【コミカライズ】(短編版)政略結婚で冷遇される予定の訳あり王妃ですが、「君を愛することはない」と言った堅物陛下の本音が一途すぎる溺愛ってどういうことですか!?
緑なす黒髪とは、きっとあの人の髪を言うのだ。
国境まで家臣団を引き連れ、王女の花嫁行列を迎えにきたのは、シュトレームの王、アベル。
光を浴びて艷やかに輝く黒髪。秀麗な細面に、光の強い青の瞳。冴え冴えとした美貌。
王位について早二年。その辣腕ぶりで名を轟かす若き王アベルは、整いすぎて冷ややかさすら感じさせるその顔に、少しの笑みを浮かべることもなく「花嫁」という名目の人質を迎えた。
風が、乾いた砂埃を舞い上げる。
見晴らしの良い平原が「花嫁引き渡し」の場に選ばれたのは、互いに伏兵を警戒してのこと。
アベルは正面に立ったエステルを見据え、ほっそりとした顎をひき、瞳を細める。
「ようこそ、エステル姫。息災のようで、結構なことです」
顔見知りであることを示す挨拶。実際に、アベル自身もまた幼少期に「遊学」という名目で他国へと人質に出されていた過去がある。エステルとはそのときに知り合っていた。ただし幼なじみというには微妙な間柄で、年齢差は十歳。さすがに当時すでに「一緒に遊ぶ」というよりも「年下のアベルがお姉さまに遊んでもらう」という関係性であった。
バルテルスの王女エステルはこのとき二十八歳。
婚礼衣装を模したような、純白のドレスに身を包んではいるが、両国どちらの価値観にてらしても立派な嫁き遅れ。
それこそ、子どもを何人か生み、王侯貴族の奥方として盤石な地位を築いていなければならぬ年頃。いくら派手さを抑えて、デコルテラインから首元まで繊細なレースで覆われるような落ち着いたデザインのドレスをまとっていても、いまさらうら若き十代の乙女のような純白は悪目立ちの部類である。
口さがない相手におおいに笑われる――それがわかっていても、この衣装を選んだのはエステル自身であった。花嫁なのだから、年齢を理由に遠慮する気はない、と。
このとき、アベルの背後ではシュトレーム側の老齢の家臣が、いかにも何か言いたげなにやにや笑いを浮かべてエステルを見ていた。
気配で気づいていたが、エステルは一切気にすること無くアベルを見上げて、口を開く。
「あなたも。最近あまり良い話を聞かないので心配していましたが、お元気そうでまずは安心しました」
アベルの鉄壁の表情にはいささかの変化もなかった。
だが。
目を合わせた相手の心の声が聞こえてしまうという能力持ちであるエステルには、その考えがよく伝わってきてしまう。
――エステル姉さま、昔からお美しかったですが、今日のあなたが一番美しいです。そのドレスもよくお似合いです。まさか俺のためにそんなに美しく装ってくださるなんて。無理無理。他の誰にもこれ以上見せたくない。俺だって神々しすぎて目が潰れそうだってのに。直に見るとか無理。太陽ですか。あなたは太陽ですか。いま目に焼きつけておいて、あとでじっくり思い出に浸ろう……。
(表情を変えないで、よくそれだけのこと考えていられますね、アベル)
本人、いたって無表情なのである。
それどころか、口の端を吊り上げてまごうことなき「冷笑」を浮かべてみせたりもする。
「国同士の盟約がありますので、当面、王妃の地位は保証いたします。しかしあなたもおわかりのことと思いますが、そんなもの、名ばかりです。状況が変われば王妃とて、立場など……。下手に俺の子が腹にいるともなれば、後処理が面倒になりましょう。夫婦というのも名ばかりのこととお思いください」
――まだ両国間の関係が安定したとは到底言い難い。王宮内外敵だらけだ。バルテルス王家の血筋が次の王になるのをよく思わない俺の配下が、エステル姉さまを襲うことはありえる。絶対にお守りしますが。
(そうよね。最近まで戦争していたもの、国民感情は複雑だと思います)
友好的とはいえない冷たい笑みと、言葉。その裏でアベルがめぐらせる考えに、エステルは無言のまま同意を示す。
