婚約破棄された公爵令嬢が彼をこっぴどく振りかえす話
どこにも行けない感情がある。
良かれと思って侍女見習いの仕事を手伝えば、彼女は“お嬢様にそのようなことをさせて”と上級使用人に酷く叱られた。
学院内で冷遇されていた子爵令嬢を気にかけ、折を見ては声をかけるようにしていたら、彼女は他の令嬢から“公爵令嬢と言葉を交わすなんて頭が高い”とあからさまな虐めを受けるようになった。
ちょっとした行き違いから口論になっていた令息達を止めようと仲裁に入れば、その拍子に頬に傷が付き“王妃候補を傷つけたから”と彼らは退学になった。その傷は数日もしないうちに治ったのにふとした瞬間に彼らを思い出し鈍く痛む。
優しさも、気遣いも、思いやりも緩やかに否定され、あてもなく彷徨い、行き場をなくした。そんな感情たちは、今でもどこにも行けずわだかまり、さっぱりとしないまま時間だけが過ぎていく。
***
「なあ、レイリア。僕たち、もう終わりにしないか?」
月に一度のお茶会の日。王宮の園庭にあるガゼボの中で私達は二人の時間を満喫していた。
好物であるアールグレイを一口飲んだ後、レクサスは唐突にそう切り出した。この日の為に取り寄せ、お土産として持参した、とっておきの茶葉だったのに。彼はそんな些細な事には気づきもせず、一気に飲み干してしまう。
長く降り続いた雪は一か月ほど前にぴたりと止んだ。空気は日を追うごとに暖かくなり、大地に根付いた草花は立派に芽ぐんでいる。開花の時を今か今かと待ちわびた木々たちがどっぷりと大きな蕾を膨らませていた。
「終わりに。つまり、婚約破棄ということかしら?」
「ああ、そうだよ。それ以外に何が考えられると言うんだ」
「その……、理由を聞いてもいい?」
アース王国の第一王子である彼─レクサス・アースは、私に冷ややかな笑みを向ける。真綿で首を絞めつけられているようなこの笑顔が私は昔から苦手だった。
「これは君のせいなんだよレイリア。そんなことにも気づかないのかい?」
笑みを崩さずに彼は小さくため息をついた。質問に質問で返す彼は、自分が正しいのだという姿勢を崩すことなく私を暗に責め立てる。
「ごめんなさい。分からないわ」
「そうか、じゃあ、教えてあげるよ。僕の優しさに感謝し、今までの行いを悔いて、今度こそ真っ当に生きてくれることを願うよ」
正直に答えると彼は乾いた笑い声を漏らし、こちらに向き直る。私を見つめる瞳はその甘くて優しい顔からは想像もつかないほどに冷たく尖っていた。
「君は本当に卑屈で、醜くて、矮小な人間だ。もしかしたらそんな事実、認めたくないのかもしれない。でも、もう認めたほうが身のためだと思うよ。君はいつもあなたのためだからと慈愛に満ちた顔を装って、人に情けを掛ける。でもその結果、ほとんどがその人の為になっていない。君のその偽りの優しさに騙されて近づいた人間はみんな不幸になった。と言うか、実はそう仕向けていたんだろう?」
弧の字に歪んだ口から発せられる言葉は一つ一つが私の胸に鋭く突き刺さる。その瞬間、穴があいてしまったように心が急激に萎んでいった。吹き抜ける風はまだ少しだけ冷たく、肌の温度を容赦なく奪っていく。
「そ、そうなのかしら。わたし、そんなつもりぜんぜんなくて。本当に……みんなの為を想ってのことなの」
情けないことに発する声は意図せずとも小刻みに揺れてしまう。目頭に涙が溜まり、視界に映るレクサスはふわふわと揺らめいている。
「それならば本当に重症だね。自分が行っている偽善に気付かず、人を苦しませて悲しませて。そんな君と婚約しているだなんて、僕が可哀そうだと思わないかい?偽善の塊みたいな君と結婚でもしてしまった日にはこの国を滅ぼしかねない。流石に君も国を滅ぼす気概はないだろう?だから──」
「ごめんなさい」
彼の話を遮り、口から零れ落ちたのは謝罪の言葉だった。
「別に僕は謝ってほしいわけじゃ」
「ごめんなさい」
