第三章(18)
すぐ、思い直したように火滝は呟く。
「心配? いや、失う恐怖かな」
彼は口元を袖口で隠し、低く笑った。
それに史郎が負けた、と言いたいのだろうか。
史郎と私を、同時に嬲るような物言い。
しかし、火滝にそのつもりはないだろう。
一点、どこか無邪気で無垢な彼は、思ったままを口にしているだけ。
それでも、火滝の言葉に、息が吸いにくいほど、胸が苦しくなった。
私は強く、両手を握りしめる。
この、史郎の状況。責任の一端は、無防備だった私にもあるのだ。
これが。…鴉葉の、ひいては黒蜜の、狙いだったのか。
黒蜜は知っていた。史郎の闇を。知らないのは。
私、ひとり。
私が見つめる先で、闇が、史郎の身体を撫でて流れる。
―――――そのひとに、触らないで!
刹那、大きく、首を横に振る。
後ろ向きの思考を蹴落とすために。
ここで、私がぐずぐずしていても、埒が明かない。
私は意を決した。ぐっと顔を上げる。
「史郎さま」
彼にものを言う隙を与えず、私は早口に続けた。
「その闇との対決に、私も巻き込んでもらいます」
お願いではない。もう決定事項だ。
「…あ?」
史郎はなんだか気の抜けた声を出した。
予定外の方向からやってきた変なものと、出会い頭にいきなりぶつかったような顔。
「火滝に変なお願いをしたことを私が認めるのと、これは交換条件です」
言い捨て、決然と踵を返す。
同時に、必死で考える。
何かあるはず。方法が、何か。
直後。
まばらになった人外たちをかき分けながら、私はまさに脱兎のごとく駆け出した。
百鬼夜行が、先ほど現れた方向へ。つまりは離宮の内部へ。
今、逃げ出すのは、―――――…それも、戦いの内!
そう言えば、柘榴の姿がない。
あの、髑髏の少女の声は、次第に遠去かっていった。
…追って、行ったのだろうか。
だがもう、柘榴のことを考えている余裕はない。
彼女なら、大丈夫。柘榴なら。
試練を潜りぬけろ、とは言わない。ただ、また。
隣で笑い合いたい、と思う。
とにかく史郎から少しでも離れようと、私は必死に脚を動かす。
向かうは、離宮の中。
そこには盗賊たちと、―――――祓寮の皆がいる。
とにかく、離れなくては。
今の史郎は、あの闇は、危険すぎる。
落ち着いて考えられる場所が、必要だった。
事態を打開する方法を。
せめてもの、時間稼ぎに。
いきなり、楽しげな笑いが必死で駆ける私の背後で弾けた。
「タフな嫁御よな、よいよい」
「あいつ…なんて言い方しやがる。逆らえねえじゃねえか」
呆然としながらも、なぜか清々しいような史郎の口調に、私は内心、首を傾げる。
どうしてだろう。
あまり怒っていないようだ。
無論、怒ってほしいわけではないが。
「生き残ろうとぎりぎりまで知恵を絞る、これぞ人間の、尊敬すべき姿勢だ」
火滝の言葉に、史郎の不貞腐れた声が応じる。
「てめぇを死ぬ手前まで殴る必要ができたな」
「霊笛の君が走ったのは、吾の責任だと?」
切り刻むような史郎の声にも動じず、火滝は混ぜ返した。
「だが殴るためには、闇を乗り越えて頂かなくては」
突如、火滝の声の芯に、冷たいものが宿る。
「お二方なら、なんとかしてくださろう? なら、吾は」
おっとりした声と共に、背後から、今にも斬りかかられるような殺気が膨らんだ。
「全力で、時を稼ごう」
「おぅ、まぁ、」
感情が一切抜けた史郎の声が、つまらなさそうに応じた。
「やるか」
そこで私は、駆けてきた離宮内の通路の、角をまがった。
直後、気付く。
前方からも、激しい刃や怒号の応酬が響いてくる。
今まで分からなかった。
つまり、向こうから、騒動の源が近付いてきているのだ。
だがこのまま戻る方が危険だ。
前へ走る方が、確実に安全。
途中、転びそうになる。堪え、全力で駆けた。
不思議と火滝を案じる気にならないのは、彼から感じる余裕ある強かさのせいだろう。
にしても、さすが、侍従と名乗るだけはある。
あの状態の史郎を前に、ひとつも臆さなかったのだから。
一瞬、意識が背後に逸れた。
それが、いけない。
