蟠る夕空
鈴虫の声が聞こえてきたので、ひとり、またひとりと家に帰りました。空はまだ薄紫で、黒っぽい雲が長閑に流れているだけでした。
鈴虫の声に隠されたようにか細く聞こえるのは、小川のせせらぎで、それは何処かの子供が慣れないリコーダーを吹くように不安定なもので、鈴虫の緩やかな律格の上に成り立つ合奏と合間って、奇妙なハーモニーを作り出していました。
寂しさだけが残る薄暗い境内に残ったのは、錆び付いたスチール缶だけで、今日まで幾度も蹴られ、もう凹みができているのでした。
「日々は川の流れのように過ぎるのですな」
彼が言いました。
「そうですとも。しかしながら、日々というものは川ほど綺麗ではないのです。必ず濁り、滞るのですよ」
私が言いました。
「その濁り、滞ることさえも今は懐かしい」
「そうですか。汚濁こそが生の絶頂たる時期とも考えられますからね」
「ええ。わかりますとも。綺麗なままでは何もないのです」
「だからこそ、錆び付いた?」
「定めですな」
「蹴られ、何処へともなく飛んでいく日々に意味がある?」
「ありますとも! いえ、ないとも言えますな。しかし、私のようなものが意味を探すのは烏滸がましいことだと思うのですよ」
「そんなことはありせん」
「そうでしょうか」
「外から見て生きているものであれ、そうでないものであれ、生きていることのそれ自体に意味などないのですから。表層的な意思あるものどもは意味を持つことに喜びを見出だすようですが、何とも愚かなことです。意味がないことを知っている方が美しいとは思いませんか?」
「あなたは難しいことを仰いますな」
「それはそうでしょう。あなたが物質として生まれるより早くから移り変わりを眺めているのですから」
「それは難儀なことですな」
「そんなことはないのです。ほら、鈴虫の合奏も、潺湲とした小川の鳴き声だって、いくら悠久の歳月を経ても大局は変わらず、そうでない些細な変化も愛しいのですから」
「あなたの観測に終わりはあるのですか?」
「そうですね……鈴虫が死に絶え、小川が渇き、誰も彼もが私を忘れたなら、その時は大人しく死んでしまいましょう」
「そうですか。それまで私も一緒にいたいものですがね」
「あなたは永遠ではありませんからね」
「永遠はいいものでしょうか?」
「そんなことは決してありません。寧ろ退屈です」
「そうでしたか」
「私も脆弱な人間に戻れたなら、その短く下らない一生を謳歌できたのでしょうが……もう叶わないことですね」
夕闇が侵食し、錆び付いた彼の声も届かなくなりました。
また、明日が来れば、夕空が到来するまでは、この蟠った日々を少しでも輝かしいものだと思えるのに。
鈴虫の声と小川のせせらぎだけが美しい。