彼女は沢山の仕事を抱えて今にも倒れそうだった。だから目を盗んでほんの少しでも休ませてあげようと思っただけだったのに。彼女はガーデン家の使用人を辞める羽目になった。私のせいだ。
「それに君が謝った所で何も変わらないだろう」
「ごめんなさい」
本当はあの子と仲良くなりたかっただけなのに。あの子に笑ってほしかっただけなのに。そんな願いすらも叶わず、あの子は毎日涙を流していた。それも私のせいだ。
「だから、僕は婚約破棄さえできればいいんだって」
「ごめんなさい」
二人は傍から見ていても仲のいい親友だった。ほんの少しの行き違いだったのに、少し冷静になって話せばわかることだったのに。私が余計な事をしたせいでさらに拗れて二人は罵りあうようになった。退学に追い込まれた彼らの人生はもう修復できない。全部全部私のせいだ。
「だからもういいってば!」
「ごめ──」
レクサスは握り締めた拳をテーブルに叩きつけた。その拍子にティーカップが地面に転げ落ち、大げさすぎる音が響き渡る。粉々に砕かれたガラス片が足下に散乱した。
「大丈夫ですか!?レクサス様!お怪我は?」
近くに立っていた使用人が慌てて駆け寄ってくる。狼狽したレクサスは使用人に傷ができていないか入念に足を確認させながら、吐き捨てるように私に話かける。
「と、とりあえず、婚約破棄だから!流石に公爵令嬢を婚約破棄しておいて、そのまま放置するほど僕も不誠実な人間じゃない。だから24歳になった僕の従兄でも紹介しておくよ。売れ残りの良い噂を聞かないような人だけど君には丁度いい。一応第六だか第七だかの王子のはずだ。君なんかに王族の端くれでも紹介してあげるだけ感謝してよね」
ねえ、バトラー大丈夫かな?僕怪我してない?なんだか痛いような気がするよ。そう呟く彼と、宥める使用人。呆然と彼らを眺めていると、レクサスがこちらを一瞥して口を開いた。
「で、君何してるの?もう僕達、無関係の人間なんだからさ、早く帰ってくれない?」
言い終えた彼の視界に私が映ることはもう無かった。
***
雲一つない空の下、降りしきる天泣は、流れ落ちる涙を隠すのに丁度良かった。
お茶会は予定よりも早く終わってしまって、あの空間で迎えの時間まで待っていられるほど私の神経は図太く出来ていなかった。
雨に打たれながら一人歩く馬車小屋への道のりは想像していた以上に暗く寂しい。細い石畳を木々が覆い、頼りなく漏れ注ぐ陽光は私の行く先を明るく照らしてはくれない。
レクサスと出会ったのは8歳になる頃。公爵令嬢として淑女教育を受けてきた私は、王宮の舞踏会で社交界デビューを果たした。
会場で“君、ものすごく綺麗だね。僕にぴったりだ。後10年経ったら僕と結婚しよう”と声をかけてきた彼は今と変わらない冷ややかな笑みを浮かべていた。あの時から私はどうしても彼のことを好きになれなかった。
彼に声を掛けられてから王妃様になれるかもしれないという周囲の期待は凄まじく、私を取り巻く環境は大きく変わっていった。
両親は熱を増して私の教育に力を入れるようになり、気兼ねなく話せていたはずの友達はよそよそしい態度を取るようになった。逆に、あまり親しくなかったはずの令嬢や令息達が私に群がり馴れ馴れしく接してくるようになった。
本当はレクサスとの結婚も、王妃様になることも嫌だったのに、両親や友達と今まで通りの関係でいたかったのに。私自身の意思が介在しない所で私の人生は決まり、周囲の人間は否応なく変化していった。
だから私は彼らの期待に応えるより他無く、レクサスに好かれようと努力を重ねてきた。
彼の好みに合わせて着飾り、彼の好きな物は全て把握し、私も好きになろうとした。寝る間も惜しんで勉学に励み、王妃様として必要な教養を身につけてきた。
そうやって8年間努力を重ねてきた結果、私に突きつけられた現実は結局のところ、婚約破棄だった。
「おやおや、これは、これは恵みの雨ですな」
