第二章(4)
私は戸惑った。
気遣われることに慣れていないせいか、嬉しいともかなしいとも思わない。
どう思うかと尋ねられたら、不思議な気分だと答えるしかない。
なぜそんなことを気にするのか分からないから、どう反応すればいいのか、分からないのだ。
結局、先ほどのように、何もなかったことにするのが一番いい。
それよりも、ひとつ、気になることがあった。
「体調がお悪いのですか?」
そのような兆候はなかったが、私が見過ごしただけかもしれない。
そう、人間でないがゆえの、変調を。
いきなりあんなふうに吐くなど、尋常でなかった。
史郎は言いにくそうに声を低める。
「あー…、違ぇ。クソッ、そうだな。みっともねえ話で言いたくねえが」
「いえ、無理にとは」
地を這う声に、私は焦った。
言い方を間違ったと思ったのだ。
これでは、理由を話さなければ先ほど突き飛ばしたことを許さない、と言っているようではないか。
だが史郎は、私の反応に逆に肝が据わったらしく、ぴしゃりと言った。
「むしろ、聞け」
命令形に変われば、はい、と頷く以外にない。
開き直った史郎はあっさりそれを口にした。
「あのいやな野郎は八代つってな。千年前、俺が惚れた女を殺した男だ」
聞くなり、私は後悔する。
聞かねばよかった。
ちくりと胸に棘が刺さる。
嫌な話をさせた。
史郎に対して申し訳ない、と思う以外にも、冬の大気に肌が切れるようなあの痛みに似たものが、心の片隅に生まれる。
本能的に、私はそこから目を逸らした。
「さっき吐いちまったのはたぶん、昔、女を救えなかったことを思い出したからだ。そのせいで心がだめになってるらしい」
「そう、…です、か」
ここで謝るのは違う気がして、曖昧に頷く。
胸がもやもやした。
そこまで想える何かがあることが羨ましいと思う。
それとも、想われる方が羨ましいのだろうか?
蜘蛛の巣のようにからみつく思考を、頭を振って振り払い、私は平静を装って尋ねた。
「もうおやすみになられますか?」
「ん?…ああ、そうだな。いや、まだしばらく起きとく」
衣擦れの音がやんだのを見計らって、私は振り向く。
「では、やはり火を入れましょう。それから、夜具の準備をいたします」
「頼む」
こういう、遠慮なく悪びれないところには、人を使うことに慣れていると感じる。
部屋に上がり、灯明皿の油を確認して、私は芯に火を灯した。
ゆら、と橙のひかりが揺れ、部屋の輪郭を闇に浮かび上がらせる。
鼻先に油のにおいを感じながら、私は尋ねた。
「あの八代様は、いったいどのようなお方なのですか?」
「アァン?」
たちまち、浮いた青筋が見えそうな、不機嫌な声が返る。
振り向けば、灯火のひかりを吸い込むような史郎の目が、怒りにぬらりとかがやいた。
「凛はああいうのが好みか」
「こ…、ちっ、違います!」
言われた意味を正確に理解して、焦った私は言い足す。
「村での婚姻の夜、私が森へ逃げたとき、あの方と一度お会いしてるんです」
「…んだって?」
「八代様は、頭巾を被った、年配の…身分あるお方と話していて…」
遠い記憶の向こうから、眼前にあった命の危機に押しやられて、忘れ去っていた会話が木霊みたいに返ってきた。
私は目を見開く。
忘れていた。
そうだ、彼らは。
「穂鷹公を害する算段をしているようでした」
蒼白になって、私は史郎を縋るように見上げた。
そうだ、あの会話にはまさしく、史郎に向かう害意がある。
史郎が傷つけられようとしている?