さらにアベルは懸念事項を胸の内で呟く。
――加えて、バルテルス王家の意向も不透明な部分がある。本当に今回の政略結婚で終戦とするつもりはあるのか。もしかしたら、我が国の手の者に見立てた暗殺者を用立てて、エステル姉さまを害しにくるおそれもある。それをもって、いかにもこちら側が「約束を反故にして、王女を殺めた」と言いがかりをつけて結局戦争に逆戻り……。
(たしかに。私の父王は今更の愚挙など許さないでしょうが、王太子である兄はやりかねないと思います。そうして考えると、国からついてきた侍女や従者は「何を言い含められているかわからない」から、遠ざけた方が無難かもしれない。もちろん、能力で探ることはできるから、そういった危険はある程度回避できるけど)
この間、十秒にも満たず、両者無言。
絵面としては、冷ややかにガンをつけてるアベルと、口を閉ざしてその視線を受けるエステル。早くも、この先うまくいきそうもない政略結婚夫婦の空気を醸し出している。
双方の家臣団は「さもありなん」と言わんばかりの態度を隠さない。
とどめのように、アベルが言い放った。
「俺はあなたを愛することはないでしょう。そのおつもりで」
エステルはそこで、神妙な顔をして「わかりました」と答えた。
これにて、両者の対面の儀は終わりとなり、エステルは無造作に手を差し伸べたアベルの手に手をのせて、アベルの乗ってきた馬車へと導かれた。
国境を超えた。これからはシュトレームで生きていく。
「手伝っていただかなくても、大丈夫です。ひとりで乗れます」
アベルの手をさっと離して、エステルは身軽に馬車に乗り込む。奥の座席に腰を下ろして、壁の方を向いた。
続けざまに乗り込んで、離れた位置にアベルは腰をおろした。
衣擦れや物音でその動きを感じつつ、エステルは壁を向いたまま俯く。
その背中は、アベルの目には拒絶と映ってしまうかもしれない。わかってはいたが、どうしてもエステルは振り返ることができなかった。
俺はあなたを愛することはない、とアベルがエステルの目を見つめて言った。そのときの、心の中。
――冗談でも言いたくない、こんなこと。俺は姉さまのことだけが好きだったし、今回の件だってさんざん国益云々で理由はつけたけど、要するに姉さまと結婚したかっただけだ。エステル姉さまが、俺の妻……。嬉しすぎて現実とは思えない。だけど諸々片付くまで絶対に手を出すわけには……そもそも姉さまは俺のことなど眼中にも無いだろう。どうすれば……どうすれば振り向いてもらえるのか。いや「愛することはない」だなんて言った時点でもう無理だろ……死にたい……。
(アベル……、早まらないで。私と迂闊に仲良くできない事情はわかったけど、死なないで……)
笑って良いのか、心配して良いのかわからないその本音すぎる本音を耳にしてしまい、エステルはアベルの顔を見ることができなくなってしまっていたのだった。
* * *
エステルに「人の心を読む能力がある」ことは、誰にも知られていない。
生来の能力ではなく、物心ついてしばらくたってから発揮できるようになったせいか、直感的に「他人に気づかれてはならない」という知恵が働いたため、隠し通してきたのだ。
(しかも、使い勝手があまりよくないのよね。目を合わせた相手の心しか読めないから、効果範囲が狭すぎる。謀略うごめく会議の場に出て行き、国難を次々に退ける――なんて離れ業も、現実的には難しくて)
ただ、「ほんの少し勘の良い姫」として父王につき従い、偶然を装っていくつかの危機を回避するよう仕向けることはできた。父王はエステルの能力についてうっすら勘づいていた節があり、エステルの忠告にはよく耳を傾けてくれた。それは重宝とも呼べる扱いであった。これまで、王主導で無理に縁談をまとめることもなく、エステルが嫁き遅れになった理由でもある。
しかしここにきて、長らく不穏な関係から、ついには戦争となってしまった隣国シュトレームの王アベルが、動いた。