馬車小屋まで辿り着いた私は呟く使用人のベルトルトを発見した。掌を天にかざし、雨水を確かめている。掌の先を歩く私に気付いたのか、反対の手に挟んでいた葉巻を消し私に向かって歩いてくる。
「レイリア様、お早いお帰りで」
頭を深々と下げたベルトルトの頭は白一色に染まっていて、毛量は心なしか少ない。燕尾服に身を包んだ彼は常に礼儀正しく、慌てた様子を見たことが無い。
「ええ、ベルトルト。その、少し予定が狂って……」
「おやおや、レイリア様、怪我をしていますよ。これは痛いでしょうに」
レクサスからの言葉を思い出し言い淀んでいると、ベルトルトが私の足下を見て呟いた。
「おや、よく見れば目元が腫れて酷いお顔をしている。これじゃあ素敵なお顔が台無しですよ」
顔を上げたベルトルトはそう言うと、口元の皺を濃くして朗らかに笑った。その温かな瞳に心までもが温められ、止まっていたはずの涙が再び溢れ出てくる。
「ベルトルト……、ごめんなさい……わたし、婚約、破棄されちゃった……」
「ああ、レイリア様。それはお辛いですね。可愛そうに、謝らないでください。大丈夫、大丈夫ですよ、レイリア様」
「でも、これじゃあみんなに失望されちゃう」
「大丈夫です。失望なんて誰も致しません」
私の涙を大きな掌で拭うとベルトルトは、頭を軽く撫でる。レクサスと出会う前から彼はこうして私を慰めてくれていた。彼の皺だらけの手に引かれ、私達は馬車に乗り込んだ。
「少し落ち着きました?」
私の口から漏れ出る嗚咽が和らいだ頃、ベルトルトの声が馬車の中に柔らかく響いた。
肩には大きめのブランケットがかけられている。ガラス片で怪我をしたのであろう右脚は包帯が巻かれ丁寧に処置が施されていた。
「ええ、ごめんなさい取り乱してしまって。ありがとうベルトルト」
「いえ、お気になさらず」
ベルトルトは白い歯を見せて口角を上げる。彼はふと窓の外を見つめた。
「おや、おや。レイリア様、外をご覧ください。これは見ておかないと損だ」
ベルトルトに促され外に目をやると、大地が輝いていた。
草木を濡らした雨粒が太陽の光を反射しきらきらと煌めく。若木の隙間をくぐり抜けた日の光が小さな花に差し込む。蒼天には七色の天弓が架かっていた。風に運ばれてきた水仙の爽やかな香りが鼻腔を刺激する。
「本当だわ。これは見ないと損ね」
「そうです。恵みの雨が降り、春の風が吹いて、これから大輪の花が各地で咲き誇るでしょうね」
──これから大輪の花が咲くよ──
ベルトルトの発した言葉に過去の記憶が蘇った。
お兄さんとも言えるほど年の離れたあの人は私の育てたゼラニウムの蕾を愛おしそうに見つめながらそう言った。
レクサスと会うことよりもあの人と会うことの方が楽しみで、王宮に運んでいた幼少期。隣国との開戦が囁かれ始めてから少し経ったある時から、あの人は姿を現さなくなった。あの人の名前は何といっただろうか。
──凄く綺麗だね──
あの人との出会いはそんな唐突な一言がきっかけだった。
レクサスの我が儘で植えられたゼラニウムは水も与えられず、雑草も放置され、今にも枯れそうになっていた。広大な王宮の隅に置かれた花壇を気に留める人間なんて誰もいない。誰にも見向きもされず、ひっそりと枯れていく彼らを放置するのは忍びなかった。
だから時間を見つけては手入れをし、水をやり、やっとの思いで実った蕾を褒められたことはただ純粋に嬉しかった。
──まだ、蕾ですよ──
私は無邪気に喜んでしまうのが何だか恥ずかしくて、取り繕うようにそう答えた。ふと手元に視線をやると、汚れた自分の手とその手に握られた雑草の束が目に入り、ほんの少しだけ動揺した。
公爵令嬢としてそんな姿、人に晒すべきではない。慌てて手を背後に隠し、あの人を見上げると私の誤魔化しにも気づかずにあの人はゼラニウムを見つめていた。
──ゼラニウムのことじゃなかったんだけどな、まあいいか。蕾でも十分綺麗だ──
