第四章(3)
それとも。
バカな子を、単純に、慰めているだけ、とか。…あり得る。
史郎の腕の中、恐々、顔を上げる。と。痛いような眩しさに、思わず目を閉じた。
光が邪魔だと思ったのは初めてだ。史郎の顔を見たいのに。
「おっと。闇に慣れた目に、いきなり、この光は毒だろう。しばらく、瞼を閉じてろ」
瞼の上に、乾いた掌の感触。温みが染みる。肩のこわばりが解けた。そこで、ようやく気付けた。
首筋に、身を摺り寄せる豆乃丞のちいさなぬくもりがある。そこに、いたのね。
震える息を吐きだす。私は微かに頷いた。余裕が生まれる。とたん、色々気になってきた。
「あの、…ここは…」
どこだろう。少なくとも、地上ではない気がする。史郎はあっけらかんと答えた。
「ああ、風脈の中だ」
「…」
それは、立っていられる場所なのだろうか。
世界には、脈動というものが存在する。
陸地の中を走る地脈。水の中を走る水脈。または、大気中を駆け抜ける、―――――風脈。
位階の高い人外は、呼吸と同じ感覚で、それらを移動の手段に使う。
史郎は、ここを風脈と言った。咄嗟に、さらに身を寄せる。
自身が、どう立っているのかさえ、私には見当もつかない。
私の頭に、史郎がほおずりする。乱れる髪の向こうから、史郎の声。
「蜘蛛蔵の屑野郎はよ、風脈の中に巣を作って、渡り歩いてんのさ」
「…歩く」
風脈の中を? 面食らった私に何か勘違いしたらしい史郎が、あやすように言い直した。
「ん、ああ、アイツの場合、歩くってのは違うな。巣から巣へ飛び移ってんな」
そうですか、頷いた。幸い、見る機会はない…はず。
「そろそろいいか、おい、豆、ちゃんと役目を果たせ」
不意に、史郎の身体が離れる。ぬくもりが奪い取られる感覚に、物足りない心地になったところで、目元の保護をしていた大きな掌が、乱暴な口調と裏腹にそぅっと放された。
先ほど感じた眩しさが神経に与える鋭い痛みを予測して、身体が竦む。なのに、
「いいぜ、目を開けろ、凛」
史郎の言葉一つで、恐れも惑いもきれいさっぱり消えてしまった。簡単に。なんて現金。
ひとつの恐怖もなくゆるり、と瞼を開ければ――――――目に映った光景を、何と言おう。
息を呑む。目を見張った。
遥か眼下に、南の都が一望できる。
ただ、それらは不自然に揺らめいていた――――川面に映った光景みたいだ。
この、水みたいに流れる何かが、…風、大気、そういうもの、なのだろうか。
その中に、光の粒子が時折星みたいに瞬いて消える。
「晴れてるからな。いい眺めだろう」
史郎の声に、顔を上げた。彼は、この光景が自分のモノのように目を細めている。誇らしげ。
粗削りで精悍だが、妙に端正で品ある面立ち。表情の一つ一つが、私の目には鮮やかで。
ああ、いつもの、史郎だ。
目にした不思議の光景を一瞬忘れ、史郎に寄り添う。
とたん、どうした、と言いたげに肩を抱かれ、宥めるようにゆっくりゆすられた。あやされる感覚が、心地いい。目の端で、史郎の、自由な方の手が、煙管をくるりと回した。
そう、これだ。これが、私の日常。
少し目を閉じ、余韻に浸る。
「ここはまだ、南、なのですよね…?」
つい、遠慮しながら尋ねたのは、訳がある。暑くないのだ。
たちまち、史郎が現実を思い出したと言わんばかりに唸る。煙管を帯に突っ込んだ。
「そうだ、まだ仕事が終わってねぇからな」
史郎が顔を巡らせた。何かを探す態度。
一つ頷き、私の手を握った。
ふらり、穂鷹山で散歩に行く歩調で、緊張感なく史郎は歩き出す。…私の歩幅に合わせて。
「こっちだ。永遠に忘れていたかったが、火滝を待たせてる」
火滝の扱いが、芯まで雑だ。
あれだけ図太いと、気遣いもばからしくなる心地は分からないでもないが。
「あの方は今、どちらに?」
気を失う直前、彼の声を聴いた気がする。思い出して尋ねれば、史郎は舌打ち。
「いいか、アレに隙は見せるな。凜を蜘蛛蔵の巣へ放り込んだのはアイツだ」
火滝は寸前まで、あの場のどこにもいなかったはず。
それを、いの一番に、最も危険な場所―――――破裂寸前の力を宿す私のそばに飛び込んできたというのか。
悪意から生じる思惑で動くなら、危険が大きすぎる。そんな豪胆な真似ができるはずはない。
では、火滝は。
史郎が不満げに呟く。
「それが一番安全だったのは認めるが、勝手な真似を…」
腑に落ちた。火滝に悪気はない。
