18.消えたくない
過去の記事を見る限り、母と叔父は非常に仲の良い姉弟。母がペレスナ帝国に嫁いだ時の記事に他の王族が激励と祝辞を述べていたのに、当時王子だったダニエル・ガルシアンだけは違った。
『ドミティラ・ガルシアンを失うことは我がガルシアン王国にとって大きな損失。弟としても心臓をもぎ取られたように苦しい。自分は生涯、ペレスナ帝国のメルチョル・ロランドを許すことはないだろう』
最悪の場合、ペレスナ帝国とガルシアン王国の戦争の火種にもなり得る。
「エクトル、私の母は私の結婚式の朝に自殺しています」
「⋯⋯そんな事、公表されていないはず」
私の母に特別な思いがあったエクトルは動揺を隠せていない。この部屋に漂っていた色っぽい空気も消え失せた。
「お話しします。ロランド公爵邸であった地獄の全てを⋯⋯」
私の決意の言葉を聞くと、エクトルは私をゆっくりとベッドに横たわせる。
私はポツリポツリと記憶にある母の悲しい姿を語った。エクトルは私をずっと柔らかく抱きしめ髪を撫で続けていた。
どこまで、語ったか分からないけれど、涙が止まらなかったせいか私は泣き疲れて寝てしまった。
エクトルになら、いつかこの体が乗っ取られているという信じ難い話もできる気がした。
♢♢♢如月スミレ♢♢♢
目を開けると私を宝物のように抱きしめる絶世の美青年がいる。めちゃくちゃ良い匂いのする睫毛の長いイケメン。ほろ苦いフローラルな甘さのあるベルガモットの香り。
そして、私の姿はやや着崩れたバスローブ一枚。私はマテオと結婚したはずなのに、他の男と寝てしまったようだ。
マテオは非常に優しい男だったのに、突然私が偽者だというように糾弾し始めた。ショックを受ける私を温室の薔薇園に置き去りにした彼。あれからの記憶が全くない。いわゆる失恋のショックのあまり飲み過ぎて、起きたら隣にイケメンが寝ていたというやつだろう。
「おはようございます。アドリアーナ」
うっすらと目を開けたイケメンのアクアマリンの瞳に吸い込まれそうになる。大人の色気に危うい雰囲気が混ざった感じ。女子校育ちの私は刺激不足なのか、マテオよりこの男の方がドキドキする。
「私達、結ばれてしまったのですね。私ってば、人妻なのにふしだらですよね。でも、後悔はないんです。私、今、凄く満たされてます」
とりあえず、私を今愛おしそうに見つめてくるこの男を不快にさせないようにするべきだ。天蓋付きのベッド。高級な雰囲気のある広々とした寝室。こんなところで抱かれたのだから、私はきっと大切にされている。「自分を大切にしてくれる人を大切にしなさい」というのは私の尊敬する母の言葉。
猫ちゃんを助けて死んでしまったかもしれない私。素敵な旦那様のいる絶世の美女アドリアーナになったかと思えば、突然冷たく私を引き離す夫。私に優しくないあの男ではなく、ショックを受けていた私を慰めてくれた男を私は選ぶ。
何か失言をしてしまったのかもしれない。眼前の美青年の視線が一瞬にして冷たいものに変わる。
「お前は誰だ?」
甘々な雰囲気は消え失せて、尋問タイムが始まったのが分かる。
「私はアドリアーナです。あの⋯⋯貴方の名前は何でしたっっけ」
名前も聞かずに傾れ込むようにベッドに入ったのだろうか。全く覚えがなくて分からない。お酒は身を滅ぼすというが、記憶が本当に飛ぶとは恐ろしい。いっそ、禁止薬物として指定した方が良いとさえ思える。
「アドリアーナ? 笑わせるな。アドリアーナの体を乗っ取っているお前は誰かと聞いている」
急に大きな声を出されビクついてしまう。私は彼に何も悪いことをしていないのに、どうして彼が怒っているのか分からない。
「如月スミレ⋯⋯って言っても分からないですよね」
聞こえるか、聞こえないか分からないくらいの声で毒ついた私の声は男の耳に届いていた。
「あぁ、如月食品のお嬢さんが、どおりで⋯⋯」
目の前の異世界の美青年が、日本の父の経営する会社を知っている。
「もしかして、貴方もですか?」
私は自分と同じように異世界の人間になってしまった人を見つけたと思い嬉しくて、彼に手を伸ばした時だった。
その手を手首が折れそうな力で掴まれ、ベッドに押し付けられる。
「あの方のおっしゃった通りだ。生まれた時から自分の周りに沢山あるモノに価値は感じないんだな」
「なっ、何を言っているのですか? それは、どういう意味なのでしょうか?」
男が話す内容の意味が分からない。国語の成績には自信があったのに、男女の国語は難しい。
「消えろって言ったんだよ。お前には全く唆られない。僕の愛しい女性を返してくれ」
私は彼が何を言ってるのか全く理解できない。消えろと言われても困ってしまう。如月スミレに戻れるなら、戻りたい。でも、私の世界で私が死んでいるとしたら、アドリアーナとして自分の果たせなかった事をしたい。私だって、十七歳なんて志半ば命を絶たれたなんて信じたくない。私には成し遂げたい夢もやりたい事も沢山あった。
「私、消えたくないです」
私は自由な方の手を伸ばし、男の頬に触れて聖女の力を使った。この力には価値があるようにマテオも言っていた。私の価値を示せば、この男の態度も変わるだろう。
「ふっ、聖女の力を媚びる為に使うなんて、お前はこの体の主として相応しくない」
男の目はより鋭い目付きになる。
私は怖くて、取り敢えずにっこり笑った。『笑う門には福来る』、私の座右の銘。私がいつも幸せそうに笑ってるから、人も集まって来ると母も言っていた。
「何処までもお前は僕を苛立たせるな。何も楽しくないのにヘラヘラ笑っていて気色悪い。それで、何でも上手くいくと思ってる馬鹿女が!」
ここまで人に罵倒されたことは一度もない。上品な見た目なのに、この男も随分乱暴な物言いをする。
やはり、夫マテオの元に帰った方が良いかもしれない。男は一度寝ると冷たくなると言うのは本当だったようだ。
「私、マテオのところに帰ります。貴方は、私の事嫌いみたいだしお望み通り消えますね」
立ち上がろうと腹筋に力を入れ起き上がった私を、男はそっと抱きしめて来る。
(押してダメなら、引いてみろって事だったの?)
私は男の態度が変わったと嬉しくなって、抱きしめ返した。
「僕はお前を嫌いなんじゃない」
「嬉しいです」
私は彼を抱きしめる力を強める。温かい温もりにホッとしたのも束の間。私は冷水を浴びせられた。
「心底、お前に興味がないだけだ。消えろ。この世界にお前の居場所はない」
耳元で囁かれた凍りつくような冷たい言葉。誰も知らない世界で、私を知っている人を見つけたのに突き放された。私は真っ暗な谷底に落とされるような感覚に陥っていた。
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