第三章(19)
「見てよ」
幸い、蛍が気付いた様子はない。
隣に座った私に示すように、ざっと巻物を床の上に広げた。
そうだ、混乱している場合ではない。
策を。
何か、方法を考えなければ。
上の空で、蛍がため息と共に見下ろした書面を同じように覗きこんだ。
「やっぱり、これだ」
見えたのは、墨痕。
名前が、何行にもわたって書いてある。
そして、その下に続く、赤黒い痕。
これは。…血?
怒りを噛みしめるように、蛍が告げた。
「これが、盗賊に魂を売った商人たちの血判状だよ」
私は思わず身を乗り出す。
複雑な気持ちで。
皆が、開かない扉の唯一の鍵のように言っていたものが、既に開けなくていいようになってから手に入るなんて。
「…どこで、これを?」
「持ってたんだよ」
食い入るように、巻物の名を追いながら、蛍は固い声で言った。
「盗賊の首領がね」
「聞いて、おとなしく見せてくれる相手ではないと思うのですが」
蛍は鼻で笑う。
「気が合うね。あたしもそう思う。だからさ、…同じ立場で勝負してやった」
同じ、立場で?
すぐには、ぴんとこなかった。
首を傾げた私に、蛍は荒んだ横顔を見せる。
「懐から掏ってやったんだ」
同じ立場。
つまり、犯罪者の技術で勝負した、と言うことだ。
「小さい頃はこの腕で食いつないだんだ。恥ずかしいなんて思わないよ。ただ」
悪びれない蛍の声が、そのときだけほんの少し、小さくなった。
「商人になってからは完全に封印してる」
場合によって使い分けできるなら、どんな技術も持っているに越したことはないだろう。
蛍は開き直った態度で続けた。
「今回は、場合が場合だからね、使ったってわけ」
悪いのは、節度を保てないことだ。
だが、相手は盗賊の首領だ。
印象では、危険な男だった。
そんな相手から、ものを奪うなど、
「怖く、なかったんですか」
蛍は驚いたように顔を上げる。
「…意外だな」
「? 何がです?」
「や、凛さんて立ち居ふるまいからしてお綺麗だからさ、責められると思ってたって言うか正論で見下されると思ってたっていうか…なんっていうか…」
言いにくそうに蛍は口ごもった。
この場合のお綺麗、は褒め言葉ではないだろう。
「まぁ、何にしたって、今の盗賊野郎には理性ってもんはないから盗るのなんざ簡単だったよ」
私は首を傾げた。
理性が、ない?
何が起こっているんだろう。
私は、背後を気にしつつも、前方に目を向ける。
そこで行われているのは、凶悪な盗賊の捕りもの…その、はずだが。
一向に、悲鳴がやまない。
いや、そもそも、連鎖するこの悲鳴は。
―――――誰の。
疑念が掠めた、そのとき。
「ィアアアアアァァァアァアァァァァァァ―――――――ッ!!!!!」
乾いた何かをかじりとるような音と共に、奇声が放たれた。
直後、向こう側から何かが躍り出る。
人影?
…違う。
腹から何か、巨大なものが垂れ下がっている。
あれは。
「舌…?」
人体ならば、本来、胸と腹である場所。
そこに、縦の筋が入っている。
筋。
いや、それは開閉している。そして。
内部の左右に、ぞろりと生え揃っているのは。
細かい、牙。
「な、に」
呆然とする私の前で、蛍が跳ね上がるように立ちあがった。
私を庇うように両腕を広げる。
「あいつだよ!」
ゆらり、向こう側で傾いだ身体には、確かに、両腕と両足があった。頭も。
なのに、胴体に巨大な口があるのが、他が真っ当な人間であるだけに、異常さを増していた。
「人外…?」
思わず、喘いだ。けれど、妙だ。
人外、と言うには、何かが、違う。
何かが歪んでいた。取り返しがつかないほど。それでも、歪みは歪みに過ぎない。
「そう、見えるよね。けど」
蛍が、どこまでも真っ直ぐな瞳で、『それ』を睨みつけた。
「あいつが、盗賊の首領だ!」
呼ばれたように、ひょこり、俯いていた相手の頭が上がる。
その顔立ちは、確かに。あの時見た、盗賊の首領の顔。
だが確かに、彼は人間だった。
あのあと、何が起きたのか。
唐突に、彼は尋ねる。
乾いた声で。
「姫はどこだ?」
どこを見ているともしれない盗賊の目が、忙しなく左右に動いた。
「離宮に入ったぞ。たくさんのものを、奪った」
この腹に、と胴体にあいた口のふちを手で辿る。
だらりと垂れた舌が、ぼたぼたと唾液を漏らす。
「…姫は、どこだ?」
操られるように一歩、彼が前進した。
