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鏡の先の貴方に

作者: 都月トーカ


 ガチャリ。


 小気味良い音を立てて扉が開く。数ヶ月前であればオレンジに染まっていた空は、未だ憎たらしい程に青く晴れ、遠くの白を浮き立てる。


 薄く、柔らかい風が吹いていた。


 簡素な屋上に出て、あたりを見渡すと目的の人物がすぐに目に入る。扉の音で向こうも気づいたようで、彼女を見つけた線が絡み合う。


「いきなり呼び出してすまないね。さぁ、こっちに来なよ。」


 女性としては低く、少し掠れた声が屋上に響いた。


 言われた通りに足を向ける。待たせてしまったことを詫びると、私が呼んだのだから少し待つなんて訳ないさ、と特徴的なハスキーボイスで返してくれた。


「…先ずは、呼びかけに応じてくれてありがとう。来てくれてとても嬉しいよ。」


 キザで、芝居がかった、だけれどもなんの違和感の無い笑みを零す。


 哀川 透花。

 170程の女性の中ではかなりの上背。短く切り揃えた濡れたカラスの様な黒より黒い髪。そして、誰もが思わず振り向くであろうその美貌。大きな目に、高い鼻、特徴的な赤い唇。それに思わず喉が鳴りそうになる。

 

「何から話したものか。…そうだ。駅前に工事中の建物があっただろう?あれ、個人経営のカフェが入るらしいんだよ。まだインスタでしか情報が無いけど、すごい君の好きそうなお店だったよ。完成したら一緒に行かないかい?」


 透花さんとは、よく話すようになって二月程しか経っていない。それにも関わらず、彼女は頻繁に僕に話しかけてくれている。休日もここ最近は、彼女と過ごすことが多い。最初の方は水族館や映画館など外出が多かったが、お互い学生の身分であるため近場で済ませたりどちらかの家にあがることが増えて来た。


 最初こそクラスの人気者である彼女と僕のような人間が関わることで顰蹙を買うことになるかと思ったが、不思議なことにそれは全くなかった。そんな懸念は僕の考えすぎで、人はあまり他人に興味がないのかも知れない。とにかく彼女は、そんなこんなで出来た僕にとって数の少ない友人である。


「いい返事を貰えて嬉しいよ。それで……」


 新しい話題を探そうとして、そして、口籠もる。僕と彼女の間には何とも言えない普段とは違った空気が流れていた。何故か十年来の友人のように、気の置けない仲の僕達にとってそれは初めてのことだった。


「まぁ、無理もないよね。……じゃあ本題に入ろうか。」


 今日この僕は、屋上へ彼女の手紙で呼び出された。『大事な話がある』と屋上に場所を指定された手紙が、僕の引き出しの中に入っていたのだ。


 正直、彼女のような魅力的な女性に、このような呼び出し方をされて期待をしないわけがない。だが、こうして彼女を目の前にして、告白とは似て非なる雰囲気を放つ彼女に呑まれていた。あのような甘い緊張感ではない。きっとこれから大事なことを伝えられるのだろう。でもそれは、何かが戻れなくなるような、そんな気がした。

