13 真打・君沢と投打で対決! 最強投手VS呉羽!
* * *
人は圧倒的な力を前にすると何も考えられなくなる。
例えば、四方を埋め尽くす楚兵の歌。
例えば、石垣山に築かれた一夜城。
例えば、空から落とされる幾多の焼夷弾――大戦末期にグラマンに襲われた祖父も「逃げている間のことは覚えていない」って言ってたっけ。
ただ「そう」なるためにはその巨大な力がどれほどのものなのかしっかり理解できる前提が必要だったりする。当たれば死ぬと解されていなければ銃弾だって大して畏れられない。祖父だって多分F6Fから逃げていない。せいぜい音にビックリしたくらいだろう。
故に、というか似たような理屈で――スポーツの場合も、非経験者よりも経験者の方が『達人の業』をよりすごいと感じられたりするそうだ。
一例をあげるならばフィギュアスケートの4回転は見た目にも麗しいが、きっと驚愕ぶりはスケート経験者の方が大きいはずだ。この場合は多分その『境地』に辿りつくまでの努力が、より理解できるからだと推測される。
お茶の間で見ているだけではわからない部分が、この世には意外と多いのだ。
だから……裏舞台めぐりは楽しい。
私は――灰塚詠美は、今までたくさんの高校球児たちを見てきた。
バスの運転手をやりながら府内各地の高校に足を踏み入れ、美味しそうな汗をたっぷりかいた男の子たちを眺めてきた。
だからこそよくわかっちゃうのだ。しかもソフト経験者でもあるからこそ余計に理解できてしまえるのだ。
あまりにも圧倒的すぎる力。ド迫力のストレート。
ただでさえ呉羽くんたちが今までのような攻め方が通用せずに苦しんでいるところで、無慈悲にも投入される、千里大学第一高校の最終兵器。
山口2世・君沢忠邦くん。
彼のストレートはおそらく『3日前に振っても当たらない』代物だった。
「お嬢! ビールですわ!」
「ありがとう。でも飲む気にならないからあげるね」
「ええっ!?」
むしろ私は生唾を飲みたい。呉羽くんや水走くんがこの怪物を相手にどう戦うのか。
その時の生唾を私はひたすらに所望する。
「がんばれー! 呉羽くーん!」
私は声を張り上げた。
圧倒的なマジョリティが『誰よりも君が好きだ』を見に来ている中で中垣内側に声援を送るのはかなり恥ずかしいけど、やはり自分だけでも彼を応援してあげなければと思ったのだ。
だから何があっても絶望しちゃダメだよ、呉羽くん。
勝機はきっと、どこかに落ちているはずだから。
* * *
『千里大学第一高校、選手の交代をお知らせします――』
『9番・ピッチャー依本くんに代わりまして、君沢くん――』
ぎゃあああああああああああ! とスタンドが絶叫する。
怖がっているわけではない。むしろこれを聞かされる俺たちが怖いくらいであって、スタンドの彼女たちはあまりの喜びに声を上げているだけだ。
ユニット『誰よりも君が好きだ』の3番手・君沢さんは、4人の中でもっとも人気のある投手だった。背が高いわりに身体はシュッと細く、抱きしめたら折れてしまいそうな人だが、とことん美形であり、なおかつ愛想が悪そうでもあり。
真っ白な鼻立ちの上には男らしい眉毛が生えていて、しかし口元はお淑やかで。
まさしく作りだされた偶像――アイドルだった。
「うわあ」「ひええ」「なんだありゃ」
一方で、チームメイトも驚嘆の声を上げている。
彼らが見ていたのは君沢さんの容姿ではなく投げているボールの方だった。
上手投げからしなやかに投げられた君沢さんのストレートは、あくまで「ストレート」に進んでいく。
すなわち直線。本来ならマウンドとの高低差により若干下方向に沈むはずのボールがそのままの勢いで飛んでいくのだ。恐るべきスピンのかかり方である。
ストレート、ストレート、ストレート。
投球練習を変化球なしで終えた君沢さんは帽子を取り、一つ汗をぬぐった。
ぎゃああああああと再び巻き起こる大歓声。
彼女たちにとって、今このグラウンドは君沢さんのための舞台だった。
そしてこれから打席に向かうのは演出上の敵役――本来は予定調和で破れるべき男たちだ。
『8回裏、中垣内商業の攻撃は――』
『9番・ショート谷川くんに代わりまして、呉羽くん――』
否。俺だった。
このタイミングで出されるとは思わなかった。
まさかの代打コールに驚きつつ、俺は鴻池監督に細かい指示を求める。
左打者くらいしか特徴のない呉羽道弘の打席にいったい何を望むのか。しっかり把握しておきたかったのだ。投手たる者は打席でも輝きたいのである。
「おう、はよエルボー付けぇや」
「あ……はい」
どうやら単純に谷川先輩を外して次の回から俺を投げさせたいだけのようだった。
仕方がないので自分なりに君沢さん対策を講じてみる。
まず、あのストレートはおそらく打てない。下手したらバットにもかすらない。となれば変化球を狙うべきだけど『灰塚メモ』によれば君沢さんの持ち球は不明。
つまり公式戦で変化球を投げたデータが残っていないということであり、これは投じられるボールが100%ストレートであることを意味する。
