第四章(2)
闇の中、男が立ち上がった。言葉はない。だが。
口の端が裂けそうなほどの笑みが、何より雄弁に、彼の勝利を告げている。
状況がよく呑み込めていない表情で、千華がぎこちなく振り向いた。
惨劇の予感に、私はわずかに震える。
ただ、…あまり、千華を気の毒とは思えなかった。私自身がある意味見捨てられ、生贄に差し出された経験があるせいだろうか。受け入れたら楽になれるといった程度の助言が頭を掠め、すぐ消える。
これは…おそらく、ろくでもない反応、なのだろう。
むしろ同情は、盗賊の男の方に向く。それすらも、自業自得の感が消えない。
彼らが望んで、この状況を手繰り寄せたような――――遠い世界の道化に見えた。
背を向け、遠ざかる志貴を憚るように、ひそと永志が口を開いた。
「終わりだ、千華」
苦悶を通り抜けた白い表情。神経質な彼に不似合いな、優し気な口調。逆に不穏。
らしからぬ態度を気に留めず、慮ることもなく、憤怒にきらめく目を上げ、千華が頭上へ声を張った。
「あたしを売ったのね!!」
力任せに殴られたように、ぎくりと国臣の背中が揺れる。
一切周囲を顧みない、今までの千華そのままの勢いで、壁に爪を立てる。
「さぞかし高い対価を得るんでしょうねぇ…っ」
穴のふちに立っていた綾月が、白けた顔で肩を竦めた。小声で呟く。
「担保があなたじゃ赤字だけどね」
その間にも、千華はわめき散らした。
「許さない…あんたたち、死んだって許さないんだからぁっ!」
皮肉にも、憎悪すら、彼女の美しさを引き立てる道具だ。死の穴の中で、千華はきらきらと輝いて見えた。
蹲った国臣は、小さくなって動かない。怯えた子供みたいだ。
永志は涼しい顔で、小揺るぎもせず、立ち上がった。どちらかと言えば、―――――望んで罰を受けている態度に見える。
予言を告げるように、厳かな態度で、永志。
「安心しろ、お前もこれから得るぞ、千華」
得る。唐突な言葉に、私は一瞬面食らう。すぐ、理解した。
ああ、高い対価のことか。でも、千華は。
…もう、この世から退場するのに?
「嘘は嫌い! 顔を見せなさいよっ!」
千華が、力任せに壁を叩いた。子供に言い聞かせる声で、永志。
「お前が犠牲になることで、南は怪異から救われる」
真実の響きを宿す声に、私の目は自然と、牢の外で成り行きを見守る伊織へ向いた。
片眼鏡が光を反射して、きらとひかる。伊織の表情はいつもと変わらない。けれど。
永志の言い分は真実なのだと彼の態度で私は確信した。
―――――これは、単に、残酷な見せしめではない。
目の前で起きている吐き気を催すような処罰に、…意味が、ある。その事実にこそ、もっとも怖気が走る。なにせ。
ゆえに、誰も逃げられない。
伊織の背後で控えていた真緒が、やりきれなさそうに大きく息を吐いた。
「…もう少し、早く事実を話してくれていれば…」
他のやりようはあったのに、と消え入りそうな言葉が無念に続く。
そうだ。祓寮は機会を与えた。彼らに、何度も。それを蹴り続けたのは、…誰だった?