彼は、基本、合理的に行動する存在なのだ。ただ間が悪いだけで。
おっとりしているようで、おそらく、規格外の人外たちの中でも、戦士としては実力も胆力も、頂点に立つ方なのだろう。
剣聖と呼ばれる理由を理解した。
「火滝は効率を考える。情を理解しない。蜘蛛蔵のところは、嫌な場所だったろう。悪かった、汚ぇもん見せたな」
指摘に、見方の一つを学ぶ。確かに、火滝にはそういうところがある。
私は首を横に振った。気にしない、と。
前を向いたままでも、私の動きが分かったのだろう。
史郎は、不満げに「そうかぁ?」納得いっていない声を上げた。
「一応、罰として、あいつは今、玄丸の居場所とつながった風脈に待機させてる」
え、とつい、呆気にとられた息を吐きだす。
「…………脈動の中で、留まって、おられるのですか」
「ああ、風はとどまりにくいからな、道を保つため、突き立てといた」
「?」
突き立てる。釘でも刺しておいたような物言いだ。今は、火滝のことを話しているはずだが。
「それより、凛。他の誰かに聞かれるのは業腹だから、今話しておく」
先を行く史郎は、改まった物言いで、私に告げる。
気楽な声だったから、油断した。はい、と顔を上げるなり、
「俺の闇が、なんでお前を殺そうとしたか」
いきなり、目の前で落雷があった、そんな気分で、私は足を止めたくなった。根性で、歩を進める。
史郎は前を向いたまま、いつもの何一つ隠すことがないと言わんばかりの口調で続けた。
「端的に言えば、凛を失いたくないからだ」
いきなり、結論だ。あまりに、色々飛び越えている。全く理解が及ばない。
失いたくないから殺そうとした、とは。
矛盾、していないだろうか。思う端から、どこかが痛む声で史郎は付け足した。
「不慮の事故で意図しないときに」
真っ向から、傷を晒すかのように怯まない口調は、ひたすら強い。
なのに、なぜだろう。声の奥に、泣く子が見えた。
…月丸の、姿が。幼い頃の、史郎が。
ああ、そうか。納得が、胸の奥に落ちた。真っ直ぐに。
月丸の―――――史郎の心には、傷がある。
遠い昔。彼は、不慮の事故でだいじな人を失った。正確には、…その人は、消えてしまった。
霊笛と、ともに。
彼女の名も、顔も、史郎は忘れている。でなければ、とっくに気付いているはずだ。
失ったその人は、―――――私だと。
忘れているから、私も告げたことはない。体験した私自身、夢でも見ていた心地だからだ。
どう話せばいいのか、皆目見当がつかなかった。今も。
不意に、史郎の言葉が脳裏に蘇る。
―――――俺がいない間、なにがあった。
史郎は、察しているのではないか。
私が彼に、言えずにいることに。
隠しているわけではない。ただ、説明のしようがないのだ。言いあぐねた私は、とたんに気付く。
私が感じるこのもどかしさが、史郎にとって不審を生む違和感になっているのではないか。故に、史郎は肌に不安を感じている。
私の隠し事の気配が、いつか、彼から私が去る理由となるのではないかと。
「なら、自分の手で片を付けたほうが、確実だろう。お前の生も死も、この手で握れる」
…思いのほか、遠い昔、大切な人を失った傷からくる彼の猜疑心は、深いのかもしれない。
史郎が明瞭に語る理論は、口調のせいでまともに聞こえるが、その実病んでいる。
そういう考え方もあるかもしれないと思うが、大事なものが欠けていると感じた。
自覚があるのか、史郎が皮肉気に断定。
「喪失の恐怖に震える臆病者。それが、闇に包まれた俺だ」
史郎の正気が、闇を侮蔑している。けれど。
「いいのでは、ないでしょうか」
私は単純に、感じたことを口にした。慰めではない。私にとっての、ただの事実。
史郎は、前を向いたまま。何も言わない。振り向かない。ただ、繊細な沈黙に、拒絶の固さはなかった。
史郎は、私の言葉に、耳を傾けてくれている。
どう、思っているかは知らないけれど。
「どんな史郎さまも、史郎さまです。ならば、私は」
じんわりとした確信が、胸に広がった。
「私を殺そうとした史郎さまも、好きです」
拙い物言いしかできないのがもどかしい。
確信する。嫌いにはなれない。決して。殺されかけて、いながら。…おかしいだろうか。
恐怖は事実としてある。
それでも、同時に嬉しくてたまらない。
弱さも脆さも、それを恥ずかしいと感じる彼の気高さもすべて、ひたすら愛おしいだけ。