 背中に暑さとは無縁の汗が伝う。


「半年前、珍しく土砂降りだった冬の日の午後を覚えているかい?私達が初めて出会った日の事だよ。」


 半年もの時の流れのせいだろうか。僕の拙い頭のせいだろうか。僕には思い当たる節が無かった。


「その様子だと覚えていないんだろうね。まぁ、君らしいよ。」


 透花さんは少し寂しそうに、でもどこか満足そうに微笑む。


「傘を忘れてしまってね。当時の私、いや、ボクは少しやさぐれていたものだから、誰かに借りる気も起きずにそのまま帰っていたのさ。」


「そんな濡れ鼠のボクに、君は傘をくれたんだよ。」










「覚えていないかい?まぁ、あの時の君はちょっと様子がおかしかったからね。」


 呆けたような彼に語りかける。


「最初は、下心のあるつまらない男だと思ったよ。これでも容姿が優れている自覚はあるからね。」


 でも、違った。


「次は、ただの優しい人かと思ったよ。濡れながら帰っている女の子を放って置けなかった、善良な人かと。」


 でも、違った。

 傘を差し出した君の表情が今でも忘れられない。


「誇ってもいいような善行をなしながら、あんなにも追い詰められた、苦しそうな表情をしてたのだから。」


 まるで、そうでもしなければ痛みに耐えられないかのように。


「それから、傘を押し付けてそのまま去っていった君に、興味が湧いたんだよ。ボクみたいなヤツが本当に、珍しい事にね。」


 そこからまた、始められたんだ。


「ボクたち去年から同じクラスだったろう?ずっと君を見ていたよ。というより、思わず目で追ってしまっていた。」


 教室での彼は絵に描いたようような"いい奴"だった。近くの誰かが消しゴムを落とした時、真っ先に拾いに行くような、誰かが転んだ時、真っ先に駆けつけるような、そんな善人。小さなことから、時に大きなことまで他人のために動ける人。


「やっぱり優しい人なんだと思ったよ。」


 でも、やっぱり違った。


「君は誰かが困っていたら誰であろうと助ける。でも、君は助けるだけだ。」


 助けた相手が救われた事を喜ぶことは無い。誰かを助けたことで満たされる様子もない。

 ただ、安堵するだけ。ギリギリの所で助かったのはまるで自分だったかのように。その背に迫った脅威から、何とか逃れることが叶ったように。


「君はもう二度と人を見殺しにすることが出来ない。そうなんじゃないかな?」


 彼の表情から、確信を得る。


「詳しい内容は勿論分からない。分かるはずもない。でも、君が過去に囚われていることはわかる。」


 死にかけた心に、もう一度同じ衝撃が加わってしまえば、それは砂の城のように崩れる。歩き方を忘れて、呼吸の仕方すら思い出せずに、別の人間へと変わってしまう。それを彼は恐れている。

 

 やっぱり同じだ。似ているのだ。


「理解できるよ。手に取るように。理解してあげられる。君の苦悩を、痛いほどに。」


 過去に囚われた同類。決して癒えない傷を持った、その傷を隠して生きる術しか知らない可哀想な同種。


「君なら理解できるだろう?」


 この傷の痛みを。

 傷だらけの体で生きていく恥辱を。

 この生傷は勲章なんかじゃない。失敗だらけだった消えない証左である事を。


「一つ提案があるんだ。」


 鏡の先のあなたに。


「ボクと、いや、私と一緒に生きて行かないかい?」


「私達がこれから生きていく中で、私達のこの、どうしようもない本質を理解してくれる人もいるにはいるだろうさ。だが、その数は極めて少ない。そんなことは君も分かっているだろう?」


「私なら、貴方を理解してあげられる。」


 貴方なら理解してくれる。痛いほどに。苦しいほどに。それが己の傷かのように。


「だから、私にしないか?」


 傷を舐め合おうよ。瘡蓋すら出来ずに、血が僅かに滴り続ける、この赤い過去を。


「何でもいいさ。友達でも、親友でも、彼女でも、セフレでも、妻でも、母親でも、姉でも、……妹でも。ふふふ、君にとって都合のいい女になってあげようじゃないか。」


 そう。君が失った片割れにもなってあげれる。

 彼は、ついに口を開き疑問をこぼした。


「ん?"どうしてそこまでするのか"ね。同じだよ。私の気持ちを理解できるのが、この世にどれだけいるか。」


 健常者"だった"人間は、もう、どうやってもどれほど取り繕っても普通には生きられない。視界のどこかに、確実に、過去が映り込む。何を考えていようとも、その隙間に、過去が滑り込む。責め苦が終わることは無い。


「せめて弱音くらいは吐きたいだろう?」


 君だってそうだろう?


「だから、逃がさないよ。君を。もうね。」


 君の為だ

 私達の為だ。

 そして、どうしようもなく私の為だ。

 あの日、冷たい雨を遮ってくれた傘にどれだけ救われたか。

 その人が、私と同じだったことがどれだけ嬉しかったか。

 偽りだろうと、どこまでも人に優しくできる貴方に、私は、どれほど……

 

「付き合おうよ。私達。」


 死にかけた心が新たな衝撃で変質し、生まれ変わる。

 きっとお似合いだよ。

 私達だけの閉じた世界で生きていこう。

 二人だけの閉じた地獄で生きていこう。

 私が貴方の新しい半身になる。

 だから一緒に、この道を歩いていこう。







 私達はこれからも、幸せにはなれないかも知れない。


 不幸のままかも知れない。


 けれど、苦しみながらでも二人なら、それも悪くないと思えるんだよ。


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