そう呟いて私を見つめたあの人は静かに、けれども屈託のない笑顔を振り撒いた。大人びたあの人の少年のような表情にどうしてか胸が高鳴り、頬が熱くなった。
──変な事を言いますね。まだ咲いてもいないのに──
──咲いてもいない蕾だけれど、これから大輪の花が咲くよ。だから、綺麗だ。何よりもこれだけ手入れがされていて、雑草一つ無くて、きっと大切に育てられてきたんだろうな。それなのに綺麗じゃないなんて言えないだろう──
私の変化を悟られたくなくて、平然を装っていると、あの人は隠した両手を気に掛けるように私に語り掛けた。天真爛漫でいて、落ち着いた雰囲気のあるその表情に何もかもが見透かされているような気がして、無駄な見栄を張っていたことが馬鹿らしく思えた。
──ありがとうございます。でも、綺麗なのはこの子たちが咲こうと必死に頑張っているからです──
──ほら、やっぱり綺麗だ──
飾らない言葉で本心を伝えると、あの人はまたしても静かに、屈託のない笑顔を浮かべた。私はあの人の笑顔に射抜かれ、身体が麻痺したように動かなくなった。
あの時感じた、身の置き所が無くなってしまったかのような幸福感が恋心だと気づいたのはあの人が居なくなってからだった。だから、私の初恋は気づいた頃にはすでに終わっていた。
それでも、あの日々の記憶は美しいまま固められた琥珀のように綺麗で、綺麗なまま心の宝石箱に仕舞われている。そして、ふとした時に取り出し今でも私の日常を彩ってくれている。
「そうね、これから楽しみだわ」
厳しい寒さを越え、これから大輪の花を咲かせようとしている彼らが美しくないはずがない。あの人の笑顔が蘇る。ベルトルトに返事をすると、自然と笑みが零れた。
「うん、落ち着いたみたいですね」
私の表情を見るなりベルトルトは一人呟き、立ち上がる。
「では、出発致しますよ。何かあれば何なりとお声かけ下さい」
「ええ、ありがとう」
彼の合図によって走り出した馬車は大きく、小さく揺れながら私を次の目的地まで運んでいく。その揺れの心地よさについつい微睡み、ゆっくりと意識を手放した。
***
数年ぶりに目にした彼女はあの時と変わらず、綺麗なままだった。
社交界という世界に揉まれ、王妃候補としての振る舞いを求められ、本心を晒せず、挙句の果てに全てを否定されてしまったはずの彼女はそれでも美しく佇んでいた。
「こんにちは。今日は僕の都合で急遽、予定を合わせて頂き感謝いたします。この国の第六王子、イーサン・アースと申します」
「いえ、こちらこそ。忙しい中、このような場を設けて頂きありがとうございます。ガーデン公爵家の一人娘、レイリア・ガーデンです」
慣れた仕草でカーテシーをこなす彼女はもう、下手な照れ隠しをするような少女ではない。光沢を帯びた山吹色の長髪は彼女の動作に合わせてゆったりと優雅に揺れている。金糸雀の瞳は周囲の光を集め、きらきらと輝く。深紅のドレスは風に翻り、ふわりと宙を舞った。
「すみませんね。僕、こんな見た目なんで女性には怖がられてしまうんですよ。この見た目と長く続いた戦争のせいで結婚も出来ずこの年まで来てしまいました」
筋肉質な体躯と、短く切りそろえた黒髪、傷だらけの肌。彼女が気にしているであろう自身の特徴を端的に表し、自虐めいたもの言いをすると彼女はくすりと口元を綻ばせた。
「それはきっと世の女性の見る目がないだけですよ」
そう囁いた彼女の声色に魅了され、思わず笑ってしまった。
彼女との会話は途切れることなく続いていた。団長を務める王国騎士団での話、戦場での話、彼女とレクサスとの話、これからの二人のこと、様々な話をした。相性が良いのか尽きることのない話題はいつの間にか幼少期の話になり彼女はここぞとばかりに口を開いた。
「これから、大輪の花が咲きますね」
彼女があの言葉を口にした事実が嬉しくて、自然と口角は上がっていた。
「覚えててくれたんですね」
