第四章(6)
酷く頼りない、弱い声だ。肝心の、時に。
もっと、強い確約をあげられないものだろうか。情けなくて落ち込んだ。とたん。
開けた目に、天井が映った。
首を巡らせかけ、―――――頭の重さに断念。目だけをゆっくり動かした。周囲には、誰もいない。
障子を通して、茜色が畳に落ちていた。もう、夕刻だ。
軽く咳をしながら、ゆっくり起き上がった。
―――――ピッ。
枕元を見れば、豆乃丞が短く鳴く。
大丈夫? と言いたげに小首を傾げる豆乃丞の隣に、豊音―――――霊笛が見えた。
豆乃丞に頷き、習慣の動きで豊音を取り上げる。帯に挟もうとしたところで、気づく。寝間着だ。
そう言えば、意識の端で、蛍が手際よく着替えさせてくれたことを思い出す。
子供の面倒やら老人の介護に慣れた手つきだった。
手間をかけさせてしまった。深く反省。
いったい、あとどれくらい体力をつければ、迂闊に意識不明やら身体を動かせないやらいう事態にはならずに済むだろうか。
すぐ枕元に用意してあった水差しに気付き、ありがたく、伏せてあった湯飲みで一気に二杯煽った。
おそらく、ここは玄丸の屋敷だろうが。
私は布団を上げ、用意してくれていた着物に袖を通す。帯を締めれば、気分がしゃんとした。
霊笛を帯にさす。
準備が整ったところで、飛んだ豆乃丞が、肩口に止まって落ち着いた。
まだ体の芯が重い。だが、動けないことはなかった。
史郎は、夕刻になったら古戦場へ、と言ったが、そもそもこの屋敷は南方のどのあたりだろうか。
もはや、史郎の言葉だけではなく、南方の古戦場跡へ行く理由が、私にはできてしまっている。
早くいかなければ。気持ちがそわそわと落ち着かない。とはいえ。
急いても仕方がない。闇雲に飛び出し、逆方向に走っては目も当てられない。
少し落ち着こう。
よっこらせ、と畳の上に正座した。少し動いただけだが、はや、少々疲れている。
弱っているのは、本当だろう。あの、やけっぱちの行動の代償は大きかった。自業自得である。
後悔しても取り返しはつかない。目の前のことに集中しなければ。
いつもすっと静まる頭の中で、騒がしい雑念が、落ち着くのを待つ。と。
「はぁーあ、どぅしよぉ~…」
緩い弱音と同時に、障子が開け放たれた。すぱん、足で。
顔を上げれば、お盆を両手に持って廊下側に少女が立っているのが見えた。
高い位置で結い上げた、癖のある、赤い髪。目鼻立ちのはっきりした顔立ち。
彼女は、呆気に取られた顔で私を見返す。
「えっ? …あぁ!」
障子を開くために踏み出していた足を引っ込め、膝をそろえ、
「め、目が覚めてたんだねぇ! 呼んでくれたらよかったのにっ」
賑やかに焦った声を上げたのは、蛍だ。日焼けした頬が、うっすらと赤く染まっている。
そそくさと部屋に入り、お盆を畳の上に置いて、今度は膝をついて両手で障子をしずしず閉めた。
向こうを向いたまま、一言。
「見た?」
「はぁ」
なんとも答えようがない。あいまいに頷く。蛍は、後ろから見ても分かるほど耳を真っ赤にして、
「取締役には言わないでおくれよ…説教長くってさ…」
日頃の小気味良さが嘘のような、童めいた態度だ。もちろん、告げ口などしない。
行儀を気にしすぎて窮屈そうな様子は、蛍には似合わないだろう。
はい、頷いたものの、こちらを振り向いた蛍は、らしくなく落ち込んだ表情だ。
お盆の上には、水を張った小さな盥と、手拭いがあった。
「使って」
どこかしょんぼりと、蛍。首を傾げながら、私。
「助かります」
手を差し込めば、井戸からくみ上げたばかりなのか、水がひやりと心地よかった。
手拭いを絞る合間にも、気もそぞろといった様子で、蛍はため息。
とはいえ、理由など聞けるはずもない。相談役など、私には重荷だ。
商人相手の適切な助言など、こうして向かい合っていても何一つ思いつかない。
第一、蛍のようなしっかりした少女が、私みたいに頼りない人間に悩み事を打ち明けるはずもなかった。