「ああ、まあいいか…」
しっかりしない思考を起こすように、盗賊はこめかみを叩く。
「全部食えば、―――――いつか姫にもあたるだろう」
ぎょろ、と目が白眼に裏返った。だが。
その視線が、私たちに定められたのを、肌で感じる。
駆け出そうと、盗賊の身が撓んだ。
私は咄嗟に後ろから蛍の手を掴む。
転がりこむように、柱の後ろへ飛び込んだ。同時に。
びたんっ、濡れた大きな何かが、向こう側に貼りつくのがわかった。
ぶるっと柱が揺れた、気がする。
同時に、生臭い蒸気を身近に感じた。
頭上を見上げる。と。
長い舌が、柱に巻きついていた。
爬虫類のように濡れた突起の浮いたそれが、柱を締め上げようと動く。
「嘘でしょ…っ」
今度は、蛍が私の手を引いた。同時に、駆け出す。
盗賊がいるのとは逆の方向へ。つまり。
「いけない、蛍さん、そっちは…!」
史郎が、いる。
思わず蛍を引きとめた。
本当に、ここは袋小路だ。進むも引くもならない。
たたらを踏んだ彼女は、苛立たしげに私を振り返る。
「はぁっ? いったい、なに…」
振り向いた彼女は、しかし、怒鳴ることはない。
唖然と口を開く。
私の背後を見遣った。
何が見えたか、引きつった声で呟く。
「…待ってよ、まだ死ねないのに」
私の耳が、その声を捕らえるなり。
「させん」
颯爽とした力強い声と風を、私は背中に感じた。
―――――フッ、鋭く呼気を吐く音。刹那。
振り向いた私が見たのは、…輪切りになった、肉塊。
舌のなれの果てが、体液をふりこぼしながら、廊下の上に点々と落ちていた。
私たちを背に庇うように、すっと立ち上がったのは。
「清孝殿」
「不思議だな、凛殿」
断たれた舌を腹におさめた盗賊を見つめたまま、清孝は爽やかに笑う。
破れ笠の下から覗く眼差しは、相変わらず、涼しげだ。
「あなたと会うのは、危険な場所ばかりだ」
しかも今回はとびきりだ。
とは、今、言うこともないだろう。
清孝を前に、相手はじり、と後ろに片足を滑らせた。踵を返す。
あり得ない跳躍力で、元来た方へ―――――が。
「逃がさん」
唸りを上げて、大太刀が迎え撃った。
鼻先をかすめたそれに、盗賊はたたらを踏んで踏み止まる。
そこにいたのは、夜彦だ。
大太刀を前へさしのばした両腕の先で真横に寝かせ、仁王立ち。
巨体も相まって、不動の壁に見える。
二人に囲まれ、盗賊はじりじりと身悶えた。
その腹の先、切れていた舌が、瞬く間に肉をまといつかせ、再生する。
「鉄壁の陣だよねぇ、ソレ」
不意に、夜彦の向こうから、明るい声がした。
同時に、世界を賑やかにする姿が現れる。
「でも念には念をってね」
見えたのは、赤、青、黄、緑…もはや元の色も分からないほどたくさんの色で斑に染まった長い髪―――――綾月だ。
ひとつに束ねたその根元から、彼は琥珀の簪を抜いた。
手首が気怠げに撓う。
簪が、盗賊の足元に突き立った。直後。
「…ぅっ?」
盗賊が、奇怪な声を上げ、硬直する。
動けなくなった盗賊を前に―――――しかし、誰も動かない。
「ちょっとっ」
苛立った声を上げたのは蛍だ。
「どうして始末しないんですか!」
その声に重なって、
「…やっと止まったか。ちぇ、小物過ぎると逆に、捕まえんのに往生するったら」
愚痴が、天井から落ちた。
見上げれば、少年が天井からぶら下がっている。
盗賊の真上だ。
隣で唖然となった蛍を尻目に、私は身を乗り出した。
「久嵐」
「おぅ」
久嵐は人懐こく頷いて返す。
すぐさま真顔になり、天井から真下の盗賊へ腕を伸ばすように手を突きだした。
「これから、祓寮に用意してもらった地下牢へコイツを飛ばすぞ」
次いで、綾月へ視線を向ける。
「あとは頼む」
最中、清孝と夜彦の囲い、かつ、綾月が与えた縛りから抜け出そうとしているのか。
盗賊の肉体が、また変容をきたし始めた音が立ち上がる。
そのとき、久嵐が、何かに気付いたように私と蛍の方を見た。
正確には、私たちの背後を。
久嵐は子供らしく顔をしかめる。
「ぅわあ嘘だろ、こんなときにどうなってんだよ」
いやな予感がした。
だが、振り返らずにはすまない。
「…誰さ?」
私より先に振り向いた蛍の呟きに、私はおそるおそる背後を見遣る。
「面白ぇもんができたなぁ?」
楽しげな声を上げた相手は、私たちから数歩の距離を置いて、立っていた。
満月色の双眸が、私を映す。
「史郎さま」