「はい、と言っても思い出したのはお顔を拝見してからですが」
「まあ、僕もあなたもなぜか名乗りませんでしたもんね」
「失礼いたします」
ノック音を響かせ入って来た使用人は彼女が用意したと紹介をし、ティーカップを二つ置いて出ていく。そんな使用人にレイリアは丁重に礼を伝える。
ティーカップのジャスミン茶はさりげなく出されたが、僕が好物であることを調べての配慮であろうことは容易に理解できる。彼女は使用人の些細な挙動に気を配り、細やかに声を掛ける。昔から何一つ変わることのない彼女の心根はやはり美しい。
「しかし、本当に素敵な女性に成長したんですね。一つ一つの気遣いが素晴らしい。そんな女性とこうやって婚約の話が舞い込んでくるなんて、僕は幸運の持ち主だ。レクサスには感謝しないとな」
僕はやんわりと会話の矛先を本題へと向けた。今日は彼女と話したかったこと、伝えたかったことがあって、明確な目的があって彼女との面談を組んでいる。
「いえ、私はそんな大層な人間ではございません」
僕の発言に彼女は予想通りの反応を見せた。その発言は謙遜の様に見えて、実際のところ、彼女が包み隠した本心を孕んでいることを僕は知っている。
「そう言うだろうことは分かっていました。あなたは本当に素敵な方だと僕は思います。レクサスはあなたのことを偽善の塊と言ったかもしれない。でも、それは違います。僕はあなたにそれを伝えたくてこの場を設けさせていただきました」
「ど、どうしてそれを?」
偽善の塊。僕が知るはずの無いその言葉を口にした途端、彼女の目は大きく見開かれた。
無理もない。彼女は知らないのだから。
「僕ら王族は人の心を読むことが出来ます。僕も、レクサスも、今の王も。これはこの国の常識であり、知らないのはあなただけです」
「え?」
彼女は公爵令嬢には似つかわしくない頓狂な声を発する。しかしそれは一瞬の出来事で、すぐに居直り、背筋を伸ばした。
あの日、ゼラニウムを一人健気に育てる姿は可愛らしくて、その心の綺麗さに僕は驚いた。それと同時に、レクサスが彼女にこれだけ執着している理由と、レクサスが彼女に王族の能力をひた隠しにしている理由を理解した。
「驚くのも無理はないと思います。レクサスが必死になって隠してきた事実ですし。レクサスがあなたを手放した今だからこそやっとお伝えできることなんです」
「仰っている意味が……」
彼女は、誰だって持っている捻くれた感情も、屈折した思いも何一つ持っていない。だから、彼女といる時間は心穏やかに過ごすことが出来る。王族であれば誰だって彼女の美しさに惹かれてしまうだろう。その証拠にレクサスも、僕も出会った瞬間、彼女に惚れてしまった。
レクサスが彼女に惚れ婚約者となった所まではよかったが、純粋すぎる彼女はただ単純にレクサスを好きではなかった。その感情をレクサスが知っていると彼女が認識すれば、きっと彼女はレクサスのもとを離れてしまう。そんな子供じみた考えに支配されたレクサスは周囲にも自分にも王族の能力を隠し通すことを強制した。
レイリアは優しくて、気遣いが出来て、思いやりのある人だから、自身を偽ってレクサスを好きだと振る舞う。周囲の期待に応えようと、簡単に自分の本心を蔑ろに出来てしまう。隠し続けたあいつはそれに耐えられなくなってしまったから手放したのかもしれない。
「どこにも行けない感情がある。そうですよね?あなたは優しさも、気遣いも、思いやりも、緩やかに否定され、行き場を失くしてしまったと嘆いている。しかしそれは勘違いです。全てレクサスがやったこと。彼は本当に我が儘で、欲張りでそれでいてあなたを本当に好きだった」
本心を言い当てると彼女は僅かに目を見開き、一度だけ目を伏せた。そうして再度開かれた瞳には動揺の色が消え去っていた。
「好きって、あの人はずっと私なんかに興味は無かったわ。いつも冷たい目をして、下手くそな笑顔を浮かべて」