両国の平和の架け橋となる結婚を。王女エステルを、我が国の王妃に迎えたい、と。
エステルは、否やということもなく応じた。
アベルが内心気をもんでいたとおり、この結婚は政策として有効ではあるが、花嫁には身の安全の保証はない。自分の名前が出た以上、エステルは他の人に代わってほしいなどというつもりは一切なかった。なにしろ、嫁き遅れの王女の使い道としてはふさわしいと思ったのだ。これは自分をおいて他にできるひとはいない、と。
いざというとき、心を読めば毒を盛られているかどうかの判断はつく。身近な人間が手引をして襲撃があるというのなら、事前に察知も可能だ。
その手始めとして、子どもの時以来、久しぶりに会うアベルの真意をまずは探ろう、と出会い頭にしっかりと目を合わせてその心の中を聞いたのだが。
ガタゴトと振動が伝わる中、沈黙が埋め尽くす、二人きりの車内。
(ごめんなさい。ごめんなさい、アベル。必要があってあなたの心の中を聞いたのだけど……っ。まさかいまだにあんなに「エステル姉さま」のことが大好きだなんて思ってもみなくて、私、いま大変動揺をしています)
心を読むのが楽しいかといえばそういうわけではない。
こんな風にまったく想定外の声を聞いてしまった後は、目を合わせて話すことなどできる気がしない。
そう思って背を向けることしばし。
アベルから呼びかけは無い。
さすがに不自然な態度を取りすぎたかと、エステルはそーっとアベルを振り返った。
背中を射抜くほどに、見つめられていた。目が合ってしまった。
――姉さま、やっぱり、あんなことを言う俺のことなんて嫌いになりますよね。嫌われ……。ああ、嫌われたくなかった。言わないわけにはいかないから言ったけど、嫌われたくないし、本当は心の底から愛してるって言いたいし、子どもだってたくさん
「陛下。その、本当にお久しぶりです」
心の声に、本来は色など見えない。しかしこのときは、何か聞いてはいけない恋情に加えて絶望やら劣情やらが極彩色に入り乱れて迫ってきた気がして、エステルは思わず遮ってしまった。
「はい。長いことお会いする機会がありませんでしたね」
――中立国の国際会議などで、姉さまは陛下に従ってきていたので……。遠くからでも見る機会があったら俺は逃さず姉さまの姿を探していましたが。戦争になった件は本気で父王を絞め殺しかねなかったです。どうにか廃して俺が即位し、早々と終わらせたはいいものの、そこから姉さまとの結婚までどう持っていけば良いかというのがまた至難の
(シュトレームの前王はなんらかの理由で引退したと聞いていたけれど、いまのアベルの心の声はひとまず聞かなかったことにしましょう)
廃した云々は、情報として差し障りが有りすぎる。知らなくて良いなら知るつもりはない。アベルがうまく糸口を見つけて終戦まで導いたのは、確かなのだ。代替わりは必要だったと認識しており、感謝もしている。
どうにか話をつなげようと、エステルはほんのすこしだけ微笑みかけてみた。
「陛下が、とても立派な青年になっていて、私は驚きました。昔はあんなに小さくて、お可愛らしかったのに」
――姉さま、覚え……ッ。ああ、姉さまになら「可愛い」って言われても全然嫌じゃないというか、むしろ嬉しいです。姉さまの可愛い弟でいたい。いや、弟ではなくいまは夫ですが。夫。そう、これからは姉さまの体に唯一触れることのできる
「陛下」
「失礼、目に埃が」
なにやら妄想をはじめそうなアベルをエステルが遮ったのと、アベルが手で目元をおさえ、横を向いたのはほぼ同時であった。
視線が外れたことで声は聞こえることがなくなったが、エステルとしても非常に直接的な思いを続けざまに浴びて変な動悸がしていた。
(しばらくこちらを見ないでください……。あなたまったくの無表情で心の中はそれって……、そこまでぶっちぎりで乖離したひと、いままでお会いしたことありませんけど……!?)
