来訪者
あれから数日が経ち……ビスカ女史が頑張ったこともあってか、村に少しずつ文字が普及し始めた。
と、言っても文章までのレベルではなく単語……ごくごく簡単な単語を文字で書き表す程度のものでしかなく……その具体例が今、俺の目の前にある。
『あありひ』
魔獣のなめし革に炭片でそう書いて、アーリヒのコタの入口にぶら下げていて、表札みたいなもの……のようだ。
まずは文字に慣れるための第一歩としてそれをやったらしく……うぅむ、異世界のこんな銀世界にまさかのひらがな表札が……。
こういった使い方は他にもされている……が、日本語がそのまま使われているかというとそうでもない。
ひらがなやカタカナ、それと一部の漢字を使ってこちらの言葉を表現しようと努力がされていて……こちらの言葉に馴染むよう改変というか改良された結果、かなり独特というか、不思議な使われ方をしている。
たとえば食堂コタには、食堂と示す表札があるのだけど、その表札を日本人が読んでもなんだコレ? としかならないだろう。
『食れいコタ』
これで食堂。
『食』はそのまま、食に関する場所ということ。
『れい』は祈るとか尊敬するとか、敬意とかいう言葉、つまりは食に敬意を示すコタ……食料となった動物や魔獣、植物に祈る場所みたいな意味となり、それが転じて食堂ということになる。
名前とかは音をそのまま文字で表現しているから分かりやすいのだけど、ちょっとした熟語や文章となると難解で……表面的には日本語なのだけど、日本語ではない何かが村中に広がっていた。
……日本語とこちらの言葉、両方を知っている俺でも困惑するのだから、日本語を知らない上に文字という文化に慣れていない皆にはかなり難しいはず……なのだけど、皆は便利だ便利だと笑いながら受け入れて、楽しそうに学んでいる。
ポジティブというか何というか……エネルギッシュに前向きで、こういうとこは心底から尊敬しちゃうよなぁ。
……ちなみにサウナはそのまま『サウナ』とカタカナで書き記していて、各地のサウナスポットに結構な大きさの看板が立てられているそうだ。
何故大きい看板かと言えば遠くから見えるように……寒さの中で凍えた人々がサウナにいち早くたどり着けるように、ということらしい。
まぁー……サウナに行けば凍える心配はないし、水場が近くにあるから乾きも癒せるから、いざという時の避難場所という意味では、大切なことなのかもしれない。
なんてことを考えながら村を散策していると……どこからか誰かが騒いでいる声が聞こえてくる。
騒いでいるというかざわついているというか……とにかく何かあったようだ。
「……なんだろうねぇ、今日は何もないはずだけど」
と、頭の上のシェフィに声をかけるとシェフィは、
「うぅん、誰かが来たみたいだね?」
と、返してくる。
誰かが来た……? 沼地の人々だろうか? いや、もしそうならもっと騒ぎが大きくなっているはず……。
そうなると……他の村の誰かだろうか?
一体誰がやってきたのやら……どうにも気になって騒ぎの方へと足を進めると、何人かの村人が村の西側からやってきた客人に目を向けながらざわついていて……そちらへ視線をやると、凄まじい光景が視界に入り込む。
大きな熊がいた、それも普通の熊じゃぁない。
頭と肩と胴体といったら良いのか、その辺りと前足に鎧がある熊だ。
鎧を着ているという風ではなく、体から生えているというか、体の一部というか……角のように鱗が毛皮から生えている感じだ。
そんな厳つい見た目ながら表情は穏やかで、目は優しそうで……どことなくグラディスのことを思い出すような目をしている。
そしてそんな熊の背中の上には大柄な女性の姿があり……複雑に編み込んだ青髪を、更に編み上げたといった感じの、なんとも複雑な髪が目立つその女性は、分厚い毛皮の服を着て、大きな円盾を持って……そして背中にはトマホークのような片手斧を背負っているという、なんとも独特の格好をしていた。
他の村の人……という訳ではないようだ。
顔も服の感じもシャミ・ノーマ族といった感じではない、それにこの匂い……女性と熊から漂ってくるなんとも香ばしく美味しそうな匂いは……強烈な焼き魚の匂いだった。
匂いの強い海魚を、海水につけた上で焼き上げたといった感じの匂いで……浜焼きをしている市場とか、牡蠣小屋から漂ってくる強い匂いだ。
俺にとっては腹の空くその匂いも、そこまで海魚に慣れていない皆にはきつい匂いらしく、興味深げに視線をやりながらも顔をしかめている人もいる。
「アタシはヴァークの盾の乙女だ! シャミ・ノーマのアーリヒに話したいことがあってきた!
アーリヒは元気にしているか? 雪解けしたら南の連中を攻めようと思ってな、その打ち合わせだ!
雪解けしてから来たのでは間に合わないから今来たんだ! 今のうちに打ち合わせしておけばおかしなトラブルも起きないだろう?
安心しろ! シャミ・ノーマが同じ目的を共有する仲間であることはよく知っている! 精霊様から多くの戦果を上げているとも聞いている!
今日はその祝いもしたくて来たんだ! 祝いの品もたくさん持ってきた! アーリヒに知らせてくれ!」
全部言っちゃった、ここで来た目的全部言っちゃった。
よそ者が盗み聞きしているとかは無いのだけど、それでも不用心というか何というか……ともあれ彼女はヴァークの族長で、アーリヒの友人で大事な客人だ、歓迎しなければならないと前に進み出た俺は、近くにいた村人にアーリヒに伝えて来て欲しいと頼み、村人が村の中央へと駆けていったのを見送ってから、盾の乙女に声をかける。
「ようこそ、雪の中こんなところまでご足労いただきありがとうございます。
今、アーリヒに貴女の到着を知らせましたので、歓迎の準備をしていることでしょう。
アーリヒの準備が終わるまでは俺が相手をさせていただきます……ひとまず厩舎か餌場で恵獣様の様子でも見るのはいかがでしょうか?」
と、そんな言葉をかけながら盾の乙女へと視線をやると、彼女は青く鋭い目を見開いて、俺……というか俺の頭を凝視していて、一体なんだってまたそんなことに? と、そんな疑問を抱いた俺は、すぐに頭の上にシェフィがいたことを思い出す。
そして盾の乙女は熊の上から軽快に飛び降り、こちらにやってきながら声をかけてくる。
「なるほど……貴殿がシャミ・ノーマの精霊の愛し子か。
我が一族にも愛し子がいらっしゃるが……そこまで精霊との距離は近くないな。
それだけ敬虔で勇気があり、力が強く畑と妻が多く、多くの魔獣を狩ったのだろうな……。
うむ……愛し子殿、恵獣様の上から失礼した、貴殿のような勇者と出会えたこと誠に光栄だ。
アタシの名前はベアーテ、こちらの鎧熊とも呼ばれる恵獣様はアルマウェルという名前だ。
貴殿らシャミ・ノーマの恵獣とはまた違った存在ではあるが、見ての通り力強く堅く、頼りになる存在なんだ」
ベアーテと名乗った女性がそう言うと……熊の恵獣らしいアルマウェルは、前足を畳んでしゃがみ、顔をこちらへと近付けて来て……顔を覆う鎧から露出した真っ黒な鼻を突き出し、それに触れろとばかりにちょいちょいと動かしてくる。
それを受けて俺がそっと鼻に触れるとアルマウェルはにっこりとした、柔らかな笑みを浮かべて……それから優しく一声、
「グォウ」
と、声を上げて挨拶をしてくれるのだった。
お読みいただきありがとうございました
次回はベアーテのあれこれです