彼女は楚々とした手つきでジャスミン茶を一口飲むと小さく口角を上げ、口を開いた。
「そうなんです。あいつを擁護する気にはなれませんが、あいつは下手くそなんですよ。あなたへの愛は酷く歪んでいて不器用だった。あなたが他人に優しくすることが許せなかった彼は、あなたが優しさを振り撒いた人間に対して酷い仕打ちを繰り返しました」
レクサスは自分に彼女の本当の優しさが向けられないことに憤っていた。腹を立てて、その怒りを無関係な人間に向けた。
レクサスの怒りが僕に向いた時、僕は戦場に送り込まれてしまった。彼女と最後に言葉を交わすことすら許されなかった。
「あいつはあなたが優しくしていた侍女見習いを上級使用人に叱るように仕向けた挙句、彼女をあなたから引き離した。あなたが子爵令嬢を気に掛けていると知れば家格を重んじた人間関係を生徒に意識させ、それが虐めにまで発展した。あなたの頬に傷がついた姿を見て、すぐに令息達を退学にさせた。不思議に思いませんでした?あなたが優しくするとき、周囲に多くの人が居たわけでもないのに、あなたが誰かに告げ口したわけでもないのに。いつの間にか多くの人が知っていて、彼女、彼らはあなたの意思に関係なく悪人に仕立て上げられていた」
「でも、それじゃあやっぱり、私のせいね」
レクサスが行ってきた所業を知っても尚、彼女の心は罪悪感で埋め尽くされていた。冷静さを感じさせる物言いをしていても、心を覗き見ることが出来てしまう僕には隠すことが出来ない。
「そんなことはありません。全てはレクサスがやったこと。あなたはただ素直だっただけ。実際、悪人に仕立て上げられたはずの彼女、彼らは今でもあなたに感謝をしています。あなたの真剣な思いも、純粋な気持ちも、あなたが行き場を失くしたと思い込んでいた感情はちゃんと彼らに伝わっていた」
「それでも、私のせいよ」
「どうしてですか?あなたに非は一つもありません。全部レクサスが仕向けたこと。罪悪感なんて覚える必要ない」
「いえ、私にも非はあります。私はレクサスを好きになれなかった。あまつさえ、それを偽って彼を好きな振りをして、心の無い優しさを彼に振りまいた。彼の言った通り、私は偽善者だったんです。両親や友人の期待に応えたいが故に、私は彼を利用したんです。知らないのを良いことに、私はきっと彼を沢山傷つけた」
彼女の優しさが届いていた。その事実に彼女の心は一瞬、浮足立ったが、すぐに萎んでいく。真っ直ぐに僕を見据えたレイリアは冷然と言葉を紡ぐ。
「でも、それはあいつが望んでやったことで」
「それでも、偽っていたことには変わりありません。私の優しさが行き場を失くしたようにレクサスの好きという気持ちの行き場を無くさせてしまったのは私です。心が無いのなら、ちゃんとそれを伝えなければいけなかった。
私、彼ともう一度話したいです。話をして、ちゃんと自分の口で本心を伝えたい」
落ち着いた口調で、揺らいだ心情は微塵も表情に出さず、彼女は淀みなく本心を語る。
「ああ、そうか。君はやはり、美しいな」
***
「おい!バトラー!触るな!これは僕の大切な物なんだぞ!」
耳をつんざくような叫び声が園庭には響いていた。その声は8年間何度も聞いてきたあの声で、聞き間違える心配なんて微塵も出来ないほど耳に馴染んでしまったあの声だった。
レクサスの手にはゼラニウムの花を押して作られた栞が握られている。慣れないながらも、読書好きな彼の為に作ったそれは、ボロボロになってしまっているのに彼は大事そうに掴んでいる。
「これはレイリアが初めて僕にくれた物なんだ。壊してしまったらどうしてくれるんだ!?」
「申し訳ございません。弁解の余地もございません」
「レクサス、それは流石に酷すぎないかしら?バトラーが可哀そうよ」
深々と頭を下げ、震えあがっているバトラーが見て居られなくて口を挟むと、レクサスは静かに振り向いた。
「なんで君が……って、イーサン、話したな」