それは、私自身に向けられた悪意より、恐ろしかった。
史郎は乱暴に頭をかく。
「おいおい、待てよ。まず、な。八代が俺を殺したがってんのは、昔からだ」
「お話からするとそのようですが、人と手を組んだのなら、また、事情が違ってくるのではないでしょうか」
「相手が身分あるお方とかだったとしても、ヤツが人間と手を組むなんて有り得ねえ。八代は人間嫌いだぜ。なにせ、アイツの片目奪ったのは人間の女だしな」
どこか誇らしげに痛快に、史郎は皮肉な笑みを見せた。
それがなぜか、私を頑なにする。
誰のことを言っているか、わかったせいだ。
正座した腿の上で、ぎゅっと着物を握りこみ、俯いた。
「八代様の相手が人間だったことが、逆に気になります。よもや、結水の跡取り争いで、人外の者を巻き込む算段をする者がいるのでは…」
「落ち着けよ。なんでそうなる」
史郎は、大きく息を吐き、どっかと尻を落とす。
私の前で胡坐をかいた。
ありありと面倒そうな表情だが、無視はしない辺り、やはり人がいい。
私は気のない史郎を真剣に会話と向き合せるために、生真面目な声で言う。
「人外の世の乱れは、人間の世の乱れとなります。逆もまた、然り」
記憶を手繰るように、史郎はこめかみを叩いた。
「待てよ、ちょっと状況が掴めねえんだが。結水の跡取り争いってのは…確か、結水領は今、領主が病の床についてたよな。跡目はまだ決まってない。長男は血気盛んで荒くれどもに人望はあるが残忍非道、次男坊は聡明で心優しく智に優れるが妾腹の子、だったか」
私は頷いた。
結水家の、古参の重臣たちは、次男の悠斗を推すものが多い。
ただし、長子相続が世の常である。
このため、結水の領地は、他国から狙われれば最後ではないかと思うほど、荒れていた。
ゆえに、早々に決着を、と望む声が高い。
事態は切迫していた。
「私が聞いた会話は、二言、三言だけです。ですが、穂鷹公を殺せ、と頭巾の男ははっきり言いました。…それが、悠斗様のためになると」
口にすることで、不安が増幅していく。
それを聞いたとき思ったものだが、
「なんだそりゃ?なんで、俺を殺すことが、結水の次男坊のためになんだよ」
そこが、分からない。
呆気に取られた史郎に、私も首を傾げるしかないが、理解できないことがまた、不吉に拍車をかける。
追いつめられた気分で私は口走った。
「悠斗様が、そのようなことをお考えになるはずがありません。あの方は、そんな禁忌を想像すらされないでしょう。ともすると、重臣の誰かが、勝手に暴走しているのかもしれません」
そのようなことを口にした己に、私は絶句した。
高貴な方々の思惑を勝手にでっちあげて口にするなど。
想像すること事態、とんでもなく恐れ多く、はしたないことだ。
自身を罰するように強く口元を押さえた私に、史郎は目を細めた。
ただでさえ鋭い眼光が破壊力を増し、肌が切れるかと思う。
「ふぅん…いやに庇うな。悠斗、ね。個人的な知り合いみたいな言い方するが、そうなのか?そういや、霊笛の村にも結水の名代が何度か視察にきてんな。名代は次男坊か」
物言いから、私は史郎の不快を察したが、何が気に食わないのか分からない。
私は史郎の顔色を伺いながら、ぎこちなく頷く。
「…はい。幾度か、お世話させていただきました。勿体無いことに、私のようなものまで気にかけてくださる、お優しい方です」
悠斗の笑顔を思い出し、胸が痛んだ。
あの笑顔が、このような策謀で曇ってほしくはないのに。
自然と眉根が寄る。
「お気の毒です。謀などと、もっとも縁遠い方であるのに」
「――――へぇ。お世話、ね。なんの世話なんだか」
「史郎様」
顔を上げ、私は絶句した。
胸を突かれ、言葉を失う。
怒るべきなのだろうか。
そのように見られることは、屈辱だと。
だが私は、強張ったまま何も言えなかった。
私は史郎相手に、そのような言動を取ったし、怒れるような立場でもない。
次第に項垂れた私に、史郎は苛立ちを隠さず舌打ちした。
「宗家の娘が、何やらされてんだよ」
「霊笛が吹けない私は、その程度しか、村の役に立てませんから」
なんと言われようと、それが事実だ。
私の存在理由は、それしかなかった。
次の瞬間、知らず、私の肩が跳ねる。
史郎から、獰猛な鬼気が吹き付けたからだ。
血の気が下がる。
顔を上げられない。
今度は何が、史郎の勘気に触れたのか。
確かに感じる史郎の視線に、息をするのすら憚られ、私は固く唇を引き結んだ。
不意に、史郎が呟く。
「…たまに強気なくせに、なんで、こういうとこで…」
殴りつけるような威圧に反し、痛々しい声だ。
「凛、お前、なにそんなに我慢してんだ」
何かを振り切る沈黙の後、史郎は、子供を諭すように言った。
我慢?
