ロンリーコンタクト
進化の末に見た青い球体が今は懐かしい。あの日でさえも、私はその球体を見なかった。魚の眼のような窓からちらりと見ただけである。残っている記憶はそれが青かったということだけだ。
あの日、どうして見なかったのだろう。もう帰ることができないことはわかっていたというのに。叶わないとわかりきっていたのに、まだ希望を抱いていたというのだろうか。
そんなことはない。私は仮にも科学者だ。
私は如雨露を持って扉を開けた。
金色の大気が上空にあり、鉛の雲が悠々と浮かんでいる。その下にはチョコチップクッキーのように細かで荒々しい大地が広がっている。何処かに海もあるようだが、私はまだそこまで行けていない。それは私の技術面の未熟さが原因である。
私は畑に向かった。懐かしい作物を植えている。ここに来る前に、青い球体のある島に眠る倉庫から頂戴してきたものだ。確か、マーリンシューと言っただろう。あの絢爛な過去の国に滞在していた時に教えてもらった。荒廃した土地でも逞しく育つということで採用した。それは間違っておらず、畑では緑色の葉が異彩を放っていた。
如雨露でマーリンシューに水を遣る。水とは言っても、ここに適応した形での「水」である。エーテルに近いかもしれない。
私は水を遣って、畑から少し離れた高台で暫しの間、立っていた。
ここからは宇宙が見える。晴れ渡ってはいないが、星々が輝いている。隣の星が赤く心臓のように動いている。その向こうの星は灰色に近い。私は赤い星を「ソル」と名付け、灰色の星を「ルナ」と名付けた。
雲が多い時、ソルの赤い光は睨むような光となる。それはかつての私たちが「蠍の眼」と称した光に似ている。でも、これは蠍の眼ではない。
灰色の星のルナは雲があると見えない。ルナの表面には虹がよく見える。私は虹の原理を忘れてしまった。必要がないからだ。ここでは如雨露を使ったとしても虹は見えない。
ソルとルナの向こうは無数の星があるけれど、そのずっと奥を見れば、真っ黒な虚無が広がっている。
エンプティ。
それはかつての私たちが最も恐れたもの。
何もかもなくなるという狂気。
それは瞳孔のようだ。
しかし、私はその狂気が愛おしい。何処かに温度の名残がある儚さがそう思わせるのだろうか。そう思うこと自体が既に狂気の中に囚われているのだろうか。
私は高台を下り、畑を通って、家に戻った。家はゲルに似ている。乾いた草原で出会った少年のことを思い出した。きっと、今はエンプティの中、その穏やかな魂を彷徨わせている。
私は靴の金具を外して、ベッドに腰掛けた。そして、重力に従ってゆっくりと倒れた。眠かったわけではない。あの日以来、はっきりした眠気がわからない。生きている時に死ぬことのイメージが漠然としているのと同じだろう。でも、今は死のイメージは可能だ。生きながら死んでいるも同然だからだろう。
私は口を開く。そして、音を出す。声帯が動いている。最早、大した意味もない器官。まだ機能することが不思議だ。
「……テン……ナイン……イグニション・シーケンス・スタート……シクス……ファイヴ……フォウ……スリー……トゥ……ワン……」
掠れた声で呟いた。
蓮の葉が脳内に浮かぶ。
自分の居場所をあの湿った天の王国に置いていたのかもしれない。科学者として巡った世界の思い出、そこで出会った人々、何もかもが懐かしく煌めく愛おしい宝物だ。
「……ゼロ」
蓮の咲く水面から昇った泡がひとつ。
弾けて割れた。
生まれ変わりのイメージ。
私は枕元にある通信機を手に取って口元に近付けた。
冷たい感触。
「……こちらはエノーラ……どうぞ。聞こえますか? そちらはどうですか? 快適ですか? 科学に進展はありましたか? 私の仮説は証明されましたか? こちらにはその設備がありませんし、組み立てる材料もありません。……昨日も同じ事を伝えました。聞こえますか? 聞こえるのならば、返事をして下さい。もうカウントダウンは疲れました。こちらはエノーラ。青い空に浮かぶ虹が見たい。どうぞ」
私は通信機を離した。これは私の宝物。思い出。
祈り。
諦め。
たくさんが混じり合う。
私は欠伸をした。
おかしい。眠くなんかないのに。でも、瞼が重い。どんどん塞がっていく。光がなくなっていく。小窓から見えた金色の大気。
ここは私の居場所ではない。
また、明日。明日になれば青いだろう。