「ああ、彼女はお前とはもう関係ない。だったら知っていた所で何か支障があるか?」
「まあ、支障は別に……」
「ねえ、レクサス。私、あなたと話がしたくて連れてきてもらったの。少し時間をくれるかしら?」
「僕と君はもう関係の無い他人だろう?言葉を交わす必要なんてないはずだ。僕の前から消えてくれ。君といるだけで僕は苦しいんだ。そのくらいわかるだろう?」
私が話しかけると、レクサスは顔を背けてしまう。私の感情を躊躇なく覗き見ているくせに彼は感情を悟られることを酷く恐れているようだった。
「ええ、分かってるわ。でも、これだけは私の口であなたに伝えないといけないと思ったの」
「何を言おうとしているかなんて分かってる。別に君の口から言われた所で変わらない」
「それでも、私はそうしたい。そうしたほうがいいと思うから」
「ああ、もう!勝手にしろよ」
ため息をつき、彼は緩やかなウェーブを描く亜麻色の髪を無造作に掻きむしった。
「私、あなたのこと好きじゃない」
「分かってる」
「もしかしたら、ずっと嫌いだったのかもしれない」
「知ってるよ」
叫び声のような返事は明らかな怒りが込められている。彼の怒りに反して吹く風も、照り付ける太陽も私達を包み込むかのように暖かかった。
「その栞も、嫌々作ってた」
「わざわざ言わなくたっていいだろ」
あれだけ大事そうにしていた栞を、彼は乱暴に握り締めた。そのまま投げ捨てようと手を振りかざすが途中で力尽き、ぎくしゃくと弛緩する。
「あなたの好みに合わせて着飾っても、あなたの好きな物をプレゼントしても、あなたはいつもそっけなくて、悲しかった」
「僕だって悲しかったよ。君の心の無い優しさは殴られるよりも痛かった」
僅かばかり震えた彼の声を私の耳は聞き逃さなかった。レクサスはそれを誤魔化すかのようにこめかみに手を押し当てる。そのまま地面に吸い込まれるかのようにしゃがみ込んだ。
「あなたが私の大切な人達を傷つけたって聞いて腹が立った」
「僕だって、僕のしたことに一つも靡かない君にムカついてた」
しゃがみ込んだレクサスはいじけるように生えた雑草を引きちぎる。そして引きちぎった雑草と一緒に栞を投げ捨てた。
「やっぱり、私あなたのことが嫌い」
「僕だって嫌いになりたい」
彼の発する声は隠すことも出来ないほどに大きく揺れている。
池の水が吹き込んだ風によって水紋を作り出す。反射した太陽も、草花も、木も小さく揺れていた。
「私達もっとこうやって話し合えばよかった」
「もう、遅いよ。いくら言葉を交わしても、君の心は変わらない」
無造作に目を擦ったレクサスは強がっているのか声を張り上げる。
羽を休めていた渡り鳥達が一斉に飛び立つ。風を掴み、空を闊歩する彼らは行くべき場所を決して間違えない。
「ごめんね。嘘ばっかりついて」
「うるさい」
「ごめんね。好きになれなくて」
「黙れ」
怒りがしぼんでしまったかのように彼はポツポツと呟く。私はあえて彼の顔を覗き込むように正面に移動して屈む。
「今まで、ありがとう」
「ああ」
私の気配に気付いたのか、彼は顔を上げる。その瞳はやはり潤んでいた。そして彼は、私の言葉に諦めたように眉を落とす。
「じゃあね」
「うん」
私達は短く言葉を交わす。立ち上がり視線を持ち上げると、ついこの間まで蕾だった花達が開いていた。
「それと、イーサンを紹介してくれて、ありがとう」
私の心を読み取れるのであれば、私が好きなイーサンを紹介してくれたのはきっと彼の偽りのない優しさだ。
「僕、幸せにならなきゃ許さないから」
「うん」
無理して綻ばせたレクサスの口元は、屈託なく笑うイーサンに何と無く似ていた。
お読みいただきありがとうございます!評価や感想頂けると嬉しいです。
追記
誤字報告、評価、感想などなどありがとうございます!想像していた以上に沢山の方々に読んでいただけて嬉しい限りです!これを励みにもっと面白い物語がかけるように頑張っていきます!