第三章(16)
脅しとは違う。
ただの事実を述べるような、だからこそ不吉な台詞だ。
告げられたのは、柘榴。
なのに、私まで身が総毛立った。
そのとき。
「「「あ」」」
私と『髑髏を抱く男』以外の三人が、揃って間の抜けた声を上げる。
何を感じたか、彼等は、一斉に同じ方向を見遣った。
先ほど火滝が穴を開けた場所だ。
呆気に取られたような雰囲気が、場に満ちる。
寸前との落差に、私は一人、戸惑った。
なんだろう?
分からないなりに、そちらへ目を凝らせば。
「おや…」
真っ先に我に返った火滝が首を傾げた。
「うん、仕方ないね、これは」
他人事のように呟く。
「失敗したな、主。そう言えば、覇槍公は」
征司の名に、私は意識を凝らした。
離宮に、彼の気配はない。
火滝が嘆息交じりに続ける。
「長老の見舞いに行ったのだっけね」
初耳だ。知っていれば、もらった珊瑚を言付けられたのだが。
まあ、個人的なことはともかくとして。
征司がそこにいるとことの、何が失敗なのか。いや。
この口調だと、征司がこの場に欠けていることを、忘れていた感が強い。なら?
「仕方ねえだろ」
うんざりと史郎が応じた。
「久嵐と清孝は捕りモノに参加したんだ。ヤツしか残らねえ」
ヤツ。私は少し考えた。
あ、もしかして…。
「入道野郎…今度毬にして遊んでやる」
私の背後、史郎が抑えた声で唸る。同時に。
「がははははははははははははははははっ!!!」
いつか聞いた磊落な笑い声と共に、穴から巨大な丸い物体が転がり出てきた。
丸いと見えたものは、修験者の格好をしているようだ。間違いない。
影介だ。
寸前に、火滝は脇へ避けている。
それが先触れだったように。
けたたましい嬌声を伴って、何とも知れない人外の群れが廊下へ雪崩込んできた。
『髑髏を抱く男』の姿は、瞬く間に呑まれて見えなくなる。
私は、唖然となった。
驚いたのだ。
気付かなかったことに。
実際目の前に現れるまで、この騒々しさがちっとも意識に触れなかった。
異様な話だ。
これでは、これらの進路を先読みしなければ、避けられない。
豊音を握りしめ、私は隠れるように背後の史郎に身を押しつける。
くるみ込むように、史郎は抱きとめてくれた。
人外の群れの周囲には、白とも黒ともつかない靄がかかっている。
あれは、瘴気だろうか。
それとも単純に、人外たちの熱気だろうか。
霧に似たそれが、波のように廊下の上を走ってくる。
「呆れたのう」
柘榴に動じた様子はなかった。
むしろ我に返ったように、いつもの調子で呟く。
「百鬼夜行を誘導するどころか、主の不在をいいことに、共に楽しくなって騒ぐとは…」
影介の話だろう。が
そうだとすれば、征司は主人としてきちんと彼の手綱を握っているようだ。
そこが意外と言えば意外と言えなくもない。
「分からなくもねえ」
史郎は肩を竦める。
「俺だって参加してぇんだが、最初は潰して回るしかなかったしな」
「冗談でもよくないのぅ。北竜公が踊り狂えばここら一帯荒野となる」
「いやなら、鬼女。いや、柘榴」
史郎は手にした煙管で、人外の波に『髑髏を抱く男』が呑まれた方を示した。
「あれを正気に戻せ」
柘榴が顔をしかめる。
挑発的に言い放った史郎は、迫る瘴気と百鬼夜行を前に、私をさらに引き寄せようと動いた――――――刹那。
「悪いね、北の旦那」
ひょうきんな声が私の耳元を掠めた。
どこかで聞いた声―――――思うなり、百鬼夜行の中から、腕が伸びた。
私の手首を掴む。
あ、と思う間もない。