すべてを断ち切るように、永志が告げる。
「お前は救世主となるんだ、誰もがなれるものではない、喜べ、千華」
「お父様を呼んでよ!」
もはや、千華の耳には何も届かない。駄々っ子の口調で繰り返す。
「お父様がこんなこと、許すはずない…ねえ、ねえったら!」
朔を伴い、牢から出た志貴を、恭しく腰を折って伊織が送り出す。彼の穏やかさは、このような凄惨な場にあっても、常と同じ。
入れ替わりに、夜彦が牢の出入り口を潜った。その大きな手が、くずおれた国臣の襟首をつかみ、引きずっている。
黙然と突っ立ち、千華の叫びを聞いていた永志を、綾月が促した。牢の外へ。
一度よろめいた永志の背後で、
「な、なによ、なんなのよ、これぇ!」
土壁に背を押し付けた千華の声にはじめて、恐怖が宿る。
彼女の目の前で、盗賊の首領、その血肉が、骨を弾かせながら変貌をはじめたのだ。
「助けて、お父様、お父様、おとうさまぁっ!!」
身も世もなく泣きわめく声に押し出される格好で、全員が牢を出た。
志貴と朔は、もういない。惑乱の声をそよ風のように聞き流しながら、伊織が永志に声をかけた。
「教えて差し上げないのですか」
「…伊織さま」
この場においては、はじめて不快げに顔をしかめ、これ以上は、と永志は首を横に振った。構わず、伊織は続ける。
「千華姫の御父上自身が、娘の自滅を望んでいたのだと。奈美という西方出身の、弁えない侍女をそばにつけたのも、それが理由だと。教えないのは、優しさですか? 偽善ですねえ」
「…あまりに、礼を失した物言いでは?」
顔を背け、咎める永志の声は、弱い。これが、彼には精いっぱいの虚勢だったろう。伊織は目を細めた。容赦なく告げる。
「もっとしっかり腹をくくった方がよろしい。あなた方は、名家の跡取りでい続けるために、姫を売ったのですから。―――――おや」
はさみで切ったように唐突に、千華の声が止まった。代わりに。
一際高く上がる、ぬるついた音。
夜彦が顔色一つ変えず、牢に鍵をかけた。か細くすすり泣く声は、国臣のものだろうか。
彼を引きずる夜彦と、行燈を持った真緒が、一度伊織を見遣った。
長の頷きに、真緒が永志を先導し、国臣を引きずる夜彦が後に続く。
合間にも、おぞましい音が止む気配はない。合間に聞こえる、小枝を折るような音は――――――…考えさし、私は思考を止めた。
真緒が手にした明かりが、遠ざかる。伊織と共に居残った綾月が、細く長い息を吐きだした。
呼吸しづらそうな態度で天井を見上げ、ボヤく。
「長、オレは今、無性に凛さまのお姿を拝見したいです」
そっけなく、伊織。
「きれいなものを見るというのは、我々には贅沢だよ」
全身が泥になったような疲れた態度で、綾月が顔を戻した。重ねて、尋ねる。
「いつお戻りになられるのですか」
「近いうちだろうね。…おや」
南国というのに、寒気を感じた様子で、伊織は襟巻を掴んだ。
「いらっしゃったようだよ」
空気すら鈍く濁りだしたような、牢の中。不意に、空気が塗り替えられる。
部屋が変わったかのような急激な変貌だ。
巨大な獣が突如顕現した、そんな険しい空気の中心に浮かぶのは、厳しい表情の少年。
驚きに、私は息を引いた。彼は、
「西狼公」
―――――久嵐だ。何食わぬ顔で彼に呼び掛けた伊織は、事務的に尋ねた。
「これで、西の揺り返しが幾分かは、おさまりましたか」
応じ、虚空に佇む久嵐が顔を上げ―――――…、
バチン!
風船が弾ける勢いで、幻が掻き消える。
「あはははっ!」
蜘蛛蔵が、けたたましい笑い声をあげた。久嵐が有する王の力、その暴威が蜘蛛蔵の術を煙のごとくにかき消したのだと気付いたのはすぐだ。
「西王だ、王だ、本物の! 王がかかわったんなら、ああ、もう、無理だねぇ! あの女、助からないよ…ご愁傷様」
莫迦にし切った声が、けれど、端々でひきつっている。蜘蛛蔵に、焦りが見えた。
「チッ、あんなとこに現れるなんて聞いてないったら…くそ、移動しなきゃ」
どうやら、久嵐の来訪は、予想外だったようだ。蜘蛛蔵の術を破ったのが久嵐なら、彼がこちらの位置を手に握ったのは確実。とはいえ。
ただ覗き見ていた相手程度を、久嵐が気にするとも思えないが。
「せっかくこっちには北の御寮もいるんだ、あの化け物にやり返せる機会なんか、滅多に―――――」
忌々し気に、蜘蛛蔵が、私を振り向いた。直後。
「…え?」