アベルは、傍目には眼差し鋭く、容色に優れた怜悧な印象の青年である。久しぶりに目にしたその姿は、艶のある黒髪も、鉄壁の無表情も、すべてが若き王を彩る評判通りで、いったいどんな考えがあってこんな年増の王女を王妃に迎えるなどと言い出したものかと、気後れすらしてしまったというのに。
口を開けば冷ややかな言葉しか出てこないというのはわかっていたこととはいえ、その内心が。
恐る恐るうかがっていたエステルに、ちらりとアベルが視線をくれた。目が合って、エステルはびくりと体をこわばらせる。一方のアベルは渋い表情を崩さぬままエステルを見つめてきた。
――憧れの女性を妻に迎えることができるだなんて、こんな幸運があって良いのか。俺は明日死ぬんじゃないか。死ぬのならせめて積年の思いを姉さまに……。いやそれで俺の子ができてしまっても、状況が悪化すればその子は火種にしかならないし、命も危うい……。なんてことだ……こんなに近くでなんの問題もなく姉さまに触れられる立場なのに何もできないだなんて……
(アベル、いい加減に。その積年の思いを受け止めたら私は無事ではいられない気がします)
涼しい顔をして、ずっと己の色欲と葛藤している美貌の青年。
持て余しきったエステルは、根負けしたように提案してみた。
「キスします?」
* * *
キスなら子どもできないと思いますし、あなたの許容範囲では、と。
アベルの表情にはいささかの変化も無かったが、心の中には突如暴風雨が吹き荒れた。
――姉さまが俺を懐柔しにきた、だと……!? どういうことだ。淑女の中の淑女の姉さまが。罠……? 考えてみると姉さまがなぜこの結婚を受けてくれたかもわからないし、何か国から使命を帯びてきている線も考えられる、のか? たとえば俺の暗殺……。そうか、俺の暗殺か。個人的には姉さまの手にかかって死ぬならやぶさかではないが
「そこはやぶさかであってよ、あなたは一国の王でしょう」
「エステル姫?」
思わずつっこんでしまったエステルは、横を向いた。
(今までこんなボロを出したことなどないのに、アベルがうるさすぎて……!!)
怒涛の独り言が辛すぎると思いながらも、いまの不用意な一言でアベルが不審がっていないかが気になり、結局向き直って視線を合わせてしまう。
――キスはしたい、です。命がけでもキスはしたい。
アベルの心中は、エステルの不審な一言よりも、いまだキスにとらわれていたらしかった。
(命はかかってないですよ……。私は暗殺など言い含められていません。子どもを作るなとも言われていませんし、どうにか国益になるような情報を流せとも言われていません。少なくとも父王は、あなたと私の婚姻を祝福しておりまして)
白いドレスが良いと言ったところ「初婚なのだから遠慮しなくても」と後押ししてくれたのも父王である。送り出すときなど「王族としての勤めを忘れず両国民が幸せになれるよう。エステル自身が幸せになり、この二国は憎しみではなく愛情をもって歩んでいけることを示しなさい」と言ってくれたくらいなのだ。
そう、エステルは何をおいても幸せにならねばならないのだ。幸せになれることを身をもって示すために、暗殺などされるわけにはいかないし、もちろん暗殺もしない。子どもが生まれたら「敵国人の血をひく」という理由で、その子を両国から疎まれる存在になどしてはならない。
エステルは軽く腰を浮かせると、アベルの首元のクラバットを掴んでぐいっと引く。
ちょうど馬車がガタンと揺れて、二人は額と額を打ち付けた。「痛ッ」と呻きつつ、エステルは素早く唇に唇を重ねた。
すぐに身を引いて、座面に腰を下ろす。
……沈黙。
うるさいほどの心の声が聞こえなくなり、エステルはそっと視線を向けてアベルの様子をうかがった。
アベルは大きな手のひらで口を覆い、乙女のように俯いていた。
エステルの視線に気づいたように目を向けてくる。その瞳はなおさらに冷ややかさを帯びており、エステルを打つかのような声音も非常に鋭いものだった。
「あなたがこんなはしたない女だったなんて」
――そういうの大好きです……ッ!! 燃えますね……!!
