8.何もかもが無意味
ふいっとキスを避けて、顔を背けた私を驚愕の目で見るマテオ。いつだって受け入れて貰えるという彼の甘い考えを正したくなった。
私も心の通い合ってない相手と口付けを交わす程、割り切れていなかったようだ。私は氷のように冷えた心に従い彼の耳元で囁いた。
「私がどのような女か知りたいのでしょ。付いて来て下さい」
舞踏会も終わらぬ中、マテオが動揺したような素振りを見せる。周囲の貴族達が皆、私達に注目している。回帰前、彼は私と仲睦まじい姿を見せた方が良いという考えに辿り着き、二曲目を私と踊った。常に他人の目を気にする彼は監禁されていた私から見ても窮屈に見えた。
「別にいいですよ。このままお一人でここに留まって頂いても。皇帝陛下と踊りたい令嬢が沢山お待ちでしょうし」
私は「二曲続けて踊るつもりはない」という意思を示した。夫婦になったとはいえ、全く分かり合えていない私達。周りの目ばかり気にして行動して、私の気持ちに目を向けない彼の手伝いをするつもりはない。私の言葉の真意に気がついたマテオはどよめく舞踏会会場を後にした。
「地下牢に行くのか?」
私は静かに頷き、彼に囁く。
「初体験ですか? よく目を見開いて見ていてくださいね」
唾を飲むマテオは私を何処までも惨めにさせる。彼は私が投獄された後、一度も私に会いに地下牢に来なかった。無理もない。彼自身が私を投獄させる命を言い渡したのだから。
地下牢の入り口で慌てたようについて来た四人の従者が松明に火を灯し出す。
足元も暗くおぼつかないような場所に、皇帝が赴く。彼らは、できるだけ、快適な環境を整えようとしている。
残念ながら明るくなれば成る程、地下牢の悲惨な環境が明るみになる。ネズミやゴキブリが蠢く不衛生な場所。マテオも足を踏み入れるなり、顔を顰めていた。
マテオは自分の母の出自に引け目を感じているが、非常に高貴なオーラを纏った方。こんな見窄らしい不潔で無機質な場所には似合わない人だ。
私は回帰前三週間、地下牢で過ごした。湿度が高く異臭がする悲惨な環境で昼か夜かも分からない直なんを過ごす。階段を降りる足音がする度、私を心配するマテオの姿を妄想し見窄らしい自分は見られたくないと姿勢を正した。途方もなく虚しい時間だった。
松明を持った従者を連れて場違いなエスコートをされながらマテオと地下への階段を降りると、鉄格子の奥に不貞腐れもたれかかった令嬢達がいた。
令嬢達が未だドレス姿のままなのは、皇帝の温情でどうせここを出されると判断した守衛の判断だろう。
「マテオ皇帝陛下、お助けください。世間知らずの女に権力を与えた結果がこれです」
ナタリアの言葉に周りの令嬢達が頷く。
彼女の言葉に呼応するように投獄された貴族令嬢達が声をあげ、マテオに許しを乞う。
「世間知らずの女とは誰のことですか? しっかりと名前で言いなさい!」
私の声に地下牢に沈黙が訪れる。
ナタリアは半日閉じ込められただけでげっそりしていて、帝国一裕福な侯爵家の令嬢だった面影はない。
「ナタリア嬢、質問に答えられないくらい疲弊しているのですか?」
私の言葉が聞こえないかのように、彼女は鉄格子まで近寄りマテオに縋ってきた。
「マテオ皇帝陛下、聞いてください。私はアドリアーナ皇后陛下に嵌められたんです。お茶に毒が入っているなどと、言いがかりをつけられて⋯⋯」
ナタリアは当たり前のように被害者面をし、涙を流している。しかしながら、彼女が私に毒を盛ったのは真実。マテオは純粋過ぎるから目の前の涙を流す女の言葉を信じるだろう。
「毒が入っていたとの証言は控えていた従者からも聞いている」
マテオの言葉は意外だった。回帰前もこの嫌がらせはあったが、マテオは大多数の貴族令嬢の言い分を信じた。毒で苦しむ私の姿を前にしても、「病弱だと茶葉に偶然混じってしまった毒でも致命傷になるのだな」という言葉で片付けた。
私は二週間苦しんだのち、毒から回復し自力で毒の入手経路を突き止めナタリアを断頭台送りにした。彼女が全て自分の独断だったと極刑を受け入れたので、彼女の実家までは処罰できなかった。私の父を断罪するなど夢のまた夢。父の取り巻きのような貴族達は皆、父に火の粉がかかりそうになると身内どころか自分も切り捨てるのを厭わない。父はそれほど人心掌握に長けていた。
