第三章(17)
(え?)
思わず、足を止める。
はじめに見えた異常は、闇。
先ほど、瘴気を引き裂いたのはこれだ、と直感で悟る。
史郎を中心に、その闇がとぐろを巻いていた。
この間、地下で見たものと同じ。
悟るなり、肩にちいさな爪が食い込む感覚があった。豆乃丞だ。
怯えたように、私に身を擦り寄せてくる。
真夏の熱気の中、その微かな温もりに気付くことで、私は全身が冷え切っているのを自覚した。
どうしていきなり、闇が史郎を蝕んでいるのか。
先ほどまでは、片鱗も見えなかったはずだ。
私が、百鬼夜行に呑まれる寸前までは、史郎には何の異常も。
「これはこれは、…いかんなぁ」
のんびりした声を聞いたのと同時に、頬に風を感じた。
誰かが、私の真横をすり抜けたのだ。火滝だ。
「呑まれるぞ、主」
声すら軽々と――――――、身を躍らせた火滝は。
ひとつの迷いなく、手にした太刀を史郎目がけて振り下ろした。
そこには確実に、火滝の全力が込められている。というのに。
リィン――――――ッ!
澄んだ音と共に、刃は史郎の肩口を噛んで止まった。
斬れた布地の下、わずかに垣間見えたのは、…鱗?
けれど火滝には間違いなく、史郎の身体を断ち切る準備があった。
小揺るぎもしなかった史郎は火滝を咎めない。
ただ不愉快そうに唸った。
「だっせぇ…」
それは、自分自身への言葉だったろうか。
遅れて、状況を理解した私の胸が冷える。
その重みに引きずられ、いっきに冷静になった。
冷静に、―――――制御し難い怒りがカッと頭を熱した。
「火滝」
気持ちのままに、名を呼んだ。
弾かれたように、火滝が振り向く。
思わぬところに油断ならない敵がいた、と言った態度で。
表情が乏しいと言われる私の顔に何を見たのか。
珍しく、目を見張った。
目を逸らす。
バツが悪そうに唇をとがらせた。
「そう、怒るでないよ。これは、主に頼まれていることなのだ」
親に叱られた子供のような態度で、火滝は続ける。
「アレに呑まれるようなら殺せと」
その、言葉と。
目の前で起こった事態に、心を右に左に小突かれる心地で、私は。
「史郎さま」
思わず叱る声で彼を呼んだ。
史郎もまた、目を逸らす。
私の視線に耐えかねたように。
居心地悪そうな彼に、再度呼びかけた。
「史郎さま」
未だ闇の影響から逃れられず、苦しげな史郎に、言い訳は、と言いたげに責める声を出すのは筋違いだろう。けれど。
誤魔化されるのは、いやだ。
史郎は言いにくそうに応じる。
「…あぁ、悪かったよ、火滝の言う通りだ」
答えは、求めたような言いわけではなかった。
どんな嘘でも、史郎が言ったなら信じたのに。
虚脱めいた心地に、私は肩を落とす。
「そう、ですか」
納得はできない。だが、そう答える以外になかった。
人外には人外の理があるのだ。私では…人間では、理解し難い何かが。
詰まるような私の言葉に、史郎は一瞬、途方に暮れた顔になる。
そんな顔をさせたことに罪悪感を覚えると同時に。
私の反応に見せる史郎の揺らぎに、嬉しくなる。救われる。
次いで、史郎は火滝を睨んだ。視線は明らかに、こう言っていた。
『余計なこと言いやがって』。
…言いがかりの、気もする。
太刀を鞘におさめた火滝は、両手を降参するように挙げ、厳かに告げた。
「主が呑まれなければ問題ない話だ」
小声で続けた言葉も、私は聞き逃さなかった。
「しまったな、霊笛の君は人間―――――理由に納得するどころか怒るとは想定外」
くわばらくわばら、と火滝は弱ったように身を竦める。
ふん、と史郎は鼻息荒く息を吐いた。
気遣うように私を横目にした火滝が、場を仕切り直すように咳払いを落とす。
「で、主」
分かっている、と言いたげに頷いた史郎に、火滝は微笑んだ。
「目は、覚めたかな」
史郎は面倒そうに首を横に振った。
「いや、正直、やべぇ」
上辺だけでも取り繕ってほしい、と史郎に心底思うのはこんな時だ。
それでも、私は。
どれだけ不安になっても、傷ついても、史郎の嘘がつけない本質が愛しいのだから、これはもう仕方なかった。
「おや」
火滝は目を丸くする。
彼の場合、本気で驚いた感じはしない。
演技とわかるように演技している、そんな気がする。
「弱気ではないか」
ふわり、火滝は史郎と距離を取った。