思わぬ力で引きずり込まれた。よりによって。
百鬼夜行の…靄の中へ。
「ちょっと、貸してもらうよ」
満ちた瘴気のはざま、垣間見たのは、男の姿。
―――――黒髪、隻眼の男だ。無精ひげ。蓬髪、やせぎすで黒づくめ。
私は目を見張った。このひとは。
(鴉葉)
黒蜜の、眷属。
そうだ。黒蜜がいた。そして赤桐も。
骸ヶ淵に関わりあるものが、この地に揃っていると知っていたのに。
うっかり、忘れていた。いや、忘れていた、と言うのともすこし違う。
私は彼らの存在を、意識から、外していたのだ。
見つかっていないのだから、この地でこれ以上、私と彼等は関わらないだろう、と楽観していた。
油断だ。
なにより、誰も思わないだろう。
―――――北王の目の前から、彼の伴侶を掻っ攫う度胸を持つものがいるなど。
いっきに視界が瘴気に塞がれた。
同時に音も遮断される。
それなのに。
身体が、押し流されるように動いた。
水に流された時のように。
私の力では、抗えきれない。
引っ張りこまれるなり、手首を掴んだ鴉葉の指の感覚も消えていた。
つまりは、放り出されたわけだ。
にも関わらず、周囲に満ちた奇怪な熱気に、どう言うわけか、私も変に浮かれそうになる。
どこまでも流されていきたくなる衝動に気付き、私は息を止めた。
この、瘴気がいけない。
これ以上、吸いこんでは。
どうすれば、ここから出られるのか。
右も左も分からなかった。が。
史郎。
そうだ、史郎の気配なら、掴めないだろうか。
そこが、出口だ。
あれほど巨大な存在を、感じ取れないわけがない。
私は、流されそうな意識を叱咤した。
豊音を抱きしめ、史郎を探す。
そのとき。
―――――ヒュウウウウゥゥゥウウゥゥ…ッ。
突風が細い隙間を無理やり吹き抜けるような音が、突如響き渡った。
いやに胸が騒ぐ。
その感覚に、私は目を見張った。
なにしろこの間、聞いたばかりの音だ。これは。
あの髑髏の。
思うなり。
―――――お帰りになられた、お帰りになられた…っ!
今にも踊りだしそうなほど嬉しそうな少女の声が、脳裏に響く。
―――――戦場で死んだなんて嘘だったのね。あの子ったら、嘘ばっかり…。
だがそれもすぐ、しりすぼみになった。
―――――ああでも、どうして。
少女の声が、不安に揺れる。
―――――あなたのお身体はこんなに冷たいの? 塞がらない傷口、血も出ない。
何かを怖がる沈黙の後、少女は厳しく言った。
―――――だめよ。お父様のところへは連れていけない。ええ、分かっているわ。
少女は苦しげに喘ぐ。
同時に、私も詰めていた息を吐き出し、とうとう薄く吸った。
いつまでも息を止めていられない。
とたん、ぐっと少女の意識が私を呑みこもうと迫る。
こらえながら、耳を澄ました。
だってたぶん、この少女は。
―――――父に、わたしとの婚姻を許して頂ける条件、それが此度の戦での戦果。
瘴気の中、誇らしげに、顔の見えない戦士が足元を指差した。
いくつかの生首が垣間見え、すぐ、瘴気にかき消される。
―――――これほど敵の首級をあげれば、お父様も認めてくださる。けれど…。
苦悶を隠さない少女の声が、不意に金切り声に変わる。
―――――お父様に今のあなたを会わせるわけには…いいえ、いいえ!
…妹姫の言ったとおりだったのだろう。
戦士は、戦場で死んだのだ。
けれど、帰った。
愛しい姫の元へ。
死体で。
そんな化け物を、この地の支配者たる相手に会わせるわけにはいかない。
戦士を父親に会わせないのは、彼を守りたいためだ。
だが、相手から見ればどうだろうか?