肉声と心の声を二重に聞きながら、エステルはさてどう返事をしたものか、と迷う。
腹に一物、表情と内心が食い違う相手などこれまで何人も見てきた。だが。
(このパターンは初めてです……。嫌われようとしているのかもしれませんけど、嫌ったら死んでしまうかもしれないですし……。さじ加減がわかりません)
迷いながら、ようやく口を開いた。
「陛下は、私にとっては今でも可愛い弟のようなものです。私は以前と変わらずにあなたに心を寄せております。陛下の無理のない範囲で、夫婦という関係を築いていきましょう」
――弟……というのはいただけませんが。俺と夫婦になっていただけるんですか。あなたの国を侵略した王の息子です。憎んではいませんか。以前と変わらずにだなんて、そんなこと、あるはずが……。
「そんな言葉で俺を篭絡できるとでも?」
アベルの表情はどこまでも硬質で、動きに乏しい。それはもしかしたら、意図的ではないのかもしれないとエステルは遅まきながら気づいた。彼を取り巻く状況の過酷さゆえに、表情を失いつつあるのではないか、と。
(心の中はこんなに豊かなのに、どうしても素直にはなれなくて。なれない原因は国同士の……。私たちの思惑を超えたところにあって。私の心を知れないあなたは、私すらも疑うしかなく)
なぜ自分は「心の声が聞こえる」なんて能力があるのだろうと思っていた。知りたくもないことを知り、聞きたくもない本音を聞いてしまう。これ幸いと利用しまくれるほど根性が強くもなかった。
だけどいま、彼の心が聞こえて、自分の側からはすれ違いようもないことを、素直にありがたいと思っていた。
「あなたは私を愛さないと言いましたが、私はあなたを愛しています。たとえ両国がふたたび戦火を呼び込むことがあろうとも、私はバルテルス出身の王族で、シュトレームの王妃として平和を諦めません。被害を食い止めるよう、尽力します。せっかくあなたが最良の手段として考えてくださったこの結婚を、私は大切にしていきたいと思います。周りがなんと言おうと、二人で乗り越えていきましょう。あなたのお考えはいかがですか?」
アベルの青い目とは、たしかに視線が合っている。
それでも、いまやうるさいほどのあの声は聞こえなかった。
自分の、心の声を聞く能力が消え去ってしまったのではないかと思うほどの、沈黙。
やがて、アベルが唇を震わせて言った。
「同じ考え、です。でもそれは、ひどく危険で、あなたを巻き込んではいけないものだと思っていました。あなたは今でも俺の大切なひとで……」
この声は、心の声と空恐ろしいまでに完全に一致しているのだ。だから、ひとつしか聞こえない。彼の心はそこにひとつしかない。
全身を耳にしてその声を聞くエステルに、アベルは重ねて言った。
「俺はたしかにさきほど、あなたを愛さないと言いました。……愛しても、良いのでしょうか」
「あなたの心が定まるまで、私は待ちますよ」
「すぐには……。あなたを害そうという者もいます。あなたをお迎えするまでに、完全に安全な状態にはできなかった。俺は、自分があなたに溺れていると示すことで、あなたを危険に晒すくらいなら、お飾りとして扱い、愛していないと周りに思わせておいた方が、と」
(隙を見せられない生き方をずっとしてきたのだわ)
表情が、動く。苦悶に歪む。
いつかこのひとを、こんな表情から解き放ち、冷笑ではなく幸せな笑顔ができるよう、力を尽くすと誓いを胸に。
「ひとまず、愛を交わすのは馬車を下りるまでこのひとときだけ。これから、この絆にかけて二つの国を変えていきましょう」
アベルの手に手をのせて告げ、エステルは目を閉ざす。
ぎこちない腕が背に回される。
やがて、触れるだけの優しい口づけが二人の間で交わされた。
★2023.3.15発売 「不遇令嬢を待っていたのは幸せな溺愛生活でした アンソロジーコミック」(マッグガーデン)にコミカライズ作品として収録されています(各電子書店にて単話配信あり)。
※コミカライズ作品は短編の内容に、長編版第二章のエピソードを加味した展開となっています。