カプリコーンの白
宇宙もそれを取り巻くものも秘匿される。
空の星々の瞬きについて私が知らないと思っていたのでしょうか? あれらは私が腹を蹴る愛しい子たち。あなたよりもずっと知っているのです。何しろ、まだ羊水に浮かんでいるのですから。
『全天の君』は、アムニ・キッド氏の質問にそう答えた。
ここは暗さに煌めきを伴うドームで、天井からピアノ線で吊られた材質不明の星々が幾つも浮かんでいる。それらは光源としての機能を持つらしく、淡いけれど各々が灯っている。足元にはランダムに段差があるらしく、キッド氏は何度も足を取られた。距離感さえもわからず、ろくに動けないまま、やけに背丈のある『全天の君』と対峙するしかなかった。
『全天の君』とは、天文学界隈における彼女の呼び名である。元々、名のある天文学者だった彼女は、見てはならない六等星を視認した時に正気を失くし、そこからは魔女と喩えられる生活を送っている。しかし、『全天の君』という名前には、優秀な天文学者だった彼女に対して、少なからず畏敬の念が込められているのである。
「博士、何故こんなに暗いのですか?」
光が眼を傷付けるだけでなく、精神を蝕むからだと彼女は答えた。
キッド氏は移動を試みた。少しでも彼女に近付こうと考えたのだ。キッド氏は彼女の教え子で、彼女とともに未知の星を発見したこともある、比較的親しい人物で、彼女が狂った以降も心配して顔を見せに来ていた。彼女からすれば、人間社会との唯一の架け橋がキッド氏なのだ。
「足元を照らしてもよろしいでしょうか?」
キッド氏の問いに、よろしい、とだけ声がした。
キッド氏は懐からペンライトを取り出して、足元を照らした。やはり、ランダムに凶悪に、無意味だとしか思えない配置の段差があり、何故こんな配置なのかキッド氏は考えた。しかし、『全天の君』の決めた配置であるため、理由など考えるのは、それがあるにしろないにしろ、およそ無意味なことだ。彼女は狂う前から狂っていた。優秀な学者とは標準的に狂っているものなのだ。
小さい灯りのお陰でキッド氏は『全天の君』の影が見える辺りまで近寄った。光を消して正面を向くと、大柄な人影が何かに腰掛けているのが見えた。推定でしかないが、それはカプリコーンだと思われた。
「博士、お久し振りです」
ああ、と『全天の君』が言う。
「博士、どうして今日は私をここに? 研究の補助でしょうか?」
違う、と声がする。それは、やけに高い位置から発せられているように感じたが、きっと、スピーカーでも使用しているのだ、とキッド氏は考えた。『全天の君』は元からボソボソと話すタイプの人間だからだ。
私は死ぬ、と声が響いた。調子の変化しない無機質な声だったが、別に不自然には思わなかった。
「何故です?」
キッド氏が訊ねると、少し間があってから声が響いた。
私はあの見てはならない六等星を見た日から、今日までのことを考えていた。あの日から、人生は有限と無限を平行にして進んだ。あのカプリコーンのβの影に隠れた忌避不可の厄災が私を拐いに来るのだ。あの半獣半魚の厄災が。私は客観的に見れば死ぬ。そうだ、君たちの世界の定義では死ぬのだ。いいかい、君に残すのは忠告だ。あの六等星は見るな。見ることがトリガーだ。くれぐれもβを細かく見ようとは思うな。
彼女は一気に言って、その後、何も言わなくなった。
「博士?」
キッド氏が恐る恐る足を一歩踏み出したタイミングで、ドームに白く下品なほどに眩しいライトが点いた。そして、眼の前にあるカプリコーンを模した白塗りの台座に腰掛けていた『全天の君』は間違いなく本物で、間違いなく事切れていた。
後の解剖で、彼女の胃の中から未知の小さな隕石が無数に発見されたことは、当然ながら、秘匿されることとなった。




