落とし子
それは青空に少しばかりの灰色が見え始めた午後二時近辺だっただろう。腕時計の針は十七年前から動かないので時間などわからない。そもそも、時間という概念がナンセンスなのだと教わった記憶がある。
散歩がてら歩いていたのは市営バスでは到達できない文明の跡地で、ここには摩天楼の切り取られた一部があり、分離したが故に衰退し、廃墟となっている。あの切り取られた時のまま、人間は廃墟の上階、今はエレベーターがないので永遠に下りられない雲の上に取り残されている。
廃墟に人がいるのはおかしいと思うだろうか。しかし、おかしいと思うのなら、それは学校で何を教わったのか、と訊かなければならない。
宇宙のマージンをコピー機で量産する音が聞こえてくるのは自然なことで、それがどんなに不快であれ、耳を傾けるべきだ。何処が生きていて、何処が死んでいるのか、千年前のコピー機の狂気めいた音で判断し、避けることが重要なのだ。
今は昨日の大粒の雨で苔生した大通りの、四六時中灯ったままのネオンの下に置かれた誰も座ることのない鉄製のベンチに腰掛けている。
ベーグルを一口。無味が広がる。
ストレートの紅茶を一口。潤いが齎される。
頭のない警邏隊が脚のない馬に跨がって、手にはファスケスを持ち、過去五十年ほどの放射線を溜め込んだ駄菓子屋を見張っている。そこに遠い遠い名もない星の名もない伴星から来た重力の残滓があると睨んでいるのだろうが、そこは三十年前から蛻の殻である。
その重力の残滓を「落とし子」と説明していたのは古い古い教科書で、今はもう存在しない。廃墟の何処かにはあるかもしれない。
空を見上げると、青空に亀裂が入っている。
近くでコピー機の異質な音がしたので踵を返した。
無人のスクランブル交差点を走り、右に広がる地上に露出した地下道に入り、宛らドール族のように長大な化物の視線を受けつつ、八つ裂きにされたモノレールの駅から出た。
さっきのコピー機の音がした廃墟が激しく振動して崩れるのが見えた。瓦礫の山が吸われるように消えると、隣の廃墟が分裂して、新たな廃墟が生まれた。分裂体はまだ脆弱であるため、雨が降ったら死ぬだろう。
モノレールの駅から下りて、これといった特徴のない路地に出た。空の亀裂が広がり始めている。
地点はここであると教科書にあった。
空の亀裂は完全に広がり、空が割れ、その破片が落下してくるが、それらは全てを透過して何処かへ消える。
ぽっかり開いた空の裂け目の彼方に名もない星と、その伴星である名もない星が見える。
「落とし子」の飛来である。
その前座であるフリージアの花が空から落ちてきた。
本命は花に隠されるようにゆっくりと落ちている。その落下地点は無人のスクランブル交差点だと推測されたので、そちらに駆けた。
空に貪欲なアンハングエラの群れが現れ、攪乱をする。
コピー機の忌むべき音がそこら中でする。
廃墟が興奮して跳ねる。
アスファルトが波打つ。
そして、本命は推測した通りにスクランブル交差点の真ん中に落ちてきたので、すかさず、両の手で抱えた。
今度こそどうか、と「落とし子」を見ると、そこには顔を真っ赤にした嬰児がいて、器用にも泣き声と呪詛を同時に吐き出していた。
これは本命ではない。
だから、地面に叩き付けた。
「落とし子」が弾けた。
空が閉じてゆく。
コピー機も音を止める。
アンハングエラの群れが廃墟の屋上に消える。
また、廃墟しかない街が「落とし子」を待って、密かに存在を主張し出す。空の亀裂が完全に閉じた時、午後二時だった街は午前二時に切り換わって、作り物の星が輝き出した。