「ダメだ。まるで対策が沸かない」
「メモ帳のオーダーにはなんて書いてあるのよ!」
ネクストサークルで素振りをする俺のところに氷野が近寄ってくる。ベンチから出られないので身を乗り出すような形だ。何というか女子にしては非常にアグレッシブな体勢だった。真っ平の胸が殊更に強調される。
作戦か。灰塚さんは荒れ球を利用してトコトン粘り、四球を勝ち取るべきだと言っていたっけ。俺としては……。
『バッターは呉羽くん――』
いかんいかん。ウグイス嬢に急かされている。
俺は手招きするアンパイアに頭を下げつつ、ようやく試合に出場した。
すでに時間は夕刻である。17時を回ったくらいだ。
「ん……17時?」
ふとスコアボードの時計に目をやる。17時12分。
夏なのでまだ暗くはなっていないが、もう少し長引けば照明塔にも火が灯されるだろう。ナイターは久しぶりなのでちょっぴり楽しみだった。
ナイターといえば昼間と風向きが変わるんだよなあ。まず夕方に凪と呼ばれる時間がやってきて海風と山風のバランスが均衡する。この間は2つの勢力が対等なので風はほとんど吹かなくなる。そして次第に夜になるにつれて陸風が力を増していくのだ。
見れば、試合前にはびゅんびゅん吹いていた海からの風が鳴りを潜めていた。バタバタとはためいていた新聞社の社旗がすっかり弱々しくなっている。完全に風が止まるのも時間の問題だろう。凪が近づいている。
「スットライク!」
1球目。見逃しというか、俺は完全に打席のことを忘れてしまっていた。
だってほら。投手にとって風向きはすごく重要だから。
有名な甲子園球場が左打者に不利とされるのも主に吹きすさぶ「浜風」が原因だ。右から左に流れる風は左打者にとって逆風となる。
この舞洲球場の場合はライトからホームに向けて海風が吹いていた。なので夜になれば逆方向・ホームからライトに向けて風が吹くことになるだろう。
高校生で水走のように風を切り裂くような打撃ができる選手は少ない。
しかし、順風に乗せてスタンドに飛びこませるようなバッティングならできる選手は多いかもしれない。
「なるほど……だから監督は俺を残しておいたのか……」
「ストライク! ツー!」
2球目。見逃しというか手が出なかった。とんでもなく速い。
「まるで火の玉だな……」
「さっきからブツブツうるさいぞ、お前」
「あ、すみません」
気を取り直してバットを構え直す。まさか相手校のキャッチャーに怒られるとは思わなかった。スコアボードによれば名前は丸さんか。
マスクをかぶっているのでご尊顔は窺えないが、もしイケメンならユニット名が『誰よりも君が好きだ。』になっていたはずなので、きっと普通の人なんだろう。
「ボール!」
球威たっぷりの速球が内角に逸れる。ぶつかったら死んでしまいそうだった。
なるほど。相手校が「おそらく4人の中で一番すごい」君沢さんを後半に残していた理由も何となくわかってきたぞ。要は鴻池監督が二番手の俺を後回しにしたように、千大一高の監督さんも球威のある投手を夕方以降に使うつもりだったのだろう。
垂野さんや依本さんのような軟投派は一発に弱い。水走がバカスカ打っていたのも彼らのボールに君沢さんのような威力が無かったからだ。
対応するのは大変だが、対応さえできれば打ち崩せる。そんな投手をホームラン風の吹く夕刻に使いたい監督なんてこの世にいるはずがない。
ちなみに相手は『誰よりも君が好きだ』と銘打たれてこそいるが、あくまでこれはグループ名であって、常に全員が出撃するわけではなかったりする。現にこれまでの試合では4人中2人を登板させて残りは休養といった運用もされてきた。
そうでなければ高校野球で投手分業制をやる必要がないとも言える。
「ストライク! バッターアウト!」
「お前……なんで1回も振らなかったんだ」
丸さんに尋ねられる。
さすがに考え事に集中していたからとは言えず、俺は「手がしびれるのは嫌なので」と答えておいた。
投手たる者、常に商売道具を大事にしないといけないのだ。
× × ×
さて……あれだけ望んだ俺のピッチングシーンがやってきた。
初回は人生で初めて監督に異議を唱えたかもしれない。それくらい俺は自分の登板を望んでいた。なぜかは自分にもよくわからない。投手たる者だから、あるいは――ライバルの尻拭いはライバルがやるべきと心の底で思っているからか。
少しずつオレンジ色に染まりつつあるマウンドで俺は思いっきり屈伸する。ロジンバックを手に取り、掌に付いた粉をふうっと吹き飛ばすのは面白い。ヤクルトの石川投手がよくやるアレだ。
同点で迎えた9回表。相手は中心打者の4番から6番だけど、所詮はボロボロの三住先輩でも抑えられるような連中だ。もちろん、投手としてはあまりバッターを舐めるべきではないが、少なからず余裕は持っておきたい。
ちなみに8回裏は、君沢さんのストレートを前に、9番の俺から2番の大東まで全員が三振を喫した。あんな見事な投球の後で登板するのはちょっぴり恥ずかしいな。
『中垣内工業、選手の交代を申し上げます――』
