猫は視えない
物理の隙間、何処かにいるもの。
物理的な法則どもに縛られてしまった世界にあって、私はある反物理的で、また冒涜的な事実を発見してしまったように思う。
それは春先の晴れた日、雲が長方形で、ニュースでは死刑廃止デモの様子が報じられた、あの春先の何でもない日のことだった。
私は大学の図書館、本来は関係者のみが立ち入りを許可されているのだが、そこに特例的に入場し、黴臭くて光の乏しい書庫で古の風化しそうな本を読み漁っていた。その日はルネサンス期イタリアの無名な作家の短編小説の原書を読んでいた。
書庫というところは前述の通り、薄暗く、黴臭い。私にとっては居心地のいい場所ではあるのだが、些か薄気味悪い場所である。
大学創設当初に教授が書庫で割腹自殺を図ったのも気味の悪さに拍車をかけているようだ。他にも暗鬱とした噂が多々あるが、どれもこれも根も葉もないものばかりである。
この書庫で、私は声を聞いた。
それはか細くて、高い。瞬時に猫のものだと判断した。
しかし、猫なんて入り込む余地があるのだろうか。もし図書館内を彷徨いていたら、職員が捕まえるに違いない。
私は無名作家の本を棚に戻して、出所のわからない猫の声を辿った。猫は移動せずにミャウミャウと声を出していた。子猫のようにも思えたが、老齢のもののようにも思えた。
書庫内を一周したが、それらしいものは何処にもいなかった。
私は不思議に思った。
ならば、考えられるのは天井の空洞であるが、それは先月に業者が呼ばれて、塞がれた筈である。仮に取り残されていたとしても、毎日のように通っている私が気付かない筈がない。
そもそも、取り残されているという可能性は無に等しい。
私は書庫の埃が積もった脚立に腰掛け、眼を閉じて考える。
考えている間にも弱々しい猫の声が書庫内に響いている。
やがて、猫の声が移動していることがわかった。それは天井ではなく、明らかに前後左右から聞こえてくる。私の耳によれば、上、下からの可能性ははっきり言ってありえなかった。
猫の幽霊か?
私の頭を過った非現実的で非科学的な考えが急速に現実味を帯び始めた。というのも、移動する猫の声が四方八方かは聞こえ始めたからである。どの声も悍ましいほどに近い。ミャウミャウと絶え間なく聞こえるので、私の頭のすぐ近くを周回しているらしい。
しかし、私は猫に恨まれるようなことをしただろうか。
私がターゲットでないなら、書庫を訪れる者に対する嫌がらせか? 利用者の誰かに虐められたのだろうか。
猫の絶え間ない声は急に止んだ。
私は眼を開けた。
いつの間にか書庫は乏しい灯りさえもなくなり、完全に真っ暗になっていた。書庫には窓がなく、電気がないと真の闇に陥る。
私は冷静さを欠いてはいけないと思いつつも、全力で叫んだ。喉から血が出るかと思うほどに叫んだ。
しかし、何も返ってこない。
闇は闇のまま。
無音。
私は狂ったように転げ回った。
床がわからない。
何もわからない。
私には何もわからない。
この闇から逃げるには死ぬしかないのかもしれないが、私の身体はもう何もわからない。動いているのか、或いは止まっているのかもわからない。ただ何もわからないことだけがわかる。
しかし、わからない。
わからない。
何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も、わからない。




