花咲う幻想
七月。
風が吹いているのだけがわかる。それが私の肌を撫でるからだ。包帯さえなければ、浜辺へ出向いて、青い夏を眺めて、私の好きなレモネードでも楽しみたいのに。
指先のひとつも動かせない。言葉のひとつも口にできない。誰の顔も見えない。音だけがずっと聞こえる。
ピッピッピッ……命が在る証の音。
記憶は混沌としている。それは世界が生まれたばかりの頃の渦のように、不定形で、たくさんの色がごちゃ混ぜで、夢現で、何処か海月のようだ。私の居場所は杳として知れず、ずっと蹲っている。
呼吸は極めて軽い。それだけが救いだ。
少し前までは誰かの気配と、それが啜り泣いている音が聞こえた。でも、今は命の音だけしか聞こえない。
少しだけ寂しい。
朝も昼も夜もわからず、晴れているのか雨が降っているのかも曖昧。玩具箱をひっくり返したような記憶から私の名前を探すことは叶わず、私はたった今生まれた赤ん坊のように、暗闇で生きている。
これを果たして生きていると言うのだろうか?
生きるって何だろうか?
考えることしかできないから、そんなことばかり考えてしまう。
生きていることの意味、価値がないという結論は疾うに出ている。けれど、私にはどうやっても死ぬ手がない。だから、生きる意味と価値をまだ見出だそうとしている。
惨めだ。
私が誰であろうと、今の私は惨めに違いない。
自分の命の処遇さえどうにもできないなんて。
死にたいほどに惨めだ。でも、死ねない。それがまた惨めで、また死にたくなる。これの繰り返しだ。
眼だけでも使えたなら……そう思う。どうせ死ぬにしても、青空に浮かぶ白い太陽が見たい。夜の眠るように青い月が見たい。波に運ばれる可憐な貝殻を見たい。浜辺で風に揺れる真っ白な浜木綿を見たい。
それが叶わないならば、さっさと気が触れてしまえばいい。こんな意識が何の役に立つというのだろうか。きっと、神様でさえ知らない。
ピッピッピッ……止まって欲しい。
今日はどんな日だろう。
本当に惨めだ。
……。
……。
不意に音が遠くなる。どんどんと遠くなっていく。そして、包帯がするりと外れて、視界が白に染まった。あまりに明るくて吐き気がしたほどだ。視界が正しい色を取り戻すと、青く澄んだ空が広がっていた。
私は息を呑んだ。
そのあまりに鮮明で無秩序な青さに。
そして、私は気付いた。私の身体が動くことに。あの酷く爛れていた私の身体は、普通の肌に戻り、何の苦痛もなく動かせた。
身体を起こして周囲を見回すと、そこは浜辺だった。太陽の位置から考えて、南に海が広がり、東西に続く肌理の細かい浜辺に際限はない。北の方を見れば、浜木綿が幻のように咲き乱れていて、それは遠い国の夜に浮かぶ花のように思えた。
私は混沌としていた。
これは夢? 現実? 私はまだ生きているのだろうか?
私は何処かの病院にいた筈……それだけはわかっていた。だとするなら、この私が夢見た風景の説明はどうしたものだろうか。
私はベッドから降りて波打ち際に歩いた。柔らかな砂に足が沈む。砂は優しい暖かさだった。
波打ち際にはたくさんの貝殻や流木が流れ着いていた。その中に一際、太陽の光を受けて輝く貝殻があった。その美しさを説明しようとするのは、神様にさえも難しいかもしれない。どんな宝石よりも美しい、そう言えばいいだろうか。
私はそれを拾い上げて、太陽に翳した。
ああ、美しい。
ここが幻だとしても私は許せる。
許せてしまう。
だって、これ以上に何を求めたらいいのだろう? 死? 最早、生きる理由なんてものはここにありはしない。生きていたって汚くなるだけで、この風景だって過去の一瞬に戻るだけだ。
ここが最期でいい。
もうあの暗闇には戻りたくない。
爛れて硬くなった皮膚を風が撫でる気味の悪さはもう嫌だ。
私は死んで、いつかの私の身体を取り戻す。記憶なんてものはいい。私は生まれたばかりに戻って死を謳歌するのだから。
この浜木綿が咲う幻想で死んでいたい。
……ピッピッピッピッ……忘れていた音がまた近くなってきて、一気に耳を劈く長音になった。それが曖昧になっているあちらとこちらを分断する合図で、漸く私は自由になれたのだ。もう暗闇には戻らない。
ほら、浜木綿が健気に無邪気に咲っている。




