第二章(3)
混乱を押し殺すのに必死な胸の隅で、影のような考えが閃いたのは、そのときだ。
――――史郎は、私を通して、別の誰かを見ているのかもしれない。
だから、狂気じみた行為までやってのけるのだ。
その考えは、私の指先を思わぬほど凍らせた。
史郎には、伴侶と呼ぶ女性がいる。千年前に亡くなった人間の女性が。
青柳伯は、言ったではないか。私が、その人に似ていると。
刹那、胸のうちが、雪のように冷える。
そこまで愛してもらえるその人が、心の底から羨ましかった。妬ましかった。
結局私は代わりであって、このぬくもりも居場所も、別の誰かのものなのだ。
私の居場所はどこにもない。期待したら、いけない。
思うなり、不思議なほどあっさりと混乱が静まっていく。いや、凍りついた。
いつもの自分が戻ってくる。
それに気付いたか、史郎が腕の力を緩めた。
「…もう泣くなよ。な」
目元から掌が外れ、私は深呼吸した。
目元を拭い、一歩後退して深々頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
礼儀を保つこの距離が、私を守る鎧だ。
史郎のきつい瞳に、一瞬不快が過ぎる。
それはすぐに、分かってた、と言いたげな呆れに変わった。
それでも納得できないように、満月色の双眸の奥に、蛇みたいな陰湿と獰猛がじわりと浮く。
その時には。
左腕が、先ほどまでと変わらない姿で、そこにあった。
思わず、全身で息をつく。
身体がしぼみそうな深い吐息に、史郎は鼻で笑った。
一瞬で影を吹き飛ばし、どこか得意げに。
「だから言ったろうが」
先ほど感じた不快など、もう頭の外にある。
史郎とは、そんな男だ。
青柳伯が、一端了解をもぎ取れば、あとはどうにでもなると言った言葉に合点がいった。
自然と、私の視線が下がる。
足元には、血溜まりの中に、蝋細工みたいな腕が転がっていた。
史郎は、気にならないのだろうか。
私の視線に気付いたか、史郎は追い払うように腕を振った。
「始末は俺がつけとく。凛は仕事の続きやってろ」
「…、…では、失礼致します」
顔を伏せ、逃げるように庭先へ向かう。
どんな表情をすればいいのか分からなかった。
その前に、自分がどんな表情をしているのか分からないのが、怖かった。
史郎を傷つけるような顔をしているのなら、私は自分が許せない。
軽く頬を叩き、玄関へ向かう。
薪を移動させておかなくては、邪魔になる。
立ち竦むより、動いていた方が、気が楽だった。
まずは一束抱え、庭を回った直後のことだ。
左側にあったはずの壁が、視界いっぱいに広がった、と思ったときには、こめかみからそこに叩きつけられていた。
頭蓋から、じん、と痛みが走る。
壁と自分の身体の合間にはさむ形になった薪が、ぽきぽきと乾いた音を立てた。
幾つかが、着物の向こう側から肌を刺す。
何が起こったのか分からない私の耳朶を、低い軽薄な声が生温かく這った。
「へえ、意外。嫁さん娶ったって言うから何の冗談だって思ったんだけど…本当に女がいるよ」
男の声だ。
どこかで、聞いたような。
耳にすると同時に、背に氷が流れ落ちた心地になる。
私は直感した。
嬲り殺される。
頭を押さえつけてくる力には、得体の知れない危険と容赦なさがあった。
瞬間、爆発した嘲笑が私の身体と大気を殴る。
私は我武者羅に胸元を探った。
正確には、薪の束を。
私の必死さを嘲った声が、さもおかしそうに放たれる。
「アンタ知ってんの?あの野郎はさ、千年経っても、たった一人の女を」
私は手を引き抜いた。間髪入れず、
「…ってめぇ!」
男は、私を突き放すみたいにして離れる。
私が、一本の枝を持った手を背後に振り上げたからだ。
目をつけば、最悪、失明である。
すかさず、私は転がるようにして横へ飛び、振り向いた。
薪の束が地に落ち、広がる。
構わず私は、一本の枝だけを指が白くなるほど強く掴み、男と向き直った。
憎々しげに私を睨んだ男は、隻眼だ。左目に、眼帯をしている。
私は目を見張った。
尖った骨みたいな、この男のことは、知っている。
私が青柳川へ沈んだ夜、森の中で、頭巾の男と話していた相手だ。
なぜ、ここに。
彼も人外だったのか。
相手は、私を見るなり、すっと表情を変えた。
どこか投げやりだが、整っている白い顔が、一時、暗い憎悪を湛える。
それは、たちまち侮蔑に塗り替えられた。
「お前…似てるね。ふん、野郎、どこまで未練がましい」
彼は眼帯の上から、下の肌をなぞるように指を滑らせる。
似ている?
