第三章(15)
私は史郎を振り仰ぐ。
奇妙な物言いだ。殺せ、ではなく。
責務、と。
対する柘榴は、と言えば。
史郎の威圧に屈するどころか、童女のように唇を尖らせた。次いで、
「断る」
拗ねた顔でそっぽを向く。
彼女の度胸は買う。だが、この場合に発揮するのは間違いだ。とはいえ。
別の意味で、私は驚いた。
なにせ、かつての彼女は、こう言っていたからだ。
―――――わたしはこれから、どうすればよいのじゃ?
なんの目的もなく、ただ命令に従うだけが、柘榴と言う女性だったはず。
それが、今。
…彼女の変化に気付いているのか、否か。
「そうか」
史郎は喰い下がらなかった。あっさり柘榴に背を向ける。即ち。
私に向き直った。
満月色の目が私を見下ろす。
史郎の表情は、静謐だ。
怒りの気配はない。
史郎の手が私に差し出された。
取っていいのか、と迷う気持ちはまだ大きい。
惑いを隠せないまま、おそるおそる手を重ねる。
慎重に手を引かれた、と思った時には、史郎と向かい合う格好で立ちあがっていた。
「…北竜公?」
何も言わない史郎が、逆に不穏だったか、柘榴が呼びかける。
振り向かず、史郎は。
何を思ったか、私の頭を撫でた。
唐突だ。
なんにしろ、くすぐったい。
思わず身を竦めた。
目を閉じて、気付く。
撫でているのではない。
髪を梳いてくれている。
そんなに乱れていたろうか。
恥ずかしさに、つい、俯く。
小さくなった。
普段はもっときちんとしているんです、と場違いに主張したくなるのを無理に呑み、堪える。
「よし、直った」
何がどうなっていたのか、満足そうに小声で呟いた史郎を、上目遣いで見上げる。
気恥かしい。
「あ、ありがとうございます…」
「おう」
史郎が悪戯小僧みたいな顔で、小さな子供のように笑うから、ますます照れてしまう。
「主、人外には伴侶以外目に入らんのは分かるが」
苦笑気味に火滝が呼びかけてくるのに、私は顔のほてりを隠せないまま、どうにかそちらを見遣った。とたん。
頭が冷える。
見えたのは、慣れない錘のように頭を揺らす『髑髏を抱く男』。
「これ以上は、吾だと殺してしまう。どうにか、できないものか」
柘榴が即応する。
「殺せばよかろう。もとから、死んではいるが」
「主が許すなら、迷わないとも」
本気か冗談か、火滝はおっとり微笑んだ。
「だが許可が下りないのだ」
史郎は舌打ちした。
「役に立たねえヤツ」
火滝は照れたように物騒なことを言う。
「障害は叩き潰すしかできなくてな」
言葉の内容と表情が、合っていない。
「―――――脳筋が。仕方ねえ」
いかにも、しぶしぶ、史郎は私の肩に手をかけた。
『髑髏を抱く男』に向き直らせる。
肩に手をかけたまま、後ろから私の耳元に顔を寄せた。
「物は試しだ。凛」
史郎は唆すように囁く。
「奏でろ」
柘榴は眉を潜めた。だが動かない。それはそうだろう。
この場で、私が霊笛を奏でたとして。
―――――何が起こるのか。
柘榴には理解できなかったに違いない。
霊笛には人外に対して有用性が認められるが、それは武器に通じるような攻撃性とは異なるものだ。
第一、霊笛の演奏者とはいえ、私自身がどうにかしたい、と思ったところで、それはちっぽけな願いにしか過ぎない。
霊笛の力が作用するのは、想いをはるかに超えた場所だ。
とはいえ。
確かに、物は試し。
やってみなければ分からないなら、やるだけだ。
帯から豊音を引きだす。
よくよく、『髑髏を抱く男』を見つめた。
この状況は、何かが、…どこかが歪んでいる。
では、まず、何をすべきか。
―――――戻すことが必要だ。
本来の、あるべき正しい状況へ。
でなければ、届けたい思いも、届かない。
どんな真っ直ぐな声も、周囲の歪みに反響すれば、相手に届く頃には元の形を崩しているだろう。
そのとき、ふと思った。
『髑髏を抱く男』が狂ったように古戦場へ向かう理由もまた、そのため、ではないのだろうか。
彼は、戻ろうとしている。あるべき正しい状況へ。
きっと、目の前の、何かが曇っているのだ。見えないものがある。
それをはっきりさせたいのだ。彼は。
何を感じたか、柘榴が落ちかなげに私を呼んだ。
「凛」
それが、合図だった。
豊音の音が、大気を貫く。矢のごとく。
『髑髏を抱く男』の身が、びくん、と弓なりに反った。音に射抜かれたように。
直後、獲物を認めた獣の動きで、うっそりと私を見遣る。
恐怖はちっとも感じない。だって今、私は史郎の懐の中だ。
背後にいる史郎が、ひそりと笑う。
「いいな、最高だ」
