今日も曲がり角で
ちょっとした青春なお話。
午前七時三十分に家を出る。
鞄を持って、ローファーを履いて、形式だけの「いってきます」を呟いて、私は扉を開けて外に出る。
今日の空は青い。秋になって気候が安定しているのか、最近は雨が降った記憶すらもない。私は青空が好きなので、晴れていれば晴れているほど良いと思っている。
団地の四階廊下でそんなことを思っていた。
私は腕時計を確認する。
そして、歩き始める。
朝の光が届かない陰鬱な団地の階段をぐるぐるぐるぐると下る。黴臭さにも、目的のわからない落書きにも慣れてしまった。
いつからエレベーターを使わなくなったのだろうかと考える。そして、それにはどんな理由があったのだろうと考える。
でも、思い出せない。
或いは、意識していなかったか。
思い出せないものなどないことは知っている。思い出すも思い出さないも、それは結局、私次第なのだ。
思い出すことが害を齎すなら無意識に思い出さないようにプロテクトが発動する筈で、つまりは、その理由については思い出さない方がいいのかもしれないということだ。
団地の敷地内にある金木犀の黄金の花が郁々たる香りを放っている。私はこれが好きなのだが、一部の住人は嫌いらしく、金木犀の撤去案すら出ているという。
私は好きも嫌いも他人の自由だから何も言うつもりはないけれど、まだ生きている植物を人間の勝手で傷つけることは許されるのだろうかとも考えてしまう。でも、これは所詮、綺麗事の域を出ることができない。
団地から出て十五分ほどのところ、明るい茶色の煉瓦造りの塀があって、曲がり角のところにカーブミラーが佇んでいる。
私はそのカーブミラーに隠れるようにして立ち、塀にそっと凭れて、腕時計を時々見ながら、その時間を待つ。
君は几帳面だから、いつも同じ時間に家を出るのだろう。だから、いつも同じ時間にここを通るのだろう。
君がここを通るのは午前七時四十五分。
いつもそう。とても君らしい。
私はこの時間が好きだ。この君を待っている時間が。
同じ時間に来ることは知っていても、いつもドキドキする。今日も来てくれるのだろうか、いや、どうだろうか、と。
午前七時四十四分。
耳を澄ませる。
足音が聞こえてくるから。
私は息を吸って、壁から離れて、スカートの汚れを払って、前髪を軽く整えて、息を吐いて、少しずつ前に向かう。
ちょうど、君とぶつかるくらいの距離になるように。
そして「偶然だね」と言うのだ。
そうすると、君は笑う。きっと、わかっているだろう。いや、本当はわかっていて欲しいのだ。
今日も、私は同じ動作をして、七時四十五分に角から出る。
「偶然だね」
私はそう言った。
でも、その言葉に微笑んでくれる君はいない。
でも、その言葉に微笑んでくれる君はいる。
午前七時四十五分。
今日で二百回目の「偶然だね」。
二百回前までは「必然」だった。
今は今で「必然」ではある。
潰えたのは「偶然」の可能性。
曲がり角で君に会える「偶然」の可能性。
「偶然だね」が青い空に今日も飛ぶ。




