第2話 その名はフィア
「──竜だ!」
上空から飛来した紅の巨体を前に、兵士のひとりが声を上げた。
それを聞きながらアインは歯噛みしていた。くそったれ、なにもこんなときに。
全身を覆う硬い鱗。天を覆う一対の翼。簡単に森を簡単に薙ぐ四肢と尻尾。体の構造や顔つきはトカゲに似ているが、むき出しの牙と背中へ向けて伸びる角は凶悪。
さらには巨大。ガルバを2頭ならべても少し足りないほどの巨躯。
それが自在に空を泳ぎ、こうして地上の弱者を襲いにかかる。
竜。世界最強の種族であり、もっとも神に近い種族。
そんな存在を前にして、アインが脳裏を埋め尽くしていたのは恐怖ではなかった。
──どっちだ!?
というのは、この竜が昼種か夜種か、ということだ。それは文字通り、その生物が昼世界と夜世界のどちらに属する存在であるかという分類。
かつて神は世界を昼と夜に分かち、それぞれに住まう命を生み出して戦いを命じた。
戦いとはつまり昼と夜の戦いであり、昼種と夜種は本能的に互いを敵視する。
昼種であればいい。優先的に狙われるのは夜人のアインであり、エデュロたちを逃がすための時間稼ぎができる。
だが、その目を見てすぐに分かった。兵士たちを睥睨するその両目には、ギラついた敵意が宿っている。
「夜種か!」
単に腹を満たすために襲いに来たのでは説明のつかない明確な憎悪は、この竜が夜世界に属する存在であることの証だ。
ガルバのそれとは比べ物にならないほどの咆哮がとどろく。そして振るわれる剛爪。狙いは──。
「エデュロ!」
馬から飛び降りて疾駆する。すんでのところでエデュロを抱き留め、爪をかすめて地面へ転がった。
「生きてるか!?」
「ああ──来るぞ!」
エデュロの警告を受けて振り向く。視界を埋め尽くす赤。それが竜の足の裏であると気づき、アインはとっさに両腕を伸ばした。
「ぐ、お──!」
腕を通して途方もない質量が伝わってくる。全身の骨がきしみ、筋肉が断裂する音が次々に聞こえてくる。血の匂いがこみ上げる。
「アイン!」
立ち上がったエデュロが爪と肉の隙間に剣を突き立てる。どれほどの怪物でも痛みは感じるようで、竜は絶叫して高く飛び上がった。
「全員、矢を射かけ続けろ! できる限り近づく気をそぐんだ!」
エデュロの命令にしたがって、矢の群れが竜に殺到する。ほとんどが届いていないし、届いたところで大したダメージにはならないだろうが、時間稼ぎにはなりそうだった。
「アイン、体は?」
「骨はなんともねえよ。筋肉のほうはちょっとやられたけど、まあ、大丈夫だ。やれる。神さまに気に入られててよかったぜ」
「そうか。……ならば、頼めるか?」
「どれくらい稼げばいい」
「15……いや、10分あれば。魔獣の群れと竜、観測隊がとっくに発見しているはずだ」
「了解だ、上官殿。ただ……」
竜を見上げる。アインの眉間にはしわが寄っていた。
「ありゃあ魔獣じゃない。南から飛んできたのが見えた。で、さっきの動きからして間違いなく夜種だ。ようするに──」
「私たち昼人を優先して狙うか」
「そういうこと。だから、うまく時間稼ぎできるかは微妙だ。おれなんか無視して、あんたらを追いかけるかも」
「そのときはそのときだな。なんとか逃げ切って見せる。おい、弓と矢を」
エデュロから弓矢を受け取って、アインは苦笑いした。こんなもので気を引けるだろうか。
矢の雨が止まる。竜は様子を窺うようにゆっくりと高度を下げはじめた。
「頼んだ!」
そう言い残し、エデュロは騎兵と馬を連れてアルバスに戻っていった。
「さて、こっち来てくれるかねえ……ん?」
そこで竜の様子がおかしいことに気が付いた。どんどん高度を下げて、こちらに近づいてきている。
もちろん目を射抜いてでも注意を引くつもりだったが、予想外の行動だった。
赤い巨体が草原に降り立った。
「へえ……おれもなかなかモテるじゃねえの」
軽口に反応はない。竜はただまっすぐにアインを見据えている。
しばらくの沈黙。
沈黙を破ったのは、アインではなかった。
「──貴様がアインか」
その音がなんであるのか、アインは理解できなかった。またしても沈黙。再び竜が口を開く。
「答えろ。貴様がアインだな?」
「そう、だけど……は? なに? 夢?」