ハッ、と史郎が息だけで笑う。
「狂ってんなぁ、凛、お前は」
言葉の割に、史郎の、声は―――――底抜けに、甘かった。
優しくはない。乱暴ですらある口調、なのに。
前触れなく、史郎が立ち止まる。慌て、私はつんのめりそうになった。とたん。
くるり、史郎が私に向き直る。
「あ」
つないだ手を引かれ、止まることもできずに、私は史郎の胸に飛び込んだ。
鼻先をぶつけ、変な声が上がる。どうしたのかと見上げれば、
「最高」
満月色の双眸が笑って、私を見下ろしていた。それが近づき、額と額がぶつかる。
すぐに離れた。そう、感じた時には。
―――――ちゅ、とついばむ音と感触が、額に落ちた。次いで。頬に。唇に。
驚きを通り越して、私は呆けた。今、何が起こっているのか、理解できない。
片方の手を、つなぎ合ったまま。他には何の拘束もないのに、…逃げる気も起きない。
逃げるなら逃げろ、と史郎は唆しているのだろうか。
逃げない、と私は唯一つないだ手にほんのわずか、力を込める。
「…ここが風脈なのが残念だなあ」
すぐ、接触を解いた史郎が、それでも間近で、心底無念な声を出す。
唇に、唇が触れる。くすぐったいような、ぞくぞくする感触があった。そのくせ。
ずっと戯れていたいような、甘さ、が。
「穂鷹山なら、即座に閨が整うのに、―――――チッ、それに」
不機嫌に顔をしかめた史郎が、不意に身を起こす。振り向いた。邪魔だと態度で告げながら。
「場所が、向こうから来やがった」
私は思わず、唇を隠す。場所が、来た?
心持ち、史郎の背に隠れながら、そちらを見遣れば。
私の目に映ったのは、…一振りの刀。
光すら吸い込みそうな、まっくろな刀身が、悪い冗談みたいに突き立っている。
ただ―――――どこに、かがよく見えない。
風脈の、壁だろうか。壁があれば、の話だが。直後。
「…あぁ?」
根っこまで不機嫌に、史郎が唸った。
「熟睡中だとっ? どこまで頭が花畑だ、刀のくせに!」
何をどうやったのか、史郎は容赦なく、黒い刀身を足蹴にする。べしっと音を立てて、刀身が無防備にその場で横になった。突き立っていたはずなのに、折れていない。不思議だ。
その、どこか人を食った状況が、ある人物と重なった。
「…まさか、と思いますが、―――――火滝、ですか」
ぐりぐり刀身を踏みつけた史郎が、見るだけで凍えそうな目で刀身を見下ろし、
「正解だ、なあこいつ、一回、炉に突っ込んじまわないか」
怠そうな口調で、過激なことを言っている。本気だ。
史郎が構わないなら私はいいが、それをしても鬱憤は晴らせない気がした。勘だが。
火滝は刀の化生だったのか。
困った私は、聞かなかったことにして、話題を変える。
「ここが、玄丸の居場所とつながっているのですか」
史郎から聞いた時、そこに火滝がいるのなら、特に問題ないのだろうと思ったのだが、…私は踏みにじられても反応しない火滝を見下ろす。
いや、特に、何かが起きるとも思っていなかったが、玄丸が南方にいる理由は、気になっていたのだ。
彼が南方に滞在している事実に、なぜか、不吉に肌が粟立つ。それに。
―――――黒蜜御前。西の骸ヶ淵の主。砂漠めいた気配を孕む、位階持ちの人外。
かの存在が、今、南方に滞在しているのだ。
今回の、西の戦の揺り返しを、騒乱の火種にして煽ったのも、かの方。
思い出すのは、梔子の香り。満月のように、豊麗な美貌。緩く波打つ、長い黒髪。
不敵に笑う、魅力的な方―――――ただし、男と女、どちらの姿で現れるか読めない。
玄丸は、黒蜜に、命ある限り晴らせない恨みを抱いている。
彼らを思い出したのが、風脈の中で呼び水になったのか。
袖を引かれる感覚があった。無警戒に振り向いた、そのとき。
木の根を見た、…気がした。その向こうに。…人影。女性? 左の目尻に、黒子。
(あれは)
彼女は一瞬、かなしげに微笑んだ。直後、茶目っ気たっぷりに肩を竦めた。
彼方を指さす。つられて、そちらへ目を向けるなり。
いきなり、空気が変わった。何かを潜り抜けた心地に、風脈を抜けたのだと自覚する。
一瞬、息が詰まった。尻もちをつきそうになり、慌てて堪える。
すぐ、気持ちを切り替えた。周囲を見渡す。とたん、あたらしい畳の匂いが鼻を突いた。
数歩先に、山水が描かれた襖が見える。ただ、左右と背後の部屋の端は遠い。
高級料亭、もしくは、宿を連想する。直後、
