次の今津先輩も、初球からライト線を破って追加点を入れた。この辺になると、もはや勢いというより「流れ」だった。俺の8失点もあって、もう二度と戻ってこないと思っていたのに、いつのまにかこっちがフォッサマグナを呑んでしまいそうなほどの「流れ」。
3・4・5・6・7・8・9・10。
あっというまの二桁得点。
これが、野球……あるいは「甲子園の魔物」と呼ばれるものか。
こうして同点から逆転となったところで、やっとこさフォッサマグナのベンチから二度目の伝令が飛んでくる。
よく見ると今度の伝令はスネル祐作さんの弟・怜史さんだった。彼は控え投手なので交代ということだろうか。
「…………」
「…………」
マウンド上でしばし語り合う二人。ベンチからでは内容を察することもできない。
ただ、怜史さんにドンと小突かれた祐作さんは、チラリとこちらに目を向けていた。そして右腕を回してからの深呼吸。まだ続投させるようだ。フォッサマグナの河井監督は何を考えているのか。俺にはイマイチわからない。
タイムが終わり、祐作さんはキャッチャーからボールを受け取ると、打席でじいっと待っていた水走と向き合った。
『バッターは、4番、レフト水走くん――』
千大戦の時にも思ったことだけど、やはり水走はウチのチームの柱だ。
マジメな方向のまとめ役はキャプテンかもしれないけど、よりカジュアルな方向では水走がチームを引っ張っている。イケメンで存在感があるし、なまじ実力があるものだから、優しさの中で時折見せてくれる厳しさにもイヤミがない。
だから、ここで打ってくれたら、根拠はないけど試合が決まる気がした。
キィン。
水走の放ったボールは、抜ければ長打の当たりだったものの――残念ながら一塁手の正面。
「おらあっ!」
マウンド上で雄たけびを上げるスネル祐作さん。
ガッツポーズと共にマウンドまで近寄るフォッサマグナのメンバーたち。あんなに点を取られたのにこの表情となれば、彼らはまだ戦意を失っていないということだ。
終わったかもしれない。まだ勝っているはずなのにそう思えてしまうのは、きっと試合が俺の手を離れてしまっているからだ。
もう降板して投げられない俺に代わって登板するのは三住先輩。彼に捧げられる作戦は一つもない。ただ俺たちにできるのは応援することだけだ。




