第三章(20)
呆然と名を紡いだ私に、彼は、に、と笑った。
いつもと同じく、どこか皮肉気に。
知らず、私は青ざめていただろう。
史郎がここにいる。では。
―――――火滝はどうなったのか。なにより。
今の史郎は…大丈夫なのだろうか?
周囲に、闇は、見えないけれど。
いったい何に警戒すべきか、一瞬、何も分からなくなる。
私の混乱をよそに、史郎はいつもより表情の薄い顔で状況を確かめるように周りを見渡した。
最後に、久嵐に目を止める。
面倒そうに言った。揶揄の口調で。
「祓寮と協力か?」
久嵐は唇を尖らせる。態度は幼い。
だが、応じた声音は慎重。
「西の力を南で使うわけにはいかないだろ」
そこに割って入ったのは、
「祓寮が動くのは当然だ」
夜彦だ。
鋼めいた声で続ける。
「人外相手の戦闘であれば」
「人外だぁ?」
突如、史郎は鼻で笑った。
「何言ってやがる」
今にも囚われの身となろうとしている異形を指差す。
「そいつぁよ、―――――人間だぜ」
蛍が息を呑んだ。
見開かれた彼女の双眸に、盗賊の姿が映っている。
半信半疑の彼女の隣で、私は納得した。
だからこその、違和感だ。
人外と言い切るには、何かが違った。だからと言って。
人間、と言えるかと言うと。
久嵐が、史郎の言葉を補足するように言った。
「百鬼夜行の気にあてられたんだろうな」
彼はやりにくそうに史郎を横目にする。
「中途半端に変化してる。戻すには時間がかかるんだ。その手間を、かけるか?」
おそらく、久嵐は戻すことができるなら、そうしたいのだ。
そんな確信を抱かせる口調だった。
対して、史郎は。
「戻す?」
ゆらり、首を傾げる。
「ふん、そりゃ少し、時間がかかる」
―――――バツン。
いきなりだ。
無理やり太い繊維を引きちぎるような音が聴こえた。同時に。
盗賊の身体から鞭のように撓った細長い何かが飛びだす。
と見えた時には、蛇の動きで一度天井を殴りつけた。
その、衝撃に。
「おっと」
均衡が崩れたか、久嵐が天井から、清孝の足元へ舞いおりた。
清孝の意識が、一瞬、久嵐へ逸れる。
刹那。
盗賊が、目の前の清孝を跨ぎ越した。
そのまま、矢のように迫る。
―――――私と蛍へ。
「凛!」
久嵐の声が、耳朶を貫いた。
慌てた声。
だが応じる余裕はない。
咄嗟に、蛍を庇うように動いた。同時に。
「あ」
蛍も私を庇うように動く。
互いの動きを知ったのは、額をぶつけ合った直後だ。
あまりの衝撃に、目を回した。
いっとき意識が遠くなる。
涙目になった私たちの前で、
「何してんだ」
呆れた声がした。
痛いが、泣いている場合ではない。
額を押さえた。顔を上げる。とたん、目に入った光景に、血の気が引いた。
赤黒い触手のようなものを、史郎が横から片手で無造作に引っ掴んでいた。
振り向いた清孝が、潔い口調で謝罪する。
「申し訳ございません」
一瞬、何を謝ったのか分からなかった。遅れて、理解する。
ああ、隙を作って私たちに攻撃を許したこと、か。
律儀な人だ。
史郎が面倒そうに片手を振った。
「いいってことよ。まあせっかくだ」
触手を掴んだ彼の指に、力がこもる。
「焦がしてやろう」
あ、と思う間もない。
触手の末端から逆流するように、盗賊へどっと闇が流れ込む。
びくん、と異形と化した肉体が仰け反った。
「がぁっ!」
頭のてっぺんからつま先まで焼き串ででも貫かれたかのような苦悶の表情に、何が起こっているのかと恐ろしくなる。
いや、真におそろしいのは、平然と誰かを痛みで嬲れる精神だ。
しかも私の目には、史郎の身から、ゆらり、陽炎のように立ち上る闇が見えた。
同じものを垣間見たか、
「北竜公!」
久嵐から、叱責の声が飛んだ。
かつての彼を知る私から聞けば、驚くほど変わった凄味のある声だ。