彼は、たじろいだ。迷子の童みたいな声を上げ、複数の足で、わずかに後退。
いきなり小突かれた、いじめられっ子めいた態度だ。
「見、てる…? うそ、この、闇の中、人間の視力じゃ、見通せる、わけが」
呟く最中、紅点が激しく明滅。それが、前触れなく停止。一際あかるく輝いた。
「あ」
抜けた声を耳が拾うと同時に。
「その式の力か…! 見るな、見ないで、あっち向いてったらぁ!!!」
式。指摘と同時に、肩に、小さな爪が食い込む感覚。豆乃丞。ピ、と可愛い鳴き声。
一見、ただの小鳥。身体は緑。首から上が黄色。わずかばかりあるトサカの先は橙色、もとは畑の豆、というこの私の眷属は、いったい、どのくらいの能力の幅を持っているのか、私自身、いまいち掴めない。
かさかさかさ。
蜘蛛蔵は、複数の足を目いっぱい動かし、どこかの陰に隠れた。
気の毒になるほどの動揺だ。彼にとって、自身の姿を見られるのは拷問なのだろうか。
驚きに、いっとき動き損ねた私の目の端で、これ幸いと暴れた奈美の口元から、糸がズレる。とたん、
「黒蜜さま!」
虚空目掛け、声を張った。血走った目で。
「教えてくださいませ、わたくし、次に何をすればよろしいのっ? 貴方の仰せのままにいたします、そうすれば、間違いないんですもの、ええ、こんなの、何かの間違いよ…っ」
千華の凄惨な最期を目のあたりにした彼女が、何を考えたかは、分からない。
少なくとも、現実を素直に受け入れることは、難しかったようだ。
危うい奈美の態度より、その言葉に、
「黒蜜だって!?」
蜘蛛蔵が隠れた場所から、棘だらけの声を上げた。
「アレの操りの糸がついてんのか、そんなゴミ、移動するより先に始末し」
言いさした蜘蛛蔵の声が、途中で不自然に止まる。
「え? …なんで、なんでさ、なんで脈動を渡れないわけ…っ」
脈動。その言葉に、私は周囲を見渡した。
この場所は、脈動を渡れるのだろうか。蜘蛛蔵単体で移動するのは、私の考えの外にあった。彼が、数多とらえた獲物を放って、一人で行動するわけがないと確信していたから。思うなり、
「―――――あぁ? 本気で、気付いてなかったのか、てめぇ」
落雷のように、頭上から、腹の底まで不機嫌な声が降った。
ここに存在しない、第三者の声―――――だが、私には、他の誰より馴染んだ声だ。
思わずその姿を探して、頭上を振り仰ぐ。史郎。私の竜。
「うそうそうそうそうそ…っ! どうしているのさっ。まさか、撒いたんじゃなくて」
声まで青ざめ、蜘蛛蔵が死にそうなほど狼狽えた。
「俺が凜を見失うだと? 舐めてんのか? …俺が、お前の目に見えなくなったのは、よ」
跳ねあがった語尾が、いつもの皮肉を濃密に孕む。笑った、気配。
「単純に、この空間が、な?」
みしり。どこかで、音。ヒビが、入ったような。私は再度、周囲を見渡す。
いったい、史郎は何をしているのか。
「やめてよお」
蜘蛛蔵が、情けない声で懇願した。これではまるで、泣き虫の弱虫だ。
強気が嘘のような先ほどからの変貌に、私は言葉もない。
えぐえぐ声を震わせる蜘蛛蔵に、けれど史郎は容赦しない。
「俺が入るには狭すぎんだよ、ちくしょう、凛が見えない。触れねえ。抱けねえ」
うわごとめいた、声。焦れている。思わず、私は立ち上がった。史郎を探す。彼は、どこ。
思うと同時に、迷いが生じる。空間の中央へ、顔を巡らせた。
蜘蛛の糸の方へ。そこから、大勢の人の気配がする。たくさんの人が、囚われていた。
呼べば、史郎は応じてくれる。だがきっと、助けるのは私一人だ。つい、歯噛みした。
私だけでは、どうしようもない。かと言って、史郎に捕らわれた者たちを救ってくれと頼むのもお門違いだ。
どうすれば、一番いいのだろう。悩む端から。
「凜。答えろ、そこにいるな?」
史郎の、どこまでも真っ直ぐな呼びかけ。迷いながら口を開く。
とたん、喉がつっかえたようになった。声が出ない。
我がことながら不思議に思うなり。
ここで目覚める直前の出来事を思い出す。血の気が引いた。なにせ、私は。
史郎を含め、たくさんの人を傷つける―――――へたをすれば、殺してしまうかもしれないと分かっていて、危ない橋に突っ込んでいったのだ。合わせる顔がない。
「どうした」
訝しむ、史郎の声。待って。だって、私たちは、
「なぜ答えない。凜」
ついさっき、殺し合った。私の全身が冷たくなる。