掠れた声で、陶然と囁いた。
「…もっとだ、凛」
史郎は、私の霊笛の音が気に入りだと確信させる声だ。
それだけで、私をいい気分にさせてしまう。
「おや」
火滝がのんびり笑った時には。
「行ったよ、主」
―――――黒い狐面が私の目前に迫っていた。
その勢いすべてを乗せた蹴りが私の身を抉る寸前。
「悪趣味、な…!」
その蹴りを、さらに真横から蹴りつけたのは―――――柘榴。
彼女は、私を守るように眼前に立った。
史郎が不機嫌そうに言う。
「邪魔だ、鬼女。凛の守護は、俺だけで十分」
「はて。以前、わたしに凛の守護を命じたのは誰だったかの」
柘榴が、冷えた声で応じた。
その間に、『髑髏を抱く男』は私たちから幾許かの距離を置いて着地した。
獣のそのものの動きで、こちらを警戒している。
「止めよ、凛」
苛立たしげに息を吐き、柘榴が鋭く尋ねた。
「なにをしておる?」
柘榴が言っているのは、霊笛を奏でることで、何をしようとしているのか、と言うことだろうが。
私自身、霊笛で何が起こるかは、読めない。
なにせこれは、起こればやっと明らかになる、と言った類の物事だ。
「柘榴、お前こそなぁ」
話せない私の代わりに、史郎は億劫に口を開いた。
二人の会話は、すぐ近くで交わされている。
が、その声が不意に遠くなった。
「…何がしてぇんだ?」
いきなり、『髑髏を抱く男』の内側を流れる気が見えたからだ。
咄嗟に、目を凝らす。
それは、半分が欠けていた。
彼は確かに、生者ではない。死霊だ。
この世に存在すること自体が間違い、では、―――――あるけれど。
「死霊は消滅させるのが筋だろうが」
「北竜公!」
何かを耐える声で、柘榴が唸る。
それでも、『髑髏を抱く男』はこの地に留まっていた。
私は彼を滅ぼしたいわけではない。
現状、この場の歪みは彼の存在自身だが。
まずは、そうまでして死した魂が大地に留まり、その上で、こうまで大きな動きを起こした理由を知りたい。
その原動力は、なんだろう。
―――――縺れの核は、なに?
疑問を、言葉でうまく死霊に届ける自信は、私にはない。だが、音ならば。
史郎と柘榴が睨み合った、刹那。
「…時間が、ズレている」
独り言のように、小さな呟きがその場に落ちた。
『髑髏を抱く男』の声だ。他の、誰でもない。
(あ、)
―――――捕まえた。それが、分かった。逃がせない。逃がさない。
私はいっそう慎重に音を紡ぐ。
息を呑んだ柘榴が振り向いた。
火滝が表情を引き締める。
史郎が鋭く尋ねた。
「なんのだ」
「自分と姫の、…時間が」
片腕に抱えた髑髏に狐の面が向く。
「自分は死んだ。だが姫は生きていた」
そう、と髑髏を眼前に捧げ持つ。
「あの方が呼ぶから、還った。…だのにどうして」
壊れやすいものを掬い取るように。縋るように。
「姫が、骨になっている?」
柘榴が胸元で、強く拳を握りしめる。
「おかしいではないか」
『髑髏を抱く男』の声に、狂的なものがちらついた。
「自分の肉体はどこにある」
正気と狂気が複雑に編み込まれた言葉は、恐ろしいと言うよりただ悲しい。
「姫と共にあったはずだ。どこへ行った。姫は」
切々と訴えるようだった声に、ふと、闇が宿った。
「なぜ、死んだ」
一瞬、時間が止まったかのような心地になる。刹那。
火滝が、『髑髏を抱く男』へ致命的な斬撃を振り下ろしていた。
闇に呑まれるような危機感が私だけのものでなかったということだろう。
呆気に取られたその時。
「おっと」
間の抜けた声と共に、刃の軌道がわずかに反れた。
真横からの攻撃にも関わらず、『髑髏を抱く男』も反応してはいたが、そうでなければ片腕は落としていたはずだ。
「しまった。反射で始末しそうになった」
反射で、始末。
火滝の前では、うっかりした行動は取れそうにない。
あまりのことに、私は霊笛の音を止めていた。
のんびり言った火滝から距離を取っていた狐面に、ひびが入る。
「…面が…」
柘榴が喘ぐように言った時、漆黒の狐面が、二つに割れて、床に落ちる。
現れたのは。
柘榴とよく似た面差し。
千華の昔語りを思い出す。本当だ。
二人の間に、血のつながりを連想しない方が難しい。
退屈そうに、史郎が言う。
「で? どうする」
声を向けられた、柘榴は。
―――――動かない。動けない、のか。
「自覚はあるな?」
実に面倒そうな態度で、史郎は容赦なく追いたてた。
「責任は、お前自身にもある」
「わたしは…っ」
反論しかけ、結局柘榴は唇を引き結ぶ。
「いいぜ? 逃げても。ただし」
史郎の声は厳しい。
「後悔すんなよ」