彼も、史郎の伴侶だったと言う人のことを知っているのか。
私の全身が、強張った。今、その人のことを聞きたくない。
私はどんな表情をしたのか、男は傷口を嬲るような顔をした。
「ふぅん?知りたい?教えてあげるよ、たっぷりと、」
言いさした顔が、ふと引き攣ったと思ったとき、私の鼻先に、涼しい風が割り込んだ。
「大概にしとけよ、八代」
史郎の声がしたと思ったときには、目の前に暗色の壁が立ち塞がっていた。
史郎の、背中だ。
とたん、私の全身から強張りが抜ける。崩れ落ちそうな安堵があった。
それでもぐっと両足を踏ん張って、史郎の背後で胸を張る。
辺りは茜色に染まり始めていた。その空気が、帯電したかのように薄い痺れを孕む。
二人の男の間に漂う、緊迫感のせいだ。
史郎が唸った。
「まだあきらめてねえのかよ、アァ?」
「…当たり前でしょ、認められるわけがないんだ。アンタだって、自覚してるくせに」
視線の針、言葉の刃。
互いにしか通じない応酬の後、史郎は舌打ちした。
「『そのこと』なら、コイツは関係ない。巻き込むんじゃねぇよ」
史郎が示したのは、私だ。とたん、心臓が、破裂しそうな強さで脈打つ。
一瞬虚脱するほど、傷ついた。
私は戸惑う。どうして傷ついたのか、分からなかった。
分かったことは、一つ。
関係ない。そう言われて、無性に悲しくなったのだ。
史郎の背後にいる私は見えないだろうに、八代と呼ばれた男は私の傷を見透かしたように言った。
「関係ない、ね」
私のこころにヤスリをかける八代の語調。
そのまま言葉で畳み込むかと思うなり、ふいと彼は意識の刃先を反らした。
身を絞り上げるような緊張感が、霧散していく。
八代は踵を返した。
「ま、いいよ。とりあえず、宣戦布告だ、史郎。油断してると、その命、…散るよ?」
物騒なことを無邪気に言うなり、八代の姿は消えている。直後。
赤い大気の中で、史郎が膝をついた。
夕闇に、刻一刻、濃度を増す影が、長く大地を這って揺らいだ。
私は蒼白になった。あの一瞬で、八代に何かされたのではないか。
掴みしめていた枝を放り出し、私は史郎の横に膝をつきかけた、とたん。
身体を走った衝撃に肩が抜けるかと思った。
壁に背がぶち当たり、痛みが腹へ抜ける。骨と内臓が揺さぶられた。
えづくように咳き込む身体を無理に伸ばし、私は史郎を見た。史郎に突き飛ばされたのだ。
拒絶された。明らかに。
悟るなり、全身が凍りつく。
惑乱した心が悲鳴を上げた。
喉は完全に塞がって、声が出る事はなかったけれど。
突如、温かな寝床から放り出されたような不安感に襲われる。
私は何かしたのだろうか。
史郎の逆鱗に触れるようなことを?