重苦しい、栓が詰まったような空気を醸し出す蛍の前で、開き直った私は逆に気楽な心地で遠慮なく寝起きの顔を拭う。少し、さっぱりした。
やはり、南方の暑さは堪える。
「あのさ、凜さんは聞いてたかい?」
悩み事の気配を隠す気もない蛍の、少し上ずった問いかけに、私はめをぱちぱち。
何事かと顔を上げれば、正座ではなく、膝を抱え、蛍は視線を横へ流した。
言いにくそうに、ぼそぼそ。
「取締役が、あと数日もしたら南方から去るって言うんだ」
つい、私は動きを止めてしまった。…初耳だ。
確かに、いちいち、すべて、報告を受けるような間柄でもないし、玄丸は、一人で決め、一人で実行する類の男だ。
八重のように、すべてお見通し、と鷹揚に笑っていられない私が、単に未熟なのだろう。
私に目を戻した蛍が、ずいと身を乗り出した。
「しかも、その役を、あたしに譲るって言うんだ」
彼女の、途方に暮れた顔を、私は黙って見返す。
とたん、合点した表情で、蛍。
「ああ、凜さんは、驚かないんだね。元から取締役とは知り合いみたいだから、考えは読めるのかな」
いや、驚きすぎて、表情が動いていないだけだ。とはいえ。
なるほど。
私は蛍をまじまじ。玄丸の決め事に、すとん、と納得が胸に落ちた。
確かに、相応しい。蛍は、取締の役に。
目配りが効き、情に厚い。快活で、肝っ玉もあり、間違ったことが嫌いだ。そういうところは時に危なっかしいが、情に流されるだけでない行動をとることもできる。
ただ、心配なのは。
年若く、女性であること。
彼女自身に、何の不満も私はない。ただ、ここで問題なのは、私ではなかった。
他の、商人たちだ。彼らは何というか。
「だったら、もう少し、前振りをしといてくれって言ってくれないかい? こんなに急だと、あたしだって混乱する。あたしだけじゃない…みんなさ!」
最後は逆ギレめいた怒りに満ちた声で告げ、直後、全身が萎むような深いため息がこぼれる。
「どおぉしよおぅ…」
そこからその言葉につながるのか。
確かに進退極まる状況だ。
聡い彼女のことだ、私が思いつく程度のこと、想像できないわけがない。困ったことだ。
他人事として思うなり、重要なことに気付いた。
まさか私は今、悩み事の相談を受けているのだろうか。
内心、どっと冷や汗が噴き出る。蛍の悩みは当然と思うが、相談する相手を間違っている。
ああ、いや。
私は思い違いだ、と自分に言い聞かせた。
別に蛍は、ゆえにどうしたらいいだろうか、などとは言っていない。
蛍とて、よくわかっているはずだ。私に助言役など務まらない。
商売をしたこともないのだ。商人たちの腹積もりなど見通せるわけがなかった。
それでも私に愚痴ってしまうほどには、蛍はちょっと追い詰められているのだろう。
早々に、役に立とうという意識を私は投げて、
「玄丸は、去ると言ったら去りますよ」
まぁこれだけは確実だろうな、と思うことを口にした。
「…追い詰めないでおくれ…」
そんなつもりはなかったのだが。蛍がますます沈む。
そうは言っても、玄丸が去るのは確実である以上、早急に手は打たねばならない。
とはいえ、私は玄丸が今のところどこまで南方にその存在を示しているのか、立ち位置がよく分からない。感じるところはあるものの。では。
玄丸が南方で取締役になったのは、いつだった? 私は首をかしげた。
「そもそも、玄丸が真珠通りの取締役に就いたのは、いつです?」
玄丸は、取締役に就任して、まだ日が浅いはずだ。
西方の戦が終わる、いざこざの中で有耶無耶のうちに、玄丸はこの権利を手にした。
どこで、手に入れたか。…考えれば、気が重くなるが。
彼にとってみれば、面倒ごとを片付けるついでに手にした、それは、偶然の産物だ。
ただし、玄丸のことだ。有用と見れば、迷わない。即座に、権利を行使したはず。
過去を見る目になった蛍の答えは、私の認識と食い違いはなかった。