姫の心変わりを疑ったかもしれない。
少女の声が悲痛に染まる。
―――――あなただけ。わたしには、あなただけ…! だからこそ…。
会わせるわけには、いかない。
…戦士に、状況の自覚が当時、どれほどあったのだろう。
思い出へ向かっていた泣くような声が、ふと翻ったのは、そのときだ。
―――――ねえ、あなたにならわかるでしょう? 妻なれば。
遠かった少女の声が、私の耳に冷たい息と共に吹き込まれた。
髑髏が、いきなり私に反応した理由を悟る。
私が、史郎の妻だから。
ならば。
焦りを押し隠し、私は慎重に言葉を紡いだ。
「あなたがあの戦士の伴侶、と言うなら」
この機会を逃がすわけにはいかない。
「もう彼を、眠らせてあげて下さい。それとも」
一度言葉を切って、私は身構えた。
「大切な相手を死後もあのように彷徨わせることが、あなたの望みなのですか」
言いにくいことを、厳しく言い切るには、私自身にも覚悟がいる。
とはいえ、相手が応じてくれるとは思っていなかった。
相手は人間ではない。
ほとんど期待していなかった、刹那。
―――――違う! ただ、怖いの! わたし、あの方を失望させてしまう…!
あまりの必死さに、私は息を呑んだ。
失望?
あれほど、望まれているのに?
先ほどの、様子から。
…あの戦士に、死後の記憶は曖昧なようだ。
果たして、そのとき。
何かが、起きたのではないか。
二人を狂わせる、何かが。
「なにが、あったのですか」
問うなり、少女から虚脱した笑いが返った。
答えはない。
代わりに。
―――――あの方が帰ってきたあと、わたしは懐妊したの。まさかと思ったわ。だって、あの方の身体は冷たくて…。
語った内容に、驚いた。
だが、それこそ、かつて柘榴が告げた言葉と一致する。
彼女は言っていたではないか。
―――――骸が母よ。父は死霊。それでも生まれ、生きておる。
信じられない。
あり得ない。
けれどそんな常識を覆す説得力が、少女の声にはあった。
―――――怖くなんてなかった。嬉しかった。奇跡だった。…なのに!
不意に、か細い声が激した。
―――――守り切れなかった。赤ちゃん。わたしと、あの方の…ごめんなさい、ごめんなさい…っ。
守り、きれなかった?
…奇妙な言い方だ。
まるで、敵か何かにでも奪われたかのようだ。
…彼女は、寿命で亡くなったわけでは、ないのだろうか。
柘榴の言い方では、母体の死後、彼女は誕生したようだが。
その、真偽は別として。
そのとき、何が起きたんだろう。
きっと、その出来事が鍵なのだ。
知りたい。
だがどのように尋ねればいいのか。
一瞬、意識を逸らしたのがいけなかった。
少女の謝罪の声が、気付けば、中途半端に消え去ろうとしている。
私は慌てた。
これが少女の負い目、罪悪感。
それによって、彼女は心を閉ざそうとしていた。
その隙間へ、どうにか滑り込もうと私は声を張る。
なんでもいい。
とにかく、少女を振り向かせる言葉が必要だ。
深く考えず、咄嗟に放った言葉は。
「産まれています!」
柘榴はいる。
この世界に。
太陽の下で、
「生きています!」
普通に考えれば、彼らが親子だなど、到底信じられない。けれど。
柘榴が言ったのだ。
信じるには、それで十分。
「あなたたちは、もう出会ってる!」
少女が振り向いた気配があった、瞬間。
周囲の瘴気が千切れ飛んだ。いや。
吹き飛ばされた。闇に。
人外たちの悲鳴が上がる。
身が千切れ飛んだのも多いのだ、無理はない。
それでも、楽しげに踊りの行進は続く。
その光景が逆に不気味で、私ははっきりと正気に返った。
行列の、外。
猛烈な気配に顔を上げると、―――――史郎の姿が見える。
彼の胸元でちかりとひかったのは、例の石英だろう。
ならば、人外の力は抑え込んでいるはずなのに、…こうも重い気配を放つのだから、その力のほどが知れようと言うものだ。
正直、怖い。
だが、彼の傍へ戻る以外の選択肢は、私の中に端からなかった。
私は覚束ないながら、人外たちをかき分け、彼がいるがわの壁へ向かう。
「史郎さま」
いかなければ。
帰らなければ。
とにかく、史郎のそばへ。
当たり前のように史郎へと駆け戻る途中。
史郎が苦しげに壁に手をついた。
(え?)
私は目を瞬かせる。
はじめに見えた異常は、闇。
先ほど、瘴気を引き裂いたのはこれだ、と直感で悟る。
史郎を中心に、その闇がとぐろを巻いていた。
思わず、足を止める。