「わたくしでは、信頼が置けない。…そうでしょう?」
特徴的な嗄れた声が、周囲の静寂を深めるように、穏やかに響いた。
私は息を呑んだ。玄丸だ。襖の向こうから聞こえる。次いで、苦笑いが空気を揺らした。
玄丸の言葉を、肯定している。畳みかける勢いで、玄丸。
「ゆえに、あなたにお願いしたいのです」
「だが、ワシにも重いよ。総元締めなど」
玄丸に応じるのは、彼に似通ったふてぶてしさを宿す声―――――これは、かつての会合の席で、大きく笑った小太りの壮年の男のもの。直後、
「では」
しっとりと艶めいた声がして、
「これは誰もいらないのですわね。黒蜜がもらっていきますわ」
耳に届いた言葉に、私は心臓が嫌な感じにはねるのを自覚した。
黒蜜が、いる。襖の向こうに。しかも今は…女性、のようだ。
「待て」
刹那、険しい声がした。その印象と、好々爺然としていた小太りの壮年の商人の姿が、一瞬重ならず、戸惑ってしまう。だが間違いなく、彼の声だ。
襖の向こう、黒蜜の動きを縫いとめるのに、十分な威圧はあったろう。
「貴様ごときが触れていいものではない」
「こんな小さな貝殻ごときに、どんな価値が…ああ、はいはい、ですが、いらないのでしょう? ではどうなさるの? 捨てます?」
ぽんぽん飛び出す言葉に、商人が唸る気配。疎ましさというより、疲労が響く。
「玄丸殿」
色濃い迷いが残る声で、彼は問う。
「本当に総元締めは…いや、先代は、真実、南方を売ったのか?」
私は思わず、身を乗り出した。
「ここにある血判状を見れば、そこにある総元締めの名は無視できない」
声には、平静さの奥に、喉を詰まらせそうな苦しみがこもっている。
ここに、あるのか。血判状が。
壊滅的な破壊をもたらしかねない、火種が。
あのとき、最後にそれを手にしていたのは、蛍だ。
彼女が血判状を手放す可能性があるとすれば、玄丸に求められた場合。そして、それが。
―――――勝利をもたらすと確信した時だ。
ただ、上役である、というだけでは、蛍という娘はきっと動かない。
今、眼前で、見えない天秤が揺れていた。何かが決すれば、それが未来の道を作る。
けれど、今ここからどう動けば、蛍の望む勝利につながる道ができるのか、私程度では想像もつかない。だから。
つい、私は襖に伸ばしかけた手を口元まで持ち上げ、両手を組み合わせた。
…祈る、くらいしか、できなかったから。
誰の邪魔にもならないよう、つとめて息をひそめる。
「それを語られることを恐れ、血判状に名を記した全員を殺し、自らも、…死を」
「それ以外に」
見えない重石を感じたような口調になっていく男の台詞に、黒蜜が口をはさんだ。猛毒めいた笑みを含んだ声で。
「何があると?」
「耳を傾ける用意がおありなら、この女性ではなく」
玄丸の嗄れた声が、淀みそうになる空気に、ふぅ、と清い風を流し込んだ。
どこまでも自然体の彼の態度、それだけで、緊張が、一部綻ぶ。
見逃さず、玄丸は針のような鋭い声を放った。
「真実をお聞きください」
パン。
手を叩く、乾いた音。直後、
「う、わ」
向こう側で襖の滑る音がして、畳の上、誰かが倒れこむ気配がした。
「お前は」
「おいおいおーい、動くなよぉ?」
場に満ちていた静寂を乱雑に刻むような暴力に満ちた声がして、
「ひっ」
ざくり、何かが突き立てられる音が続いた。
「そこの女もだ。で、ねぇと」
脅すようでいて、むしろそれこそ大歓迎、と言いたげな声が響く。
「その身体に、オレの槍でうっかり穴が開くかもなぁ?」
声は、火の海の中に投じられた火薬のような、かえって一切を無に帰してしまう純粋な暴力が、気配に満ちている男―――――虎一のものだ。
「ばかな」
小太りの壮年の商人の声が、唖然と部屋に落ちる。
「血判状の中に名を記されている貴様がなぜ、生きている?」
(え?)
私は目を瞬かせた。玄丸が、最初から変わらない穏やかな声で応じる。
「総元締めが…、いえ、元、総元締めが動く直前、この商人がコトに関わっていると示してくださった方がいたのですよ」
血判状に名を記していた者を、では、玄丸は一人、守り抜いた、そういうことか。
「真実を知るためには」
嗄れた声が、淡々と言葉を紡ぐ。
「関わったものに直接語ってもらわねば、…空虚な言葉になる」
騒動をどんどん解決していきます。
読んでくださった方、ありがとうございました~。