さすがに2度も聞かされれば、それが明確な意思を持って発信された声であるということがいやでも理解できた。しかし信じられない。
「そう驚くこともあるまい」
竜の発話は非常に流暢で、人間のそれとまったく遜色なかった。表情はないのに感情が伝わってくるのが、アインにはひどく不気味に感じられた。
「われわれ竜種こそ、神にもっとも近しい種族。一方、貴様ら人類種は神からもっとも遠い下等生物だ。貴様らに扱えるものが、われわれに扱えないことなどあろうか」
明確な侮り。それがアインの記憶に強烈に反応した。人間に敵対的な、人語を解する竜。
「エデュスの邪竜か」
「その呼び名は人が勝手につけたものだ。我らは祖なる竜ルーラーレーエンに連なる至高の血族、レーエンの民である」
エデュスの邪竜。レーエンの民。それはとある竜の一族を指す言葉だ。
彼らは夜種の竜の中でも特に昼世界に対して敵対的で、長い歴史の中でなんども世代交代を繰り返しながら攻撃を続けてきた。
一族の竜は人語を解するほどの知能を持ち、肉体は並みの竜の比べてはるかに強靭で、ひどく残酷だという。
「アインよ。我は貴様を殺しに来た。おとなしくしていれば、我が牙によって一思いに終わらせてやろう」
「そりゃありがたいな……けど、その前にひとついいか」
「なんだ」
「どうしておれを? あんたのお仲間をやった記憶はないぜ」
これはアインにとって放置できない疑問だ。
古から昼世界を脅かしてきた竜が、夜人の自分を名指しして殺しに来た。わけがわからなかった。昼人の味方をして魔獣と戦ってきたのがよくなかったのか。
そんなことを考えながら答えを待つ。しかし、竜が返したのはなんのことはない内容だった。
「知らぬ」
「え?」
「貴様が狙われる理由など、知らぬ。我は血族の長に命じられたにすぎぬ」
「あ、そう……」
どうもこの竜は血族とやらの中では立場が低いらしく、アインは理由を聞き出すことをあきらめた。まあ、そういうこともある。
「じゃ、やるか」
「……ふむ」
「どうした?」
「我は、おとなしくしていれば一思いに、と言ったはずだが」
「しねえよ。まだ死にたくねえもん」
「そうか。では──」
両翼が広がる。風が吹き荒れて、小石がアインのほほをかすめていった。血が草の上に飛び散る。
「苦しみもがいて死ぬがいい!」
「来い!」
弓矢を捨てて構えを取る。それが合図となった。
巨大な口が開き、ずらりと並んだ牙が迫ってくる。後ろに飛びのいて避けたが、反撃を加えるような余裕はない。竜は噛みつきがからぶったのを確認すると、すぐさま全身をひねって尻尾の一撃をくりだしてきた。
横なぎに振るわれる尾。あまりにも長く、前後に避けることはできない。
とっさに踏み切って宙へ躍り出る。まるで棒高跳びのように、背中を向けて尻尾を飛び越えた。わずかにかすって痛みが走る。やすりのような鱗が服ごと擦切った。
まだ終わらない。今度は巨大な爪がネコ科の一撃のような速度で繰り出される。斜め前に踏み込んでギリギリをすれ違うと、今度は肘の刃で鱗を切り裂いた。
しかし。
「浅いか……!」
「かゆいかゆい!」
まったく手ごたえがなかった。さきほどエデュロが爪と肉の間に剣を差し込んだように、むき出しの肉や粘膜であれば痛みを与えることもできるだろう。
しかし、鱗の上から、ましてこの巨体だ。薄皮を2,3枚ほじられた程度にしか思っていないのかもしれない。
「ホントに時間稼ぎしかできねえな……ま、それでいいんだけど」
対ガルバでエデュロが失態を見せたのは、あの魔獣が新種であったためだ。こんどの敵は古くからの脅威である竜に魔獣の群れ。アルバスの全軍が動員される。時間稼ぎさえできれば、あとは軍隊が何とかしてくれる。
「とにかく死ななけりゃいいんだ。死ななけりゃ……」
言いかけて、全身の肌があわだった。反射的に飛びのく。直後、とてつもない熱と衝撃。
「ほう、避けるか」
竜は心底感心した声音でそう言った。その口から、チロチロとオレンジ色の火が漏れている。さきほどまで立っていた場所が火の海になっていた。
「火の魔法……!」
アインは戦慄した。草原を焼き払うほどの強度の魔法を、この竜は詠唱もなしに実現させた。これが全力ならいい。しかし、これより上があるなら。