思わず身を竦める。
「…何をしている? いや」
ちらり、史郎が久嵐を一瞥した。
西の王たる少年は、臆さず畳みかける。
「何を使っている」
威圧的な物言いに、史郎の顔から表情が消えた。
私は思わず蛍から離れ、
「…史郎さま!」
何も持っていない方の彼の腕に、後ろから全身で縋る。
分かっていて使うなら、闇も力だ。蛍が隠し持つ技量のように。だが。
今の史郎の使い方は。
―――――猛毒に、血肉を浸していくような危うさがあった。
それに。
私は、久嵐をはじめ、祓い寮の皆を見遣る。
間違いなく、他の皆は盗賊を生かして捕らえようとしていた。
その事情も知らないままに、盗賊を始末していいはずがない。
そもそも、殺さず澄むなら、それに越したことはなかった。
呼びかけに応じるように、史郎は気怠げに頷く。
「ああ」
ついでのように、炭化した触手のなれの果てを払い落した。
盗賊は、と言えば。
ようやく縛めから解放されたような疲労困憊の態度で、その場に膝をつく。
夜彦が、緊張で怒らせていた肩から力を抜いた。
彼の向こう側で、綾月が声を上げる。
「殺すつもりっ? おれの結界があったからまだどうにか生きてるけど…捕獲できなかったらどうしてくれるのさ」
しかし史郎は、周囲を歯牙にもかけなかった。
満月色の目は、私だけを映している。
「なぁ、凛」
史郎の声は、優しい。しかし。
見上げた表情に、いつもの彼らしさはなかった。
目が合うと、史郎は微笑む。嫣然と。
私は目を見張った。背中が震える。どうしよう。
誘い込むような、…こんな表情は、本来の史郎のものではない。
それでも、はじめて気付いたことがある。
不機嫌と皮肉と、粗暴な荒さを感じさせる表情が抜ければ、史郎は異常に端正な容姿の男だ。
満月色の瞳が、私を覗き込む。
「俺がいない間、なにがあった?」
いつもの鋭さが消え、甘い色を宿した双眸に、のぼせた心地になった。だが。
これは違う。これは。
「史郎さま」
覚悟を決めて、私も史郎の目を覗き込んだ。
満月色の瞳の奥。
甘さを隠れ蓑にした底に、見えたのは。
―――――殺意。私への。
血の気が引いた。
史郎は本気だ。
そのくせ、思い遣り深く、史郎の片手が私の頬に触れた。
一見、私を案じる行動。
こんな、状況では。
誰に救いを求めることもできない。お門違いだ。
だいたい、そう、したとして。
誰が、打ち勝てると言うのか。
北の、王に。
他が、困ったように私たち夫婦から微妙に目を逸らす中で、久嵐だけが妙な焦燥を感じている表情で、私たちを見つめる。
少年の視線には気付いたが、西の王にはさらに助けを求めることなどできない。
王同士を争わせることは、想像だけでも、なぜか私の心臓を思わぬほど冷たくさせた。
なら、どうすれば。
肩に止まった豆乃丞が、落ち着かなげに羽を震わせる。
頬に触れた史郎の指先が耳に触れた。
慈しむ態度で、髪をかき分ける。
そのまま、首筋へ下りてこようとしていた。
その動きは。
殺意を持っているとは思えないほど、思い遣りに満ちている。
…思い遣り。
今、史郎が見せる、それは本物だろう。同時に。
指先が首まで下りてくれば、確実に私の命はおしまいだ。
史郎は簡単に、私の首などへし折ってしまう。
察する反面、私はくすぐったがるように俯いた。
(いいえ)
まだだ。
まだ、私は終わるわけにはいかない。まして。
史郎に、手を下させるなど。
断固として、あってはらなない。
史郎になら、殺されてもいいと思うけれど。
今の史郎は、駄目だ。
為すがままになれば、彼を傷付けてしまう。
何も気付かないふりで、私は史郎に強く身を寄せる。そのまま。
縋るように胸に抱えた史郎の腕に隠れて、自身の懐を探る。
ただし、豊音はだめだ。
豊音に少しでも触れれば、終わりは早くなる。