「いつって、…まぁ、つい最近だよ。権利を買い取ったんだとかなんとか」
でもずっといた気がするねえ、と蛍はしみじみ。
玄丸に少し呆れた。権利を買い取った、などと、素直に告げたのか。
実力を特別に前任者に買われて、などと言った方がきれいに収まった気もする。
これは、最初から、立場を守る気がないのは、透けて見えていた。
だいたい、玄丸の目的ははっきりしていたのだ。
―――――起こってしまった西の戦、その揺り返しが起こるだろうこの南方に、黒蜜が目をつけると見越して、南方で動きやすくなる地盤を作る目的で、取締役に就いた。
玄丸にとって、取締役という権利は、ただの道具。コトは終わった。もう用済みだ。
だがそれで、何も言わずに立ち去るような不義理をせず、一応、後継を考えて指名し、ある程度の引継ぎはして去ろうとするあたりが、彼の律儀なところであり、…まぁ、大人とはこういうことだろう。
本人はきっと最初から、つなぎのつもりで役についたのだ。
玄丸のことだ、真面目に仕事はこなしていたろうが、いずれ離れる、と察していた者はそれなりにいたはずだ。
商人たちの会議で感じた玄丸への反感は、そういったところから来ていたようにも思える。
あれは、一時の腰掛でしかない部外者が、内部のことに口出しするな、という空気。
「そのような態度では、結束の固い南方商人に受け入れられていなかったのではないのですか?」
確認のために聞けば、蛍は苦い顔になる。
「結束が固い、か。そうだね、いい意味でも、悪い意味でも…けど、そんなの気にすることじゃないよ。取締役は実力があるんだ。すぐ、認められる。たとえ雪鳥衆出身でも」
雪鳥衆出身、というところに、妙な含みを感じた。今は流して、玄丸のことに言及する。
「それでも表面上はうまく回していた…あなたのように慕う者もいるのですから、玄丸の手腕は本物です」
素直に頭が下がった。だがそこが小面憎いと感じるものもいるはずだ。
なんとはなしに、玄丸のことをつらつら挙げていくうちに、気づいた。
「…なにも、」
私は、蛍に目を戻す。
「蛍さんが、玄丸のようにしようとしなくても、よろしいのでは?」
蛍が、言葉に詰まった。唇をへの字に引き結ぶ。
気分を変えるように、その場でいきなり、胡坐をかいた。
「取締役みたいにできる、なんて、あたしは増長してるわけじゃないんだ。ただ」
唇を尖らせ、俯いてしまう。
足りないのは、―――――自信、だろうか? なにより、取締役ともなれば、自分一人がよければ構わない、という態度では回せない。
下のものに配慮しなければならないし、他の取締役との折衝もあるだろう。
簡単な話ではなかった。
心地いいとは言えない環境で、玄丸はそれをやり遂げ、自身の目的まで達成したわけだ。そんな相手が前任者ともなれば、気も重くなる。
「蛍さんは、玄丸を尊敬しているのですね」
「そりゃそうさ」
隠しも照れもせず、蛍は大きく頷いた。
「その商人としての手腕もさることながら、さ。結果として、あの方は瓦解しそうになった南方商人たちの結束を守って新生させたんだ。まだ先があるけど…これだけの難局が乗り越えられようとしている今から見れば、これから起こる問題は問題のうちに入らないんじゃないかな」
「ならば信用もなさっているのでしょう」
当然と胸を張った蛍に、私は。
「その玄丸が、選んだのです。蛍さんを」
えい、と。…踏み込んでみた。
蛍は一瞬、面食らった顔になる。次いで、バツが悪そうな表情を浮かべた。
とはいえ、私に言えるのはここまでだ。
偉そうな説教ができる性格でもなければ、立場でもない。いや、小春あたりならここで小言が飛んできそうだ。
あなたはそういう立場ですが、と。
正直なところ、これ以上言葉を重ねても、ウソ臭くなりそうな感覚があった。
上面の言葉は、深みまで届かない。ならば、ここまで。
私は頭を切り替え、別の話題を口にした。