真っ先に、己の失態を思う。懸命に、己が何をしたかを思い出した。
私の行動の何が、彼の気に障ったのか。
自分の苦しさは脇において、史郎を、全神経を使って見つめる。
彼は、土を掴むように前のめりになっていた。
日頃の尊大さは微塵もない。
骨ばった広い肩には、幼子のような心細ささえ漂っている。
ただしそれは、彼に触れれば彼もろともに斬り捨てる物騒さと直結し、頼りなさは微塵もない。
負傷した獣のようだ。
片手で、胸をかきむしるように、史郎が襟を掴んだとき。
ぐ、と史郎の喉が鳴った。とたん。
大量の吐瀉物が史郎の口から吐き出される。
私は飛び上がった。身体の痛みを無視して、一も二もなく駆け寄り、膝を落として背中を撫でさする。
唐突な出来事に面食らったが、放っておけるはずもない。
史郎は私を振り解こうとしたが、できず、蒼白の顔で、また吐いた。
内臓の叛乱まではさすがに御せないらしく、腹と背を痙攣させて、幾度も嘔吐を繰り返す。
吐くものがなくなっても、おさまらない。
茜色に染まっていた大気が、群青に変わる頃、ようやっと、荒い息がしずまりはじめた。
私は刺激しないように肩を抱き、足元の覚束ない史郎を支え、縁側まで誘う。
そこに、顔を紙色にしながら、目ばかりはぎらぎらかがやかせる史郎を座らせ、拒絶の意思に肌を粟立たせながらも、手早く井戸から水をくみ上げた。
桶に水を入れ、厨房に入り、薪に残っていた火種を煽って、半分水を入れた鍋を熱す。
水が半分に減った桶を手に、茶碗を取り上げて史郎の元へ戻った。
億劫に、射殺しそうな視線を向けてくる史郎にめげず、私は茶碗に水を掬って差し出す。
「どうぞ。口をゆすいでください」
一瞥だけで、ふい、と史郎は目を逸らした。
どこの子供だ。
カチンときた私は鋭く言った。
「いい加減になさいませ」
瞬間、ぱちり、と瞬いた史郎の目から、一切の険が抜け落ちる。
虚を突かれた顔が私を見上げた。
その手を取って、無理に茶碗を握らせる。
「足りなかったら、その桶から掬ってくださいね。いいですか、ちゃんとゆすぐんですよ」
念を押せば、呆然と頷く史郎を残して、私は縁側へ上がった。
まっすぐ史郎の部屋へ向かう。
箪笥を開け、一番上にあった長着と帯を取って、縁側に引き返した。
言われたとおり口をゆすいでいる史郎は、やはり、吐瀉物に汚れた部分が気持ち悪くなってきたのだろう、顔をしかめている。
彼のそばに長着を置いて、私はまた庭へ下りた。
ふ、と史郎は私を見上げる。その顔に、拒絶はない。
なぜか、どこか遠慮がちにも見えた。
思わず口元が綻ぶ。
なにやら、可愛かったのだ。
母親の叱責を覚悟して待つ子供のようで。
私の考えが分かったのか、史郎は居心地悪そうに目をそらす。
私は笑いを隠さない声で言った。
「今から、お湯を張った盥を持ってきます。それで気持ち悪いところを拭いて下さいね。着物、汚れたのは上だけだと思いますので、お着替えは、それで」
てきぱき指示を出し、厨房へ戻る。
蒸気を吐く鍋を火から下ろし、湯を盥に注いだ。
手拭いを盥の縁に下げ、足早に縁側へ戻る。
茶碗を両手で持って、ボンヤリしていた史郎は、薄暗い中にも湯気をたてる盥を見て、
「…早ぇな」
掠れた声で呟いた。
「ありがとうございます」
縁側に盥を置いて、私は手拭いを絞った。
何も気付かないふりで、忘れた態度で、いつものように接する。
「さ、どうぞ」
差し出せば、史郎はじっと手拭いを見下ろした視線を、私の腕を辿るように動かした。
最終的に、私の口元辺りを凝視する。
思わせぶりな視線に、何かついているのかと、口元に手の甲を押し当てたとき。
史郎は、甘えた声で言った。
「拭いてくれねえの?」
私は目を見張る。
調子外れに、一拍、心臓が跳ねた。
語尾に、とろかすような甘さがあって、気構えなく聞いた耳から身体に落ちた声は、簡単に全身の血を沸騰させそうになる。
一呼吸後、取り乱すのをこらえた私は、生真面目な顔を作る。
「邸にお勤めをはじめたばかりの私程度が史郎様に触れるなど恐れ多いことです」
流暢な返答は、私としては、上出来だった。
ところが、この一瞬に、史郎の満月色の瞳に霜が降りる。
針のように鋭い眼光に射抜かれ、震えた私から目を逸らし、史郎は鼻を鳴らした。手拭いをひったくり、部屋へ上がる。
とたん、日常的な問題が私を我に返らせた。
「すぐ、火を入れます」
「いらねえよ」
否定に、一歩を踏み出し損ねた私に、倣岸不遜な声が放たれる。
「俺の着替えをじっくり見たいってんなら、そうしろよ」
しゅ、と帯の解ける音が意外なほど大きく耳を打ち、私は慌てて部屋に背を向けた。
内心、ほっとしながら。
いつもの史郎に戻っている。それでも、反論はした。
「それとこれとでは、話が別です。手元が見えないでしょう」
「俺は違う」
陰鬱な否定に、私は我に返る。
そうだ。
時折、忘れてしまう。
彼は、あの。
北王。
「悪かったな。…その、お前も、早く着替えろよ」
とたん、耳に届いた恫喝めいた声に、私は目を瞬かせる。
一瞬なにを言われたのか分からなかった。
けれどすぐ、得心する。
謝罪だ。
おそらくは、さきほど手荒に私を振り払ったことに対する。
読んでくださった方、ありがとうございました!