片羽の天使
私には、天使、の友達がいる。
羽が片方しかない綺麗なお姉さん。
もう片方は、使ってしまったんだってさ。神様にお願いして。
「やっほー」
セーラー服の彼女は、気軽にそう声をかけながら屋上の扉を開けた。
そこは彼女が塾のサボり仲間だった先輩に教えてもらった、秘密の避難所。
フェンスは高くて高くて、まるで檻みたいに空の景色を邪魔するけれど、それを差し引いてもこの見晴らしと空気はそうそう味わえるものではない。
「こんにちは」
声をかけられた若い女性は、振り返ってニコリと笑う。
背中に生えた片方だけの大きな羽は、今日も真っ白でひとつの穢れもなく美しかった。
「今日もいい天気だよねー。こんな日はここに来るしかないわー」
今でこそこんなにも気楽に話しかけるものの、初めて出会った時はお互いに心臓が止まりそうな思いをした。
彼女からしたら天使なんているわけがなかったし、天使からしたら彼女に自分を目視できるわけがなかったから。
それでも今や、なんとなくのサボり仲間になっている。いや、天使は特に何かをサボっているわけではないのだけれど。
「本当に、いい天気ね」
天使はプラチナ色の髪を耳にかけながら、そっと空を仰いだ。
「今日も、見守ってたの?」
「見守ってた、なんて大袈裟よ。眺めてただけ」
はにかむように笑うその仕草は、とても幸せそうだった。
この天使はひとつの家族を、ここでずっと見守っているらしい。もう何年も、何年も。
「変わりなく平和?」
「うん」
「よかったね。私は家帰りたくないな。今日は夜ご飯、きっと麻婆豆腐だもん。好きじゃない」
「ふふふ。他の誰かが好きなの?」
「お兄ちゃん。今日はお兄が夕飯の当番だから」
ふてくされてフェンスにもたれると、天使のにこにこした顔が目に入った。
「……子供っぽいとか思ってるでしょ」
「ふふ」
天使が笑うのに合わせて、羽がふわりと空気を含む。
「羽、本当に綺麗。両方ある時を見てみたかったな」
彼女がしげしげとその背中を見つめると、天使は少し困ったように笑った。
――ない方の羽は、使ってしまったの。神様にお願いして。
いのちを吹き込んでもらった羽は赤ちゃんに姿を変えて、ある家族の元に生まれたの――
天使に会ってしばらくした頃、そう聞いたことを思い出す。
だけどそれは、本来の輪廻とは違うから。生まれて少しの年月で、羽は役目を終えた。
その全てを彼女はここでずっと、見守っていたらしい。そして、今でも。
「……だけど、やっぱり……私、使ってよかった。羽を」
「そうなの?」
「うん。どうしても、どうしても……ほんの数年でも、あのおうちに、生まれたかったの」
遠くを見つめる彼女は、どこか切なげで、でも驚くほど満ち足りた顔をしていた。
「本当はね、すごく迷ったの。そんなふうに家族の一員になることを。私のわがままだってことは、わかっていたから」
長いまつ毛が、目にかかる。
「いなくなったあと、とても悲しませてしまうことも……心の底から悲しんでくれる人たちだから。辛い思いをさせてしまうから……だけど、それでも、私、会いたかったの」
そう言って笑った彼女の笑顔は、その後ろに浮かぶ雲よりもずっとずっと真っ白に無垢で、煌めいて見えた。
「すごく、幸せだったのよ。羽は私そのものだもの。全部の感覚を覚えてる。たくさんたくさん話しかけてもらったこと。可愛がってもらったこと。抱きしめてもらった温かさも、全部全部」
それはまさに、天使の微笑み、としか例えようのない幸せそうな表情。どれだけの愛情をかけてもらったか、どれだけたくさん愛してもらったか……全てを受け取って、心に刻んで、天使は今、そこにいた。
「……そろそろね、帰ろうとは思ってるの」
その微笑みのまま、天使は彼女に向き直る。
「え?」
「いるべきところに」
そう言ってそっと空を指す。
首が痛くなりそうなほど高い空は、美しくて、とても遠い。
「……そうなの?それはちょっとつまんないなー。話し相手いなくなっちゃう」
「ふふ。お兄ちゃんがいるじゃない」
「えー」
「昨日ね、お姉ちゃんの結婚式だったのよ。ほんとにね、私もね、幸せだったなぁ……みんなの、あんなに幸せそうな顔が見られて」
「そっかぁ。お姉さん、おめでとう」
「ありがとう!それにね、お姉ちゃん、お腹に赤ちゃんがいるの!まだ本人も、気づいてないみたいだけど」
口元を抑えて笑う天使は、嬉しさをこらえきれないようだった。キラキラという音がつきそうなほどの笑顔。
もしも星が笑顔から生まれるなら、きっと今ここはプラネタリウムみたいになっているだろうな、なんて考えながら、彼女はそっと呟く。
「ね、ほんとに帰っちゃうの?なんかさみしい。たまには……私のことも見守ってみてね」
「もちろん!」
「遊びに来てもいいよ。麻婆豆腐あげるよ」
「天使はごはん、食べないもの」
「えー。残念」
それからもう少しだけいつもと変わらない話をして、彼女は屋上を後にした。
本当にもう、会えなくなっちゃうのかな。明日にはもう、いなかったりするのかな。他にも天使っているのかな……まぁいいか――
そんなことを考えながら帰り道を歩き、予想が大当たりした香りのする玄関を開ける。
「ただいまー」
きっとこれからだって、サボって屋上には行くだろうし、家族と喧嘩もするだろう。お兄ちゃんの麻婆豆腐に文句だって言うと思う。
“それでも、あなたに会いに、生まれてきたんだよ”
何度も聞いたその言葉が、ふわりと聞こえた気がした。あの柔らかな天使の声、そのままで。