他だ。他に。
何か、ないか。何か。
霊笛では間に合わない。
ただ、勝つ必要はない。
いっときでも、退けられたら。
頭の片隅で、史郎の声が響く。
―――――ちょうどいい機会だ。考えてみろよ。
焦る私をあやすように。
―――――凛の力でどうすれば、俺を屈服させられるか。
思いだすなり。
指先に、あるものの感触があった。
―――――乾いた、紙片。
とたん、脳裏に閃くものがあった。
…何が起こるか分からない。だが。
―――――やるしか、なかった。
切羽詰まった心を隠し、史郎の着物に頬を埋め、私は低く呼びかけた。
「久嵐」
西の王に。
振り向かなくても分かる。
久嵐の視線が、私の頬のあたりに当たった。
全身全霊こめて、願う。
「皆を守って」
頼れるのは、彼しかいない。
直後。
素早く、掴んだ紙片を口元に押し当てる。
それは、変声の呪符。最後の、一枚。
私は史郎を睨み上げた。
彼が、咄嗟に紙片が何か理解できなかったのは幸いだ。
一瞬の隙を突き、私はそこに声を込めた。
―――――史郎自身の声を。
告げる。
『いい加減、目ぇ覚ませ、寝坊助!!』
同時に脳裏をよぎったのは、伊織の忠告。
―――――呪符が媒介するのは、記憶です。正確であればある程、呪符が、あり得ない力を拾って暴走してしまう。
優しい声が紡ぐ内容は、厳しい。
実際、私の行動は、このときすべてを危険に晒した。
言い訳はしない。
私は自身の欲望に従って、自分勝手に動いたのだ。
どのような結果も、すべて受け止めねばならない。
言葉の意味を理解したのは、すぐだ。
史郎の声を放った直後。
身体の奥底から、ごっそり何かを引きずり出される感覚があった。
内臓のすべてが突如消えたような空っぽの感覚―――――それでいて、猛烈な疲労に似た肉体の重みに襲われ、私はその場に座り込んだ。
おそらくは、私の霊力が一滴残らず絞り取られた。それでも。
―――――うそ、…不足…っ!?
気付いた私は、言葉を失う。
私の全霊力をもってしても、放った史郎の声を、ほんのわずかも満たせなかったのだ。
史郎の声は、ほぼ完璧に構成されていた。
その、手応えはあった。なのに。
…いや、だからこそ。
声を構成する枠組みが、萎む風船のように突如形を変える。
満たすべき霊力がないのだ。当然、崩れる。
一時、私の脳裏を絶望が染め上げた。
だめ。
周りを、破壊してしまう。
それだけ、声の枠組みだけでも、猛烈な力を有していた。
霊笛も間に合わない。
そもそも、もう奏でる力は残っていなかった。
失敗した術が、荒れ狂おうとした、そのときだ。
史郎が目を見張った。
予期せぬ方角から、頭を叩かれたような態度で、無礼を咎めるように顔をしかめる。
今の史郎はどっち?
思うなり、答えが胸から響き返った。
たとえ彼自身が嘘をついても、私にはきっと分かる。
私を映す満月色の瞳は、不機嫌だ。それでも、目の奥底には。
日向みたいなぬくもりがある。
だがどんな史郎とて、―――――――私の神はただ一人。
朦朧とする意識の中、思いのたけを込めて、私は彼の名を呼んだ。
「史郎さま」
助けを。
救いを。
望んだわけではない。
私の心は、何も求めていなかった。
私自身が招いた危ない状況をなんとかしてくれ、と丸投げするつもりはなかった。
なるようにしかならない、とある意味達観していた。
人でなしもいいところだ。
ただ、このときの私は。
彼の存在を、喜んでいた。
これを、祈りと呼ぶべきか、信頼と言うのか、私には分からない。
無心に、史郎を思った。
そのとき。
刃のような風を全身に感じ、連れ去られるように私は、意識を落とした。
最後の瞬間、面白がるような誰かの声を捕らえた気がする。
「無茶苦茶よなぁ。だが、主の細君としては、ま、つり合っておるか」




