第三章(2)
起き上がれるようになったのは、その二日後だ。
家事を手伝うと言えば、貴也は大げさなくらい喜んでくれた。
どうやら苦手らしく、目元をそっと袖口で拭う。
「特に食事の用意が苦手で…やはり、向き、不向きと言うものが、先天的にあるのでしょうね。わたしには、その手の才能がからっきしで」
「…ですが、貴也様は人外ですよね?食事は、必要がないのでは?」
指摘すれば、貴也はふっと表情を消した。
思うように起き上がれなかったが、人の出入りがあったことには気付いている。
それが、普通の人間でないことはすぐ分かった。
貴也のことも、初対面のときから人間でないことは、明白だった。
彼は、公、と名乗る人外のようで、一見しただけで、眷族からひどく慕われていることが分かった。
だが、貴也から人外と私に名乗ったわけではない。
言われたくないことだったか、と思ったが、彼は気にしていない、とすぐに微笑んでくれた。
「わたしはそうですが、あの子は人間なので」
月丸のことだ。
彼は、人外の貴也を父と呼んでいるから、人外かと思っていた。
思えば、月丸は不可思議な空気をまとっている。
人間と言われたら人間だが、人外と言われたら、人外のような。
人間なのか、と問い返すことは失礼な気がして、私は当たり障りないことを口にする。
「そうですね、育ち盛りですもの、しっかり食べないと」
言うなり、私のやる気に火がついた。
家事をしているときが、一番落ち着くのだ。
それに、できることがあるというのは、いい。
すっかりその気の私に、
「ありがとうございます。…その、月丸は、養子なんですよ」
貴也は密やかに告げた。
私の疑問は見透かしていたのだろう。
貴也は、ぎこちなく微笑み、
「捨てられた子供を拾って、育てているのです。ここで一人過ごす寂しさを、紛らわせたかったのかもしれません。…次第に、思わぬほど愛しくなって」
遠い目をした。
すぐ、それを押し隠していつものように笑ったが。
なぜか、彼の言葉は懺悔のように、私の耳に響く。
どう言えばいいのか、言葉を失ったとき、
「ここにいたのか、捜したぞ、父上!」
不意に、厨房へ飛び込んできたのは、月丸だ。
拳に掴んだ笛を突き出し、貴也に言う。
「霊笛の練習の続きを、…て、凛っ?い、いたのか…」
いやなところを見つかった、と顔に書いて、月丸は笛を後ろに隠した。
「はい。…では、私は席を外しますね」
「いえ、それには及びませんよ。わたしが、奥の間へ行きましょう。では月丸、練習は、後ほどそこで」
「…お、おう」
暖簾を潜って厨房から出て行く、上機嫌な貴也を見送った月丸は、私を上目遣いに見上げる。どういうわけでか懐いてくれる月丸が、私は愛しい。
微笑んで、身を屈めた。
「笛を嗜まれるのですか、月丸様。いつか私にもお聞かせくださいね」
月丸は、う、と言葉に詰まって俯く。やがて、蚊の鳴くような声で、
「…俺、苦手なんだ。笛。才能、なくてさ」
ため息混じりに言った。
自信がなさそうな口元と落ちた肩に、小さく胸が痛んだ。
そこに、自分と同じ悲しみを見たせいだろう。
私が何も言えないでいるうちに、月丸はキッと唇を引き結んだ。
「でもそれじゃ、だめなんだ。こんなんじゃ、父上の役に立てない。拾われた意味だって、ない」
言葉で自身を鼓舞し、月丸は顔を上げた。
満月色の双眸に、痛々しいほど強い意思と、それにまつわる恐怖と怯えが見える。
私は息を呑む。
彼は、怖がっているのだ。
月丸が、必死に隠そうとする本心を私が感じ取ることができたのは、私も彼と同じ思いを味わったことがあるからかもしれない。
ああ、この子は孤独なのだ。私の中にも、強く共鳴するものがある。
月丸は、貴也に必要とされたがっていた。
そのためにできることなら、なんでもしようと思っている。
だから、重要と思われる、霊笛を奏でる才がないことが、崩れ落ちそうなほど怖いのだ。
上手に吹けなければ、己の存在価値がなくなる、とそこまで自分を追いつめている。
それはおそらく、月丸と貴也に血の繋がりがないせいだろう。
