天使の第三翼
それは曇天の沖合で観測された。見つけたのは粗悪な船で海を漂う、某国より脱走を図った人々で、彼らは保護された後にそれについて狂ったように喚いていた。
「天使だ、三つの翼の天使だった」
彼らは喚くだけ喚いて死んでいった。劣悪な船での向こう見ずな挑戦の末の衰弱だった。当然、天使も窮地の中で見た幻覚だと思われた。しかし、彼らの死後に船を捜索すると、船底から一枚の羽が見つかった。それは恐ろしいほどに白く、仄かに温度があった。そして、調べてみると、既知の鳥の羽とは悉く一致しなかった。
結局、調査のために船とヘリコプターが出され、海上の捜索に当たった。膨大な時間が掛かるかと思われたが、そんなことはなかった。
それはどんな光よりも眩い光を放っていた。
白く、温度があり、神々しい光。
調査隊のひとつが光に近寄った。それは宙に浮いていて、直視すると失明しそうなほどの眩さだった。大きさは2メートル弱で、服などの類は纏っておらず、酷く痩せているようだった。浮いた肋骨、痩けた頬、棒切れのような足が物語っている。それとは対照的なのが翼で、豊かに膨らんで、痩せた身体を半ば包んでいる。不思議なことに、翼は一対ではなく、背面にもう一枚だけあるらしかった。
顔は見ることが叶わなかった。最も眩しかったのだ。愚かにも双眼鏡での観測を試みた隊員は眼を灼いてしまった。
天使は宙に浮いたまま、微動だにしていなかった。
隊員のひとりが意思の疎通を試みて話し掛けた。
「あなたは誰か?」
「……」
「あなたは……」
「私は私である。顔の見える人々よ。ここは何処の海だ? ナイケアの海でも、マゥトゥルスの海でもない。輝きが青い。私が知る海はビノロァの花の色をしていた。ここは何処の海だ? 何処の海だ? キューケァの庭園を発ち、ナイケアのビノロァ色の海を越えた。あまりに瞬間的で長い、どうしてだ? ファラマヴァウテに届くほどのようだ。誰が私を導いたのだ? 誰が私を欺いたのだ? キューケァの管理者か? 答えよ、顔の明らかなる人々」
天使は少し辿々しいラテン語で会話をした。すぐにラテン語に精通した研究者が送られ、再度、意思の疎通が図られた。
「あなたの望みは?」
研究者が訊ねた。
「私は私に堪能である。故に望むことは、この青い海を脱し、ビノロァ色の馴染み深い海に戻るのだ。キューケァの管理者を問い詰めなければならない。ラ・コーシュかサンヴテアのどちらかに違いない。どちらかが私を欺いたのだ。ビノロァの咲くア・ズネの地だと偽った。そうでなければ、あのような不穏な装飾の門を通る筈がない。そうだろう?」
「え、えぇ、そうですね。あなたはどうやったら戻れ……」
研究者がそう言い掛けた時、翼が、背面から生えた奇怪な翼が伸びてきて、研究者を包み込んだ。それは光度を上昇させ、再び天使の背面に戻った時には、研究者の姿は消え、血溜まりがあるだけだった。
「まずは空腹を満たす。キューケァまで持たない。キューケァまで飢えぬには、顔の見える人々を二百、いや、千は消費すべきだ。さあ、近寄れ、顔の見える人々。幸福はここにあり。不幸はそちらにあり」
調査隊が船を遠ざけ始めると、天使は金切り声を上げ始めた。それはどんなものより「死」のイメージを抱かせるもので、数人の隊員は自ら鼓膜を破るという選択をしたほどだった。
「キューケァ!」
左の翼が動く。
「ビノロァの海!」
右の翼が動く。
「レ・シュピェ・ドファの堕落!」
顔がさらに輝きを増す。
「アルクレト・オーの廻り!」
背面の翼が大きく開いて空に広がっていく。
「ふたりの管理者ども!」
天使の言葉は呪文のようなものになり、ラテン語ですらなくなった。大きく開いた背面の翼は、獲物を探すように動き回り、危うく船に届くところだった。背面の翼からは何か歯のようなものが擦れる音が絶えず聞こえ、時折、喘ぐような音も聞こえた。
これ以降、調査は遠くからの観測だけになった。幸いなことに、天使は位置を変えることはなかった。
天使が消えたのは、最初の報告から二年後のことだった。
天使のいた海域では、某国よりの船が大量に漂っているのが発見された。そして、そのどれもが無人で、乾いた血の痕があるだけだった。




