第三章(14)
「わたしは知っておるよ。凛は、」
ふわり、顔に風が当たる。
と感じるなり。
「―――――そうよな」
目の前に、柘榴の顔。
私は目を見張る。刹那に理解した。
避け、―――――られ、ない。
ただ、目は逸らさない。最後まで、あきらめるつもりはなかった。
それでも、どこに攻撃が来るか、分からない。
分かることは、ひとつ。
柘榴が本当に望んでいるのは、コレではない。
だって、彼女は、…寂しげだ。
柘榴はおそらく、自分の行動の意味すら、分かっていなかった。
だから。
願うように心の底から、強く思う。
ここで、殺されるわけにはいかない。
とたん。
「悪いが」
私の口から、いきなり、億劫そうな声が落ちた。
「…因果は断ち切らせてもらう」
いきなりのことに、私は面食らう。
これは、真牙だ。
間違いない。
けれど。
自身の立場を弁え、関わり過ぎる私を叱咤するような彼が、ここまで迷いなく現れるとは。
いつもと違う。
確信した刹那。
私の身体が、わずかに反らされる。腕が持ちあがった。直後。
―――――ゴッ!!!
轟音が左耳に飛び込んだ。
柘榴の拳が壁にめり込んだのだ。壁土が飛び散り、木材の破片が舞った。
その一部が耳を切ったか、鋭い痛みが走る。
そのときには、柘榴は弾かれたように私から距離を取っていた。
向かいの壁前に立ち、舌打ち。
「誰かは知らんが」
柘榴が私を睨む。正確には、真牙を。
それは、さっき、私に向けた眼差しの比ではない。
酷薄に、冷えている。
「凛から出ていけ」
「貴様が」
真牙は冷静に応じた。
「運命の操りの手を拒否するならば」
「運命?」
柘榴の声は、面白がるようで、その言葉を心底ばかにし切っている。
「くだらんな」
「貴様には言っていない」
動じず、真牙は柘榴の胸元を指差した。
「貴様の中にいる…古い友への忠告だ」
古き、友?
その言葉に、なぜだろう。
私は、亀の夢の中で見た褐色の肌の青年を思い出す。
―――――南翔王、と呼ばれた青年を。
彼は、殺された。真牙に。私は息を呑んだ。
そのことを、指しているなら、…やはり。
柘榴は。
「聞け」
何かを言おうと口を開いた柘榴を遮るように、真牙は片手を横へ薙ぎ払う。
「無意識であるならば、貴様は仇を討たずにおれんだろう。己が命の仇をな」
「命の仇じゃと?」
怪訝な柘榴に、真牙はため息で応じた。
「そら、分かっていない」
「…まるで凛が、わたしを殺したような物言いじゃのぅ」
「