『先ほど代打いたしました9番の呉羽くんはそのまま入りピッチャー、6番・寺川くんがショート。以上に代わります――』
まあ、ここを抑えれば、後は水走さえ『約束』を守ってくれたらサヨナラ勝ちができる。自身3本目のホームランで試合が決まるとなれば、あいつもまたエース『勝利へ導く者』として胸を張れるだろう。
ついでにこっちも0点で抑えておけば氷野とデートができたりするけど、それはあまり気にしなくいい気がする。そもそもあいつとどこに行けという話だ。あいつの好きなものとかよく知らないし。たまに幼馴染っぽい雰囲気で接してくるけど大体出会ったの4ヶ月前だぞ。
いかんいかん。さっきみたいに考えてばかりだと投球練習を放棄したとみなされてしまう。3球ほどキャッチャーに向けて投げておこう。
『……おっ。やっぱキャプテンより良い球だな、呉羽』
『そりゃこれでも本職ですからね』
マスクをかぶる今津先輩とボディーランゲージを交わしつつ。
俺はボールをしっかりミットに投げ込んだ。
指先の感覚が微妙に合わないけど、この程度なら投げているうちにどうにかなるはず。こういうライブ感もまた心地よいものだ。
「呉羽ーッ! わかっとるやろなーっ!」
ベンチからの大声にグローブで返事をする。
わかってます。わかってますよ、鴻池監督。
ここまで俺を出さなかった理由。
ホームランが出やすくなる夕凪以降の時間帯に即席投手を使いたくなかったから。キャプテンや三住先輩では不安だったから。この呉羽でなければダメだったから。
ああ満たされている。ようやく、久しぶりに実感できた。
投手たる者は常に最良の存在でいたい。
そして、今この時においては俺はチームで一番の投手である。しかもそれは鴻池監督によって保証されていて、だからこそ最後の切り札として使ってもらえた。
加えて俺が抑えれば――もちろん水走次第だがサヨナラだってある。つまり今の俺は紛れもなくチームを『勝利に導く者』なわけだ。
「ククク……来いよ千大一高! 俺がエースだ!」
「おい大丈夫か、呉羽!」
テンションが上がりすぎて変なことを口走ってしまった俺のところに、キャプテンが近づいてきた。何だか申し訳ない。
「大丈夫ですよ。むしろ今季一番の調子ですから、安心してください」
「ならいいが……気をつけろよ。相手は4番から始まるんだからな」
「はい!」
キャプテンのじゃがいものような顔立ちに、少しばかり笑みがこぼれそうになる。
今日もショートの守備は万全だった。エラーを出すことなく好守を連発。ボロボロの三住先輩を大いに助けてくれた人だ。
セカンドの大東も今日ばかりは気合を入れていた。三塁の北口は珍しくファインプレーをやってのけた。一塁手の赤井はまあいつも通りだけど……たまに一塁ランナーにポソッと陰口を吹き込んでいたので本人なりにやる気を出しているのだろう。あいつ捕手の方が向いているかもしれない。
こんな内野陣に囲まれて、俺はストライクゾーンにボールを放り込む。
言わずもがな、自分より努力している人たちが作ってきたものを俺だけが壊すわけにはいかない。必要十分に気合を入れて相手校のクリーンナップと勝負していく。
「ストライク! バッターアウト!」
「ストライク! バッターアウト!」
「よっしゃ!」
2アウトを取って、俺はマウンドで吼える。
もっとも4番の酒井さんに左中間のツーベースヒットを打たれ、続く5番の村中さんにはレフト前ヒットを打たれ、さらに6番の林さんにはフォアボールまであげちゃってからの2者連続三振だ。あまり褒められたものではないと自分でも思う。というか酷過ぎる。
かくして、瞬く間に2アウト満塁となり――打席には投手の君沢さんが入ってきた。
『9番・ピッチャー君沢くん――』
トントンとホームベースにバットを打ちつける君沢さん。
正直なところ代えてくれるとばかり思っていた。なにせ千大一高にはまだ4人目の投手が控えている。俺はより打撃の良い控え野手に代えてくれる可能性に賭けていたけど、相手校の監督さんは続投させるようだ。
賭けていたなんて言い方だとまるでわざと打たれたみたいだな……残念ながら現状は100%実力だ。特に4番のツーベースなんてレフトが水走でなければ3つ走られていたかもしれないような当たりだった。
「いかんいかん。この打席に集中しないと」
細身の身体から力強いスイングを繰り出す君沢さんと相対する。灰塚メモによれば君沢さんは先発する試合では5番に入るらしい。つまり打撃には定評があるわけだ。
とはいえ、塁が埋まっているので敬遠するわけにもいかない。
俺はひとまずスライダーで相手の足元を揺さぶってみることにした。
「ファウル!」
ボールゾーンの変化球を振ってくる。なるほどフリースインガーの早打ちか。おまけに選球眼が無いとなればもう1球くらいスライダーを使ってもいいかもしれないな。
首を振る今津先輩を抑えて、俺は出来るだけ同じボールを投げてみた。
「ファウル!」
やはり振ってくる。
よし。次は高めの速球で誘い出してやろう!