私は、しずかに瞬きした。
史郎がなにを言っているのか分からない。
耐えるようなことなど、何もないのだ。
私の疑念に気付いたか、史郎は、ああ、とやるせない声を出した。
「かなしいくらい、真っ白なんだな。そういうとこも、似てる気がする。もう、すっかり忘れちまったと思ってたのに、…お前を見ていると思い出す」
ぎくり、と身が竦んだのは、頬に、史郎の手が伸びたから、ばかりではない。
似ている、と言われたからだ。
おそらく今、史郎は遠い目をしている。
記憶の中の面影を、私にうつして。
思うなり、史郎への恐怖が吹き飛んだ。
代わりに、じわり、といやなものが心ににじみ、他の一切を驚くような速さで侵食していく。
私は、真っ白なんかじゃない。ほら、似てなんか、いない。
なんだか、息をするのがますます苦しくなっていく。
今、私の胸にあるものは、不要、役立たず、と言われる以上に、顔を背けるべきものなのではないだろうか。
頬には、史郎の温かい掌。
不意に声を上げて泣きたくなった。
離れようとした矢先。
「我慢しすぎてると、自分がしたいことが何か、分からなくなるぜ」
思わぬほどやさしい声が、耳朶を撫でた。
力が抜ける。
離れたくない、と思ってしまった。
史郎は何か思いついたように、いつもの調子で尋ねてくる。
「そうだ、凛。ほしいもんはねえか。言ってみな」
そのとき、私はなにを思ったろう。
たぶん、何も考えていなかった。
やさしく誘う史郎の声が、自然と答えを引きずり出したのだ。
私の口が開く。
知らぬ間に、声が、こぼれた。
「―――――アナタを、ください」
目を見張った史郎に、一瞬、なにをそんなに驚くのかと私のほうが驚く。
すぐさま、愕然とした。
私がなにを言ったのか、ようやく自覚したのだ。
気付けば、転がるように部屋を飛び出していた。
後悔が、うねる波みたいに、私を突き動かす。
私は闇に逃げ込んだ。
言ってはならないことを言った。
史郎が誰のものかなんて、出会ったときから一目瞭然だったのに。
それなのに。
いや、それ以前に、自分から望むなんて、ほしがるなんて。
許されない。
しかも、相手は史郎。北王。
身の程知らずも甚だしい。
皮膚が粟立った。
ちゃんとひかりに照らされた道を歩いていたはずなのに、自ら脇道へ迷い込んでいった気分だ。
心の中にも現実と同じで、先には闇しかなく、どうすればいいのか分からない。
木に肩からぶつかって、駆けるのをやめた。
よろめきながら歩き出す。
草履を履いていないことに気付き、祝言の夜も似たような状態だったと、どうでもいいことを思い出した。
無意識に手を上げ、頬をこすった動きに、私は顔が濡れていることに気付く。
涙だ。私は、泣いていた。
――――ああ。
ぽつん、と雨が一滴落ちてくるみたいに、自覚する。
私は、史郎が好きなのだ。
罪のように、それを噛み締めた瞬間。
あ、と声が出た。
気付けば、背に衝撃が走り、土を掴むように倒れこんでいた。
四つん這いで振り向けば、三つの赤い光点が目に映る。
それが、ぬらりとひかった。
油のように。
そこには、欲があった。食欲だ。
紛れもなく、私を見下ろしている。
恐怖するどころか、何が起こっているのかさえ理解できない私の全身を、濡れた異臭が撫でた。
とたん。
ドンッ!
落雷めいた衝撃が、腹の底を貫く。
だが、地揺れや、倒木の気配はない。代わりに。
怒声のような思念が、脳裏に直接響いた。
―――――その女に手を出すな。
直後、赤い光点と欲望の渦が、煙みたいに消え失せた。
ところが、安堵するには早かった。
周囲の、大地と、木々と、大気にまで、ぱちり、と瞬きする目が無数に開いたような、異様な気配を感じる。
私が身を震わせるなり、
―――――凛。戻れ。
思念が、怒鳴るように命じた。
史郎だ。
彼は、この穂鷹山の主である。
山全体を把握することなど、容易いだろう。
そして、ひどく怒っている。
私は竦んだ。けれど。
「なりません」
どことも知れない方向へ叫び、前のめりに立ち上がると、来た方とは逆へ歩き始める。
史郎の怒りは怖かった。
それ以上に、自分勝手な言葉を吐き出しそうな私自身が怖かった。
今戻れば、また何を口走るか分からない。
私の答えに、舌打ちしそうになった史郎の気配が突如、切迫感に震えた。
その思念が、言葉より先に伝えてきた光景に、私は目の前の木に縋るように振り向く。
「あーあー、折角、忠告したげたってのになぁ」
つまらなそうに、岩に腰掛けていたのは、八代だ。