「マテオ皇帝陛下違うのです。何か誤解があるかと⋯⋯」
ここに来てまで自分の状況を理解できず、言い逃れをするナタリアに呆れた。
「毒を盛った事への私への謝罪はないのですね⋯⋯」
私の言葉にナタリアは息を呑むと唇を震わした。
「わ、私は⋯⋯」
「誰の指示ですか? それとも貴方の独断? 正直に言いなさい」
毒を盛ったのは彼女の父親マルティネス侯爵の指示。彼は父の腰巾着。証言が取れれば、私の父が娘である私を脅迫している事実にマテオが気がついてくれるかもしれない。我ながら情けない事に私は未だ彼に期待していた。
「何のことだか分かりませんわ。私がお出ししていたお茶に毒が入っていたからといって、私が犯人だと決めつけるアドリアーナ皇后陛下は視野が狭いのではありませんか?」
「視野が狭い?」
「邸宅にばかり籠っていらして、外の世界を知らないではありませんか。突然、現れた方がペレスナ帝国の女性最高位の椅子に座ることを面白く思っていない方は沢山いらっしゃいますし、私が犯人だと決めつけ⋯⋯」
ナタリアが話終わるのを待つまでもなく、私は隣にいた従者から赤い炎の灯る松明を受け取り彼女の口に突っ込んだ。
回帰前の地獄の二年の皇宮での結婚生活。
私は周りに敵ばかりだと知って、一人必死に戦った。今回の毒物混入の件も既に過去に黒幕から入手ルートまで突き止めナタリアに極刑を求めた。そんな私にマテオは「好きにすると良い」と興味なさげに言い捨てた。
しらばっくれて、何とかなると思っているナタリアが憎らしい。皇族毒殺未遂で回帰前に極刑になったナタリア。私が今、温情を与えてやっている事に気が付きもしない。
「うい、うが⋯⋯」
松明の真っ赤な炎が彼女の口の中を燃やす。
「あら? 口の中で松明の炎を消すパフォーマンスをするサーカス団があると書物で読んんだですが、結構難しいんですね。消して見てくださいな。外の世界を知る視野の広い貴方なら、それくらいのことできるでしょ」
「あ、あ、たまおかし⋯⋯」
どうやら、ナタリアは喉が焼けてしまい上手くしゃべれないようだ。
「今から、あなたを拷問します。喉が焼けてしまって喋れないのなら、血文字で言いたいことを言って下さい」
他の令嬢達は硬直して私を見ている。人に毒を盛って苦しむ私を笑いながら享受していた人間の癖に浅ましい。ナタリアは恐怖のあまりか失禁していた。
閉ざされた空間にアンモニア臭が漂う。
「あら、何だか臭いますね。ペレスナ帝国の侯爵令嬢がはしたない。ああ、今はただの囚人ですね」
これ以上ここにいても時間の無駄。私が地下牢を立ち去ろうとすると、マテオが震える手で私の手首を掴んで来た。
「今、悪魔に取り憑かれてるのか? こんな酷いことをするなんて⋯⋯」
戸惑ったようなマテオの表情。彼は妻が毒を盛られそうになったのに、怒り狂ってくれない。回帰前も失望させられたが、今回はもっとだ。私は彼への未練を断ち切れそうだ。
「酷いこと? 妻が毒を盛られ苦しむのと、嫌がらせをしようとした女が喉を焼かれ苦しむこと。貴方にとって『女はモノ』と変わらないから、私とナタリアの価値は変わらない。行為の過激さしか見ないのね」
彼も結局は父と同じだ。愛する人が害されれば激怒するのが私の理想。マテオは私の思った人ではなかった。改めて突きつけられた事実に私は溜息をつくと共に、自分がこの世に固執する意味を失い出す。
マテオと父に自分がした罪を思い知らせ復讐し地獄送りにしたかった。でも、彼らにとって私は人ではなくモノ。私が予想外の行動をしても狂った女の行動と片付けられて、私の気持ちなんて考えることもない。
母を殺すと父に脅され、意を決して決してマテオをに手を掛けた。それでも迷いがあって、私はマテオを殺せず暗殺は失敗に終わった。
側にいて想い続ければ、マテオが振り向いてくれるという期待。そんな期待は既に裏切られていたのに、彼を殺す事を躊躇した私。なんの躊躇いも無く私の処刑を決めた彼。
何もかもが無意味。私は意識が遠のいていった。
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