「ファウル!」
「ファウル!」
「ファウル!」
「ファウル」
「ファウル」
「ファウル」
しつこい! アンパイアも段々面倒くさくなってるじゃないか!
さすがに8球も粘られるとこっちも手先が辛くなってくる。変なところに投げれば痛打されてしまうし、キャッチャーミットから外れてしまえば捕逸で1点を取られてしまうこともある。ゆえに我ながら気を張ってしまい変なところに力が入っているのだろう。全体的に身体がこわばっている。汗も出ている。
「ええい……ままよ!」
どうにか勝負を決めてやりたい。そんな気持ちが球筋に出てしまったようだ。投じた速球はストライクゾーンを大きく越えて、打者の頭よりも上を飛んでいった。
ダメだ。ワイルドピッチだ!
叫びたくなる思いを喉の奥に引っ込める。投手たる者は常に平静を保たねばならない。なのにボールに力を込めすぎてしまった。くそう。失投なんて。
「くそう!」
俺は反射的にホームベースへカバーに入る。
ボールを取りに行っているキャッチャーの代わりに俺が本塁を守らないといけない。
だが、ガムシャラに走っていると、妙なものにぶつかってしまった。
「……どうした呉羽。まだ勝ってないのに」
「へ?」
ゴツゴツした合成皮の防具から声が聞こえてくる。
見上げると今津先輩が立っていた。左手のグローブの先には白いボール。
どこにも転がらずに、きちんと掴まれていた。
「い……今津先輩!」
「俺は大きいだけが取り柄だからな。さあ戻るぞ!」
「……へ? スリーアウト?」
よく状況を呑みこめない。どうしてスリーアウトを取れたのか。
ふと足元に目をやると……打席で君沢さんがズッコけて倒れたままになっていた。どうやらあの大暴投を振りにいってしまったらしい。それがバットに当たるはずもなく空振り三振となったわけだ。
「……ブンブン丸みたいですね」
「ふん……どうせ3割しか当たらねえんだよ」
初めてグラウンドで相手の投手と言葉を交わしたかもしれない。
君沢さんは言葉こそ辛辣だったが、表情には余裕が窺えた。アイドルのような容貌の奥にはしっかりと投手たる者のプライドが見え隠れしていた。
同時にプロを見据えた者らしくストイックな演技も忘れていない。立ち上がってから身体についたドロを落としているのは自分がお客を呼べる人間だとわかっているからだろう。見栄えが良いことに越したことはない。
「ん。ああ。なるほどな。今日はお前の勝ちかもしれねえな!」
「え?」
いきなりわけのわからないことを言われる。
さらにはポンと肩まで叩かれた。身体の細さとは裏腹に大きな手だった。
「なるほどな。奇策を用いるチームだとは聞いていたが、やるじゃねえか!」
「え、あ、ありがとうございます?」
「まさかしてやられるとはなあ。いやはや、いやはや!」
君沢さんはそれっきり何も言うことなく、そのままベンチまで戻ってしまった。
もちろん対戦チームのベンチまで追いかけるわけにはいかないので、俺はただただ立ち尽くすばかりだ。
いったい俺が何をしたというのだろうか。
やがてアンパイアが俺にも戻るように促してくる。
「君沢さんは何に負けたんだ?」
一応ベンチには戻ってみたものの、奇跡の3者連続三振を喜んでくれるチームメイトたちと交わってみただけで、やはり答えは浮かんでこなかった。