隻眼に浮かぶ、嬲るような殺意に、私は全身が鉄みたいに固まったのを自覚した。
動けない。
「台無しにしちゃってさ。アンタ、莫迦?それともなに、誘ってるの?殺してって。いや、それとも、旦那と喧嘩した?」
くすくす笑いながら近寄られ、見えない壁に押されたみたいに、私は駆け出す。
逃げなければ。
彼は、本気だ。
けれど、闇の中、木々を避けて進まねばならず、逃げるといっても遅々として、気ばかり逸る。
そんな中でも、慎重に地形だけは脳裏で辿っていた。
この数日、幾度か外出した折に、樹木の生え方や斜面の具合など、頭の中に叩き込んでいたのだ。
だからある程度、自分がどこにいるのか分かった。
肩を掴まれそうな気配に、慌てて屈みこむ。
手が地面に届いた拍子に土を掴み、死に物狂いで後ろに投げた。
舌打ちして、避ける気配。
その間に、距離を稼ぐ。
いつでも捕まえられる位置にいながら、八代は私を捕らえない。
嬲るように、後ろをついてくるだけ。
息が上がる。
焦燥感に、ちりちりと皮膚が焼けた。
だが、必死なあまり、恐怖も怯えも薄れてくる。
代わりにわき上がったのは、挑戦心だ。
八代は、史郎を殺そうとしている。
その理由にまで踏み入るつもりはないが、ひとつだけ、聞かねばならないことがあった。
「アナタが、この間会っていた頭巾の男の人は誰ですか。何を、話し合っていたんです」
逃げる姿と挑戦的な言葉の相違が滑稽だったのか、八代は低く笑った。
「あれ?いやだな、見てたの?…いいよ、教えてあげる」
八代はやさしげな声を出す。
「彼はね、こう言ったよ。まず、暁彦を後腐れなく殺すために、どうすればいいかを考えた、とね」
声が、鼓膜に粘りつくみたいだ。
八代は、誰かの真似をするみたいに浮ついた物言いをした。
「そのために、人外の者たちを使おうと思う。お題目はこうだ。乱心した暁彦が、穂鷹公をその手にかけた。こう噂を流せば、実際には、依頼したのがワシだろうと、人々は噂のほうを信じる。誰の目にも、暁彦の日ごろの行状は常軌を逸して映っている。暁彦のせいで穂鷹公が傷つけられたなら、人外どもは躍起になって彼を殺そうとするだろう、ワシが手を下すまでもない」
得意げにおかしそうに、語尾が震えた、と思うなり、八代はがらりと語調を変える。
「…って。面白いこと考えるよね、人間って」
「そう言った人の、名前は」
「波多野武人」
私の息が、一瞬、詰まる。
八代が、目敏く反応した。
「そうだよ、結水の次男坊の伯父上だ。どうあっても、甥っ子を後継者にしたいらしいよ」
「…なんで、そんなに話してくれるんですか」
明らかに、八代は喋りすぎている。
その意図は、どう考えても愉快なものでなかった。
八代は一瞬沈黙し、
「絶望してほしいから」
笑顔を消さず、私に詰め寄った。
気付いたときには、私の喉首に彼の手がかかっている。
が、八代が私に絶望させるために嬲る時間をかけたのなら、私とて、無駄に時間稼ぎをしたわけではない。
八代が、私を完全に掴み切る直前。
私は軽く地面を蹴った。
八代の腕を避けることなく、逆に掴み、引き寄せる。
ここから先は、急な斜面になっていた。その真下には。
―――――あそこ。あそこには、近付いたらダメだからね。死ぬよ。
青柳伯がそう言った、あの、凝った闇が広がっている。
夜闇にまぎれ、人間の私には見えないが、人外の八代には感じるものがあるのだろう。
先ほどと違って、切羽詰った声を上げた。
「おい、てめえ、まさか」
「心中してあげます」
既に斜面を半ばずり落ちた状態で、私はしずかに宣言した。
声の底には、紛れもない、八代への憎悪がある。
私は彼が許せなかった。
私に対する態度など、どうでもいいが、史郎を殺そうとすることだけは許せない。
彼にも言い分があるだろう。
私は、彼らの確執の理由を知らない。
けれど、そんなことは知っていようといまいと関係なかった。
史郎への殺意だけで十分、憎悪するに値する。
憎悪の強さは、史郎への好意の深さと同等だ。
どうやら私の中では、史郎が中心の価値観があって、彼への敵対者には決して寛容になれないらしい。
なんて、両極端な。
「…っ冗談じゃない!」
八代の叫びと、私の眼裏に火花が散ったのは、同時だった。
後頭部を蹴られた、と思ったときには、私の意識は闇に沈んでいた。
遠くに、史郎の声を聴いた気がしたが。
単なる願望だったかもしれない。
読んでくださった方、ありがとうございました!