前方から同じように駆けてくる影に気付けなかった。
「え」
「あ」
気付いた時には、もう遅い。
「「きゃぁっ」」
悲鳴が重なった。
ぶつかった相手と共に、もんどりうって廊下をもつれ合って転がる。
受身も取りにくい体勢に、結局衝撃も殺しきれなかった。
痛い。
「あいたた…、ちょ、大丈夫?」
「っ、はい、へいき、です」
跳ね起きた。
身だしなみを整える。
最中、顔を合わせ、私は再度相手と共に声を上げた。
「凛さんじゃないかっ」
「蛍さん」
目の前で大きな目をさらに丸くしている少女は、間違いない、真珠通りの商人・蛍だ。
ああ、では。
彼等も参加したのだ。
今夜の、捕りものに。
では、虎一も来ているのか。
私は、蛍の背後を見遣った。
刹那、何を思ったか、私の前に立ちあがり、彼女は通せんぼするように腕を広げる。
「だめだよ、行ったら。ちょっととんでもないことになってるんだ」
逆方向も、ちょっととんでもない状況なのだが。
急く気持ちを押さえ、私は尋ねた。
「百鬼夜行は通り過ぎましたよね?」
ならば相手は盗賊たちだけのはずだ。
今朝、真牙のしたことで、その人数は減っているはず。
祓寮や武官たちが出揃っていれば、それほど大事にはならないはずだ。
しかも、そちらには久嵐や清孝が向かっている、と先ほど火滝が言っていなかったか。
それで手間取るのはおかしい…考えるなり、首を傾げる。
相手は、盗賊だ。
無法の犯罪者だが、ただの人間だ。
半ば戦闘狂の清孝ならともかく、久嵐まで出張るのはおかしくないだろうか。
いや、清孝は、今は久嵐のお守に専念している態度だった。
久嵐が関わらない戦いに、進んで手を挙げるとは思えない。
私ははじめて、感じた。
これは何か不穏だ。
「うん、そりゃそうだけど…って」
蛍は目を白黒させて、私と、私の背後を交互に見遣った。
「凛さんが今来た方って」
「はい」
頷くと同時に、蛍の瞳にちかりと白い輝きが反射する。
落雷に似た光線だ。
なのに、無音。
逆に物騒この上ない。
振り向くのが怖かった。
「いやなんでもない」
あたしは何も見なかった。
赤茶の髪をかき上げ、蛍は言い切る。
周囲を見渡し、彼女は柱に身を寄せるようにして私を手招きする。
「だめだ。進むも引くも、マズい気がする」
本当に、直観的な少女だ。正しい。
同感だが、危険の度合いには、一応、差がある気がした。
ならばまだ、離宮内へ進む方が簡単な気はする。とはいえ、
「ちょっと、この辺りで隠れていようよ。戦いであたしらが役立てるわけないし」
蛍の言葉にも一理ある。
史郎からもっと距離を開けるか。しばし隠れて対処の作戦を練るか。
…ちょっと、遠い目になった。
追い詰められ度合いはどちらも同じ気がする。
表情がないと言われる私の顔から追い詰められた感は伝わらなかったようだ。
蛍は呑気に柱を見上げ、木肌を叩いた。
「離宮って柱一つとってもばかにデカいよね」
まったくだ。
どんな巨人の棲みかだ、と広間を通るたびに思っていた。
全体が大きいので、ちょっと隅っこにいないと落ち着けない。呑まれてしまいそうだ。
頷き、私は蛍と共に柱の影に身を寄せた。
待っていましたとばかりに明るく微笑み、蛍はその場で座り込む。
私の足元で、懐から巻物を取り出した。
急かされる気分を持て余している私は、前後を気にしながら蛍に声をかける。
「あの」
距離は十分取った…とは言えないが、今なら史郎の目はない。
豊音に手をかける。
一か八か、奏でて見ようか。
逡巡した、刹那。
ぞっと背中が泡立ち、呼ばれた心地に私は慌てて足元の影を見遣った。
壁に掛けられた明かりに照らされ、淡く床に浮かぶ、その中央に。
―――――大きな黒い、針のようなものが突き立っている。
あろうことかそれは、私の影の動きと同じように動く。
床に突き立っているわけではない、つまり、物質的なものではなく…。
(いつから)
私はへたり込むように、その場に座り込む。
見られている。
誰に、かは分からない。
だが、針から感じる気配は。
史郎、の。