風遊地
落とし物には気を付けて。きっと取り返しがつかなくなるから。
私が眼を醒ますと、そこは黄緑色の平原だった。視界がはっきりしてから周囲を眺めると、背の低くて柔い草が無限に生えていて、1メートルを超える木は見られなかった。
私は眼を擦った。
これが夢である可能性を確かめようとした。
私は仰向けになった。夢でないことだけはわかったので、まずは気分を落ち着けようと思った。私はただデスクワークをしていただけなのに、どうしてこんなところへ……。
空は草と同じ柔い黄緑をしていて、大気が薄いのかもしれないと私は思った。雲が羽ばたいているし、太陽は飽きもせず回っている。
私は眠りそうだったので立ち上がった。眠ったら起きられなさそうな気がして怖かった。
少し歩いてみてわかったのは、この平原は非常に歩き難い。ぶよぶよしていて、がらがらしていて、ねちょねちょしている。時々、急に足元が沈む感覚さえある。
五分ほど歩くと坂になった。緩やかな傾斜だ。私は迷わずそれを滑って、下に広がる、同じような風景に立った。違うのは、黄緑の叢に点々とカラフルな風車が立っているということだ。
急に水音がして、そちらへ走った。相変わらず、ぶよぶよ、がらがら、ねちょねちょしていて動くのに不向きな大地だった。
私が水音に何を期待していたのか、そんなの私にもわからない。
水音は断続的に聞こえるのに、池も川も見つからなかった。
「何をお探しかな?」
若い男の声がした。
私が振り返ると、長い黒髪を束ねた、一見すると女にしか見えない青年が立っていた。明らかにただ者ではないと私にさえわかった。というのも、青年は重瞳の持ち主だった。
重瞳は異質な天賦を授かった者の徴。
「……ここは風の遊ぶ地、風遊地と言います。貴女は客人です。丁重に風も迎えてくれることでしょう」
「私は、迷い込んだのです。だから、出口を……」
「ふむ。迷い込んだと? まだ隙間があるんですね。しっかりと埋めた筈なんですけど……。そうですね、では、戻らなくてはいけませんね。どうぞ、私についてきて下さい」
重瞳の青年はさっさと歩き始めた。私は移動するのに不便な足元をどうにかこうにか歩いて彼を追った。
草が風に揺られて頻繁に動くものだから、一向に地面の様子がわからない。風はどうやら全方向から吹いているらしい。
彼が歩き、私がそれを追って、体感的に約三時間。体力は尽きる気配はないが、まったくとして変わらない景観に私は狂いそうだった。いや、少し気が触れていたのは間違いない。
だって、空が青く見えたのだから。
風景の変化は橋の登場によって齎された。モダンな造りで、この幻想空間には似合わないものだった。橋が架かっているのは渓谷で、幅は百メートルはあると思われた。
「気をつけて下さい。落ちると考えれば橋は落ちます」
青年がそう言うので、私はなるべく何も考えず渡った。そして、渡りきった瞬間に「ロンドン橋落ちた」と連想すると、橋は真っ二つに割れた。青年が「ほらね」と笑った。
私は靴を脱いで捨てた。踵が痛くなってきたのだ。
すんすんと匂いを嗅げば、何処からともなく、風に紛れてアルコールやシトラスの香りがした。
空は青から紫色に変化していた。宛ら夜である。
「もう少しです」
「はい……」
青年はまったくペースを落とさずに歩いている。流石は重瞳の持ち主。この道標も何もない正気の欠落した平原を迷わずに歩けるなんて。
私は呼吸を整えた。風車がカラカラと回っている。
風遊地の空にカレイドスコープのような星が浮かぶ。ネオンライトで飾られた人魚が優雅に泳ぎ、私の頬にキスをした。
青年がひとつの門を示した。
「出口です。どうぞ。お忘れものはありませんか?」
「大丈夫です」
「わかりました。では、お通り下さい……」
私は安堵しつつ門を潜った。
その先には黄緑色の背が低く柔い叢が無限に広がる平原。空も同様の黄緑をしていた。木も何もなく、私の記憶にある風景だった。
振り返ると、門が閉まっていく途中で、重瞳の青年が「忘れものがあると帰すことはできません」と言った。
私は声にならない叫びを上げた。
狂っている。
私の忘れもの、あの捨てたヒールは何処?
あれがないと帰れないのに。
でも、私は思い出す。もうひとつ悲劇的なことを。
「ロンドン橋落ちた」なんて考えなければよかった。




