第三章(1)
三章は場面転換しますが、四章から二章の続きにリンクいたしますので、気長にお付き合いいただけるとありがたいです。
チャプ、ン。
耳元でした水が跳ねる音に、私はうっすら目を開けた。
見慣れない天井が目に映る。
障子越しの白いひかりに照らされ、木目までいやにくっきり見えた。
生まれ育った離れではない。
さりとて、数日過ごした史郎の屋敷の部屋でもない。
ここはどこだ、と思う前に、自分の記憶をたどりかけた私は、額に乗った冷えた感触に、目を瞬かせた。
動く、と言うことを確かめるように、私はゆっくり眼球を動かす。
顔を傾け、部屋を視線で斜めに横切ったとき、
「おや、お目覚めですか」
二十代半ばほどの青年が、私を覗き込んだ。
その声に、ボンヤリとした顔しか返せなかったのは、その人が、あまりに人間離れして見えたからだ。
造作、と言う点では、ごく平凡なのだが、まとう空気が濃厚な清水のようだ。
私は、神韻漂う大樹を連想した。
私を覗き込んだのは、そういった、穏やかさと荘厳さで構成された人だった。
ずる、と額から何かが滑る感触に手を伸ばせば、濡れた手拭いが指先に触れた。
その冷えた感触に、弾かれた気分で身を起こす。
何か、大変なことを忘れている気がした。
跳ね起きるなり、頭が割れるように痛んだ。
生理的な涙が、目の端に浮かぶ。
引き攣った身体を夜具に倒した私の頭上から、慌て、困惑した声が降ってきた。
「なりませんよ、急に起き上がっては。全身打ち身とすり傷だらけで、ひどい状態だったのですから」
「…打ち身?」
身体中、骨が砕けそうな痛みがあって、私は呼吸一つにも苦労しながらわずかに顔を動かし、彼を見遣る。
やさしそうな彼は目を見張り、かなしげに微笑んだ。
「覚えて、いらっしゃらないのですか?何も?」
「…私?私、は」
導かれるみたいに呟くなり、息を詰めた。
頭が傷む。
頭蓋が割れそうだ。
だが。
思い出した。
そうだ、私は。
八代に、追われて。
逃げて。
けれど。
思い出した、ところで。
目覚めたその場に、史郎がいないということは。
「ここ、は。穂鷹山の…?」
「ええ、山裾です。よかった、いた場所は覚えているのですね。アナタは、この屋敷の近くに倒れていたのですよ」
思い遣り深い声に、私は唇を噛み締めた。
堪えよう、と思ったが、できない。
目元が熱くなった、と思った時は手遅れだった。
ぼろぼろ、涙が溢れる。
涙腺が決壊したみたいに止まらなくなった。
慌てて顔を夜具に押し付け、肩の震えを堪える。
史郎は私を放り出したのだ。
知りたくないことを悟ってしまった。
それは、仕方ない。
仕方ない。
だから。
泣くな。
ふ、と相手の言葉が止まった。
しばし、考えるように沈黙し、しずかに言う。
「どうやら、大変な目に遭われたようですね。身体と心が癒えるまで、好きなだけ、静養なされるといい」
立ち上がる気配。同時に、
「父上。ちょっと、いい、か」
襖が開いた。
びく、とわずかに顔を上げると、目を丸くした少年と目が合う。
驚いた目に、すぐ怒りを湛え、彼は青年を見上げた。
「何してんだよ、泣かすなよ」
「あー、はい、すみません。とりあえず、そっとしておいてあげましょう」
膨れた少年には、どういうわけか、見覚えがある気がした。
初対面の、はずだが。
思うなり、記憶の片隅から、薄暗い光景が、水面に揺れるみたいに立ち昇る。
そのとき、私は苦しくて、身動きもできないでいた。
身体が火照っているのに、寒い。
自分の荒い呼気が頭蓋の中で忙しなく反響するのが、どこか現実から遠かった。
私はいったいどうなったんだろう?
思う端から、思考が千切れていく。
いる場所がどこなのか、どうしてこれだけ苦しいのか、考える力すらない。
意識の片隅で、嗚咽を聞いたのは、そのときだ。
浅く息を繰り返し、霞む目で音源を探す。と。
小さな横顔が、目に映った。
少年だ。
まだふっくらした頬が強張り、唇を噛み締めている。
憎むような苛烈な視線で、手元の笛を貫いていた。
喚きたい衝動を、必死に飲み下し、押し殺す横顔は、痛々しい。
思うなり、声を出していた。
「…なにを、我慢しているの…?」
少年は、弾かれたように顔を上げる。
潤んだ目が、私に向いた。
その双眸が満月色であることに、私は不思議と泣きたくなる。
「我慢しなくても、いいの。ほしいものは、なに?」
思わぬほど声が掠れて力ないのがもどかしく、私は視線を必死に捕らえ、懸命に言った。
言いながら、思う。
なんだ、これは、史郎が私に言ってくれた言葉ではないか。
思って、やさしいような苦いような微笑みが浮かぶ。
だが、息を呑んだ少年は、悔しげに俯く。
自己嫌悪がその顔を掠めるなり、パッと部屋を飛び出していった。
襖が閉じられるのを、私はじっと見送る。
なぜか無性に、かなしかった。
さびしかった。
つらかった。
つらいと感じるのは、見覚えがないはずの少年に記憶の中重なる面影を見たからだ。
満月色の双眸。
それが、史郎と重なる。
彼がそこにいないかなしさを抱いたまま、私の意識は沈んでいった。
そうだ、あれは確かに、この少年だった。
おそらく、穂鷹山で私が気を失い、ここに運び込まれたばかりの時だろう。
運び、こまれた?
そこまで考えて、ようやく状況を悟る。
彼らは、私を助けてくれたのだ。
「あ、ありが、とう。助けて、くれて」
部屋を出て行こうとする背中に、私は声を詰まらせながら、礼を口にした。
振り向いた二人に、顔を拭いながら名乗る。
「私は、凛、です」
すぐに、彼を信じきることなどできないが、命の恩義がある以上、名乗ることは最低限の礼儀だと思った。
名乗りながらも警戒を解かない私を、面白そうに見遣り、青年は言った。
「きれいな名前ですね」
「え」
面食らった私を尻目に、少年が、べちん、と青年の腕を叩く。
「いきなり口説くなよ、父上」
「分かっていますよ。ええと、凛さん、わたしは貴也と言います。そして、こっちが月丸。以後、よろしくお願いします」
彼らが出て行くのを見送るなり、私は気を失うように眠りについた。
読んでくださった方、ありがとうございました!