だが、血の繋がりがあったところで。
私は膝をついて、月丸の手を取った。
自分で自分を追いつめている姿が痛ましくて、そこから意識を逸らすように、穏やかに提案してみる。
「うまくできないことは、他の誰かの手を借りてもいいのではないでしょうか」
「…そんなの、弱点みたいでいやだ。格好悪い」
膨れた月丸に、私は微笑む。
「弱点ですか?私には愛嬌に思えますが」
「愛嬌?」
「何もかも完璧な人は、近寄り難いです。誰も必要じゃないのかと、寂しくもなる。でも、何か任せてもらえると嬉しくなります。もちろん、努力を放棄することとは別ですが、頼られると嬉しいです」
諭すというより、感想を口にすれば、月丸は承服し難そうに弱く言った。
「でも」
「月丸様がお悩みなのは、自分の存在理由と、価値について、でしょう?」
しずかに指摘すれば、月丸は、びくん、と震える。
私の手の内から指を引き抜こうとするのを、寸前で押しとどめた。
逃がさずに、訴える。
「それは、誰もが持つ疑問です。だから、月丸様のように、一度でも突き詰めて考えられた方なら、分かるはずです」
「…なにを」
「何かを任せてもらえることで、はじめて居場所が実感できることもある、と」
月丸の顔が、泣き出しそうに歪んだ。そのとき、
「邪魔するよ」
裏口から、下駄の音も高く、誰かが厨房に上がりこんできた。
振り向けば、若い男が目を見張る。
「これはこれは…。へえ、また拾いモンしたって言うから、今度はどんなくだらないものかと思ったら…上玉じゃないの」
じろじろと、視線で全身を舐め回してくるその男に、私は覚えがあった。
八代。
燐光が灯るように、身体の中心から、憎悪が噴き出したが、すぐ、妙なことに気付く。
両目が、ある。
それに、先日より、若く見えた。
よく似た別人なのか?
戸惑った私を庇うように、彼と私の間に小さな背中が割って入った。
「見んなよ、八代。父上に用事があるなら、奥にいる。用を済ませて、さっさと出て行け」
「へーい、へいっと。仰せのままに、若君」
侮りを隠しもせず、八代は酔っ払ったような千鳥足で私たちの横を通り過ぎていく。
すれ違いざま、言った。私に、ではなく、月丸に。
「あの方が大切にしているから立てもするけど、さっさと出て行ってよね、人間風情が」
憎悪の欠片もないのが、逆に怖い。
けれど、月丸の背は小揺るぎもしなかった。
慣れている、と言いたげに。
――――つまり、こういうことか。
月丸は、認められていないのだ。
そこに触れることは、気位の高い彼には痛いことだろう。
私は何も気付かないふりで、立ち上がりながら尋ねた。
「あの方は、八代様、と仰るのですか」
名前も同じとは。
不可思議な一致だが、私が許せない八代は隻眼だ。同一人物ではあり得ない。
考え込む私を、月丸はぎょっと見上げた。おろおろと手を上下して、言う。
「凛は、あ、ああいうのが、好きなのか?」
「え?いえ、好きというか…知り合いに、似ていたものですから」
言えば、月丸は安堵したように霊笛を両手で握り締めた。
「そ、そうか!うん、あの男は、よくないぞ。恋人をとっかえひっかえ…凛だって、浮気者は嫌いだろう。不誠実だ」
「ええ、…イヤですね。誰かが大事な人の身体に触れたのかと思うと、かなしくなります」
苦笑気味に言いながら、ふと、顔が曇る。
史郎のことを、思い出したからだ。
彼が、どのような誠意の見せ方をしたのか。
誠実であるのが一番だが、それも過ぎれば痛みに変わるとあの時思い知らされた。
そう思ったとき、私はいったい、どんな顔をしていたのだろう。
月丸が、ぐいと私の手を引いた。
見下ろせば、月丸は、どこか懸命に笑った。
「凛を泣かせるやつがいたら、俺が許さないから安心しろ!」
そんなことを言われたのははじめてで、私は目を見張る。
私に向けられる言葉には、いつも身構えることが必要で、でも、月丸の言葉には、ひとつもそんな警戒が必要なかった。
だから私は、
「ありがとうございます」
嬉しくてたまらなくなって、月丸を困らせてしまうというのに、少し泣いた。