曲線道理
現実の何処かの世界の一場面。
僕の名前は……いや、言わないでおこう。君が信頼に足る人間かどうか確証が得られないからね。悪く思わないでくれ。あくまで常識なんだ。こちら側の世界ではね。
なかなか雰囲気のいいバーだろう? 気に入ってもらえたかな?
あまり緊張しなくていい。
そう。リラックスだ。
君、この世界に迷い込んだのは最近だったね。でも、ここではリラックスしておきなよ。ここに敵はいないし、上下も存在しないから。
テーブルが気に入った? うんうん。目利きでもしてたのかい? イギリスの品なんだよ。椅子も見てくれ。それはチッペンデール様式なんだよ。マスターが好きなのさ。
え? マスターは何処か?
さぁね? 神出鬼没と言っても過言じゃない。
時々、顔を見せに来るけど、僕としては見たくないかな。病的なほどに大柄で、あの鳥のような眼光には耐え難いものがあるからね。いつもいるバーテンくんの方が話しやすいし、何よりカクテルが美味い。僕、普段はカウンターに座ってるんだ。
今、カウンターにいるのは、ひとりは顔見知り、もうひとりは知らないね。君のような新入りじゃないかな?
迷い込んだのか、なるべくしてなったのか、それはわからないけどね。どっちにしろ、入ったら同じだから。
顔見知りの方? ああ、彼はね、良くも悪くもわかりやすい奴なんだ。名前は一応、伏せておくけどね。彼は僕と違って能動的でね、三番埠頭の北にある廃倉庫がテリトリーなんだよ。
え? 明かしていいのかって?
ああ、問題ないよ。その方が彼のメリットに繋がるからね。
この世界はさ、金が全てかと思えば、案外、人情に左右されるんだ。恩を売っておけば返してくれる。僕のような非力なタイプはそうでもしないとね、すぐに首が飛ぶ。
彼、今日は苛立っているのかな。
狩れてないのかな。
確か、廃倉庫が解体されるみたいな話もあったしね。それを耳にしたんだろうな。やっぱり、住めば都だからね。
お、見知らぬ奴が絡まれているね。ああ、気の毒に。
え? 止めなくていいのかって?
そうだな。見てればわかるよ。
あ、頭を持ったね。うんうん、お決まりのパターンだ。
ああ、捻ったね。幽かに捩れて折れる音が聞こえただろう?
可哀想に。いや、幸福でもあるか?
拷問されないだけマシかな。
え? 狂っているって?
ははは、君が迷い込んだのがどういう世界か理解してないのか?
君が迷い込んだ「殺人」の世界のことさ。
殺したかったら殺す。殺されないためには相手を殺す。これが道理だ。郷に入っては郷に従っておきなよ。
でも、君は大丈夫。
まだ僕っていう後ろ盾がいるから。何かあったら僕の名前を出してくれればいい。取り敢えずは難を逃れることができるよ。
え? バーテンは殺されないのかって?
うん。単純だけどいい質問だ。
考えてご覧よ。バーテンを殺したりしたら、誰がカクテルを作ってくれるんだい? それ以上に、マスターに眼をつけられるのは勘弁だ。
殺人者だって理性的な人間だ。別のベクトルの理性だけどね。理性があるから殺すんだよ。だから、殺したらいけない人間もわかるんだ。マスターとか、僕みたいなね。
さぁさ、乾杯しよう。
世界の生々しい実情を見てもらったんだ。今晩は僕が奢ろう。
さあ、君が殺されないように、乾杯。