「…お聞きしても、よろしいですか?」
目を上げた蛍に、私はおそるおそる問いかける。
「先ほど、雪鳥衆に含みがありそうな発言がありましたけど」
「ああ、あれかい?」
蛍も自身の悩みにはそれ以上こだわらず、いつも通りの態度で応じてくれる。心持ち、声を潜めて。
「雪鳥衆は人外に関わってるんだよ。商人たちの公然の秘密さ」
私は内心、言葉を失う。
雪鳥衆は、商人たちの世界の中でも、絶対に無視できない勢力を誇る組織だ。旅商人たちは安全のため、必ずそこに名を登録すると言う。
雪鳥衆の手形を持っていれば、どういう仕組みかは分からないが、獣に襲われる危険が格段に減ると聞いていた。
「雪鳥衆の手形は、獣のみならず、人外にも威力を発揮する。持ってたから命拾いしたって商人も多いんだよ。…だからいつからか、まことしやかにささやかれ始めたのさ。雪鳥衆は人外と協力関係にあるってね」
関所を通る際にも、雪鳥衆の手形は威力を発揮する。
商人が持つ品に応じた商売先の斡旋も行うと聞く。
長い歴史を誇り、人々の生活に食い込み、独自の流通過程を構築してきたため、迂闊に潰すこともできない。
つまり、商売人にとって、敵に回したくはない相手と言うわけだ。
ある意味、公的機関とも言える。
そんな雪鳥衆の長が、―――――大樹。
人外の北王にして、私の夫たる史郎が、そのヒトだ。
そう。雪鳥衆は、人外にかかわりがある、どころじゃない。人外が運営する組織なのだ。
「だから、雪鳥衆を忌避するヤツも多い。でもそれ以上に、背に腹は代えられないって態度のヤツが多いけどね」
大樹や剣聖の地位は『代々受け継がれる』という世間の認識からして、雪鳥衆が人外の組織だと思われてはいないようだが、関わっている、という感覚はあるのか。
…まぁ、それくらいが丁度よいのだろう。
では、虎一も知っているのだろうか。とはいえ、どこまで。彼が、人外の存在を嗅ぎ分けないわけがない。
人外と知っていて、玄丸にあのような態度ということになれば…意外だ。
人外と見れば、なんにでも突っかかっていくわけではない、というところが。
黙り込んだ私に、そう言えば、と蛍が身を乗り出してきた。
「忘れてた。確認しといてくれって言われたんだよ」
目をキラキラと輝かせ、蛍。
「帯どめがいいかい、簪がいいかい」
楽しげな蛍には悪いが、私の思考は、一瞬、無になる。
基本的に飾り物を自分の身に着けるという意識が、私にはないのだ。思考の範疇外のことを突如問われ、咄嗟にうまいこと返せなかった。
何にしろ、二者択一なのだ。単純に、答えを返せばいい。
「…帯どめ…?」
動きやすいのは、そちらだろう。簪で髪をまとめる手段も捨てがたいが、扱い慣れていない私にとっては、ひとつに束ねた方が手っ取り早い。
私の疑問形の答えに、蛍の眉が跳ね上がる。
「それが答えって判断でいいのかい?」
首をかしげた。
「こっちに何かを聞いてるわけじゃなくって」
ぎこちなく頷く。蛍は朗らかに微笑んだ。
「わかった、じゃ、凜さんの旦那から預かった珊瑚で、仕上げとくよ!」
「だんな」
そして、珊瑚?
端的な言葉しか放てない私に、蛍は頭を掻いた。
「あのひと凜さんのいいひとじゃないのかい? 史郎って言ったか…常識外れの男前」
内心、私は唖然となる。外から見れば、一度、二度、瞬きした程度で終わっただろうが。
史郎が、接触した? …蛍と。珊瑚を介して?
珊瑚、というのはおそらく、私が亀の長老から礼と称して渡された預かりもののことだ。
確かに私はあれを、持て余してしまっていた。
「史郎さま、は…なんと?」
人間から、史郎を語られるのは新鮮だ。もう少し聞きたくなって、尋ねれば、きもちよく答えてくれた。
「凜さんにあの珊瑚の塊を渡した相手から、加工を頼まれたんだとか言ってたよ」
私の困惑を、亀の長老は察していたようだ。
ちょっと休憩。困った贈り物の件を一段落。
読んでくださった方ありがとうございました~。