からかう物言いながら、素早い。
彼の後を負うように、闇が、一段、縛めから解かれたように、範囲を広げた。
…これは。
―――――本当に、危険なのではないか。
私は周囲に散った闇から守るように、慎重に豊音を帯に差し込みながら、思う。
だが、豊音から手を離そうとして、すこし逡巡した。
なにせ先日、あの闇を沈めたのは、霊笛の音だ。
今、豊音を奏でたらどうだろう? 思うなり。
満月色の史郎の瞳が、私を射抜く。
そして、…信じられないことを言った。
「俺から、逃げろ」
ぶっきらぼうな声に、私は言葉を失う。
なんてことだろう。はじめて見た。…ここまで悔しそうな、史郎なんて。
「祓寮の連中に、守ってもらえ」
自身で告げた言葉に、屈辱を覚えたように史郎の表情が歪んだ。
私は咄嗟に尋ねた。
「でも、史郎さまは戦うのでしょう?」
その闇と。
史郎は苛立たしげに、動かない私を睨む。
「行け」
最早、問答無用の命令だ。
私の言葉なんか、聞いていない。
だったら。
私も、聞かない。
刹那、わけのわからない反感が、私の胸の内で弾けた。
「あなたが戦うなら」
遠い場所に逃がされて、守られてばかりではいられない。
どこかで小さくなって耳を塞いでいるのなんて、まっぴらだ。
「私も戦います」
「ばかやろう!」
突然の怒声。いつもなら、身を縮めるそれに。
今日は。
頭に、血が上った。
「ばかでいい!」
とたん。
私の髪を跳ね上げ、真横を何かが掠めた。
同時に、史郎の呻き。
「くっそ…」
私は信じられない気持で、落ちてくる髪を手で押さえた。
先ほど掠めたのは、史郎が身にまとう、…闇だ。
少しでも軌道が逸れていれば、私の目に当たっていた。
「聞き分けろ。この、闇は」
気怠げに、史郎が言葉を続ける。
「凛を真っ先に始末する」
不意に、先ほど真牙が柘榴に言った言葉が脳裏を過ぎる。
―――――貴様は仇を討たずにおれんだろう。己が命の仇をな。
聞いた話が事実なら。
北王の前身は、真牙によって殺された。なら。
史郎にとっても、私は、…私の中にいる真牙は、前世の仇だ。
気もそぞろに、私は喘ぐように言葉を紡ぐ。
「どう、して、…ですか」
皮肉だ。本当に、世界はうまくできている。
均衡を保つ、とは。
こういうこと、なのだ。
長い目で見れば、どこかで採算が取れるようになっている。
何かを振り払うように、史郎は頭を大きく振った。
「この間、この黒いのを押さえこめた決め手は、凛の霊笛があったからだ」
ならば余計、私はここにいた方がいいのではないか。とはいえ。
言われて、理解した。
豊音を奏でようとすれば、たちまち、あの闇は私を傷付けるだろう。
最悪、命が消える。
「その、闇は」
聞いて、いいことなのだろうか。
説明のつく話なのだろうか。
悩みながら思い切って尋ねた。
「何、なのですか」
史郎はふと、虚脱した笑いを見せる。
いえ、諦め? ただ。
その中にさえ、彼特有の強さは消えない。
史郎は隠さなかった。
「俺の一部だ」
次いで、私を真っ直ぐ見据える。
「そして、俺が乗り越えるべきもの」
「…久嵐の、ように?」
直観のまま尋ねた声は、自信なく揺らいだ。
史郎は舌打ち。
「そうだ」
彼は私から視線を逸らさない。
「ヤツに偉そうに言いながら、俺はまだあの犬っころより前の段階で脚踏みしてんのさ」
不甲斐ない話だ、と言いつつ、史郎は堂々としている。
恥じてはいるが、隠しはしない。
陰にこもらない、こういうところが、このひとはひどく男前だ。
「気にすることはないぞ、霊笛の君」
火滝が、朗らかに割り込んだ。
「これは、主が未熟なだけだからな」
「おい」
微笑んだ侍従に、史郎は不機嫌に唸った。火滝に恐れ入った様子はない。
どころか、からかうように続ける。
「そうであろう?」
「うるせえ」
億劫そうに反論した史郎は、何かを堪えるように目を伏せた。いや。
何かと、戦っている?
今、この瞬間にも。
私に気付けたことが、分からないはずはないのに、火滝は面白がるように言った。
「先ほどまでは、きちんと体内の気を巡らせていたはずだ。それがどうして、こうなったと思う?」
火滝の目が、不意に私に向けられる。
「百鬼夜行に呑まれた伴侶が心配のあまり、―――――…隙をつくったのだ」