竜に背を向け全力で駆け出す。戦いのさなかに背中を、などもはや気にしてはいられなかった。
「翼なきものは、我が炎より逃れられん」
背後で竜の声。同時に強烈な突風。振り返ると、赤い巨体が頭上にあった。
「さらばだ、人の戦士アイン。今度は我が同胞に生まれることを願う」
別れの言葉を乗せて大火が落ちてくる。それはさきほどの火球とは違い、周辺をすべて灰へと変える業火の瀑布。回避など意にも介さない、圧倒的広範囲の死。
アインは反射的に目を閉じた。両腕をクロスさせしゃがみ込み全身を守る。
しかし、いつまでたっても熱と衝撃がやってこない。あるいは、痛みを感じる間もなく死んでしまったのか──。
だが、目が開いた。まず視界に飛び込んできた色は、白だった。
それは少女だった。馬に乗っている。ずいぶん小柄だ。アインが175あるのに対し、少女は140半ばほどか。
白い髪がまっすぐに腰ほどまで伸びている。肌も信じられないほど白い。身を包む白い修道服。その下に鎧を着こんでいるようだ。
「ようやく会えたというのに、すぐ死なれては困るな。きみ、大丈夫か」
少女が振り返る。その顔立ちを見て、アインは絶句した。
絶世だった。もし彫刻家が見れば、神と自らの腕前の差に絶望して自死を選ぶかもしれない。それほどまでに美しかった。
そしてなにより、その目。
やや釣り目がちな黄金の両目には不可思議な輝きが宿っていた。力強く、覇気にあふれ、けれど優しい。
「ほう……」
頭上から声が落ちてきた。
「人の身で我が炎を防ぐとは」
それを聞いてアインはハッとした。そうだ、おれはなんで生きてる? あたりを見渡す。草原は見渡す限り火の海だ。
その答えは少女が示した。
「わたしの防壁は害意を通さない。まあ、限度はあるが」
そう言うと、半透明の球体が少女を覆った。それは一瞬であらわれ一瞬で消えた。
「奇跡か。忌々しい……む!」
背後から竜に向けて無数の矢が降り注いだ。振り返ると、エデュロを先頭にした大軍勢が到着したところだった。間違いなく5000はいる。
「これは……退くべきか」
これほどの数を前にしたからだろうか、竜は撤退の意思を示した。それでも、あの炎を受けたアインからすれば、数などこの竜にとって取るに足らないもののように思えた。
その疑問は少女が引き取ってくれた。
「その通り、おとなしく逃げるといい。わたしには見えるぞ? さっきの炎で神力を使い果たしたようだな」
「……神力の流れが見えるのか。ますます忌々しい」
そう言うと、竜は翼を大きく動かしてひといきに飛び去った。赤い巨体が一瞬にして小さくなり、雲の向こうに消えた。
「生き残った……」
まだ少し信じられず、アインは呆然とつぶやいた。そこに馬を降りたエデュロが駆け込んできた。
「アイン!」
「おお……仕事、果たしたぜ。片手落ちだけどな」
「いや、よくやってくれた……名代殿にも感謝を。私の指示で、この男を失うところでした」
名代殿? アインは一瞬疑問符を浮かべたが、すぐに少女を指しての言葉だと理解した。どうやら彼女は誰かの代わりとしてこのアルバスにやってきた人物らしい。
「しかし、勝手なことをなされては困ります」
「ああ。わがままをして悪かった。許せ」
「もしあなたの身になにかあれば、私の首が飛びます。比喩ではなく」
「わかっている。見ろ、傷ひとつない」
「……まあ、いいでしょう。しかし、これ以上あなたを戦場に置いておくことはできません。アインとアルバスへお戻りを」
「わかった」
少女の返事を聞くと、エデュロはちょっと疑わし気にしながらも軍の先頭に戻っていく。しかし、その途中で振り返った。
「アイン! 悪いが……」
「わかってる。星が出たら呼んでくれ」
そう言うと、エデュロは黙ってうなずいて、今度こそ軍を率いて北に向かっていった。
「では、わたしたちは戻るとしよう」
少女が馬上から手を伸ばしてくる。アインはそれに応えながら口を開いた。
「助かったよ。おれの名前は──」
「アインだ。きみの名前はアイン。さっき知ったわけじゃないぞ? きみのことは以前から聞いていた」
「……そうなのか? じゃあ──」
「フィアだ」
少女──フィアは質問が言葉になる前に答えた。
「わたしの名前はフィア。これからよろしく頼む──わが騎士アイン」