今思えば、とんでもない状況だ。何事もなく、史郎の声に、応じられる、…わけが。
「―――――蜘蛛蔵」
いきなり、史郎の声から、激情という温度すら抜けた。
それだけで、鋭い一太刀を浴びせられた心地になる。
「なにもしてないよ、あんたの大事な女は無事だよ!? …なんで答えないのさ!」
泡を食った蜘蛛蔵の最後の言葉は、私に向けられたものだ。
「ああ、別にいい、…いいさ、―――――誰も逃がさなきゃいいんだからな?」
獣が不穏に唸るような、声。放置すれば、絶対、噛み殺される、そんな確信を抱かせる殺意すらこもり始めていた。
「邪魔だ、邪魔だ、心底邪魔だ、おい、いい加減、」
間違いようもなく、史郎は、私を求めている。
感得するなり、私の意識に、見えないはずの光景が、浮かんだ。これも豆乃丞の力だろうか。
場を構成している、蜘蛛蔵の箱庭。それを、長い胴で締め上げる巨大な竜。
蜘蛛蔵が、泡を食った声を上げた。
「あ、わ、ま、待って…!」
「潰す」
腹の底を蹴りつけるような、重い、本気の呟きに、
「―――――こんなのいらない、返すから、光はやめてぇ!」
裏返った蜘蛛蔵の声。聞くと同時に、
「え」
私の足元の固さが消滅した。刹那。胃の腑を突き上げる、浮遊感。―――――落ちる。
反射で、頭上へ腕を伸ばした。そこに、史郎がいる。すぐ近く。
助けを求めた、というより、私の指先は、ただ、史郎を求めた。
答える勇気もなかったのに、図々しくも。
それは過たず、
「凜!!」
摑まれた。史郎に。引き寄せられる。強く、乱暴に。
温かな、腕の感触。懐深く、隠すように抱き留められた。
…なんて安心感! 一瞬、すべて忘れた。私は立派な人でなしだ。
蜘蛛蔵の、他者への接し方を見ていながら、彼に捕らわれた人たちのことを、もう遠いもののように感じている。
史郎の襟を、掌のうちで握りこむ。胸元に頬ずりした。史郎が、細く長く息を吐きだしながら、身を丸める。身体の中へ私を押し込むように。動けない。でも、与えられる痛みが死ぬほど心地いい。
「あなたですか」
確信しながらも、つい、言葉をねだる。答えてほしくて。
「ここに、いるのは、私、の」
「ああ」
史郎が、大きく頷いてくれる。
「凜の、俺だ」
おかしな言い方だ。泣きそうになった。笑うべきだったろうか。
放したくない。離れたくない。
「逃げねえのか」
いつもと同じ、不動の強い口調で、皮肉気に、史郎。
「俺から逃げたくて、答えなかったんだろうが」
…いつもと、同じ? 不意に、違和感が肌を嬲る。
史郎の声が、暗くて熱い。拘束する腕が、力強さよりも、絡みついてくるようだ。
片腕が、私の背を抱いている。骨がきしむほど強く。もう、片方の腕、が。
私の輪郭を確認するように、腰を撫でおろし、―――――太腿へ。
無意識にその動きを追いながら、私は首を横に振った。
「違い、ます」
抱きしめる力に肺を潰されそうになりながら、必死に息を継ぐ。
「…逃げないのか?」
声に、不思議そうな響きが宿った。手が止まる。妙な言葉が続いた。
「そうか。なら、足の腱は切らなくていいな」
内心、私は首をかしげる。今、そんな話をしていたろうか。
いや、それより今は。
「申し訳ございません」
身を離せないまま、私は謝罪を口走った。史郎の胸元に、隠れるように顔を埋める。
「私は、少し間違えば、史郎さまを殺して」
言葉の途中、史郎が、はっ、と鋭く息を吐く。笑った、と気づいた時には。
「なんで謝る? 俺が言えるのは一言だ。―――――でかした!」
一面を、太陽が照らしている、そんな輝く声で、上機嫌に言葉が続く。
私の心の雨や曇りを、呆気なく吹き払ってしまう声。
「そうだろう? 凜は、二人の王を手玉に取って、居合わせた全員を、生かしたわけだ。誰にでもできる芸当じゃねえぜ」
結果論だ。仕掛けた時点で、私にはどうなるか、予測すら立たなかった。
だが、手玉に取った、とは。―――――むしろ私は、二人なら何とかしてくれる、と事態を丸ごと投げ渡してしまった。頼った、と言えばまだ聞こえはいいが、しでかす無茶の尻拭いを押し付けてしまったわけだ。
「あのまま放っときゃ俺は狂った。凜を手にかけて正気でいられるわけがねえ。凜の行動は間違ってねえ。どころか、最善だったのさ」
これは、人外の理論だろう。ならば私の思考は、人外に近くなったのだろうか。
読んでくださった方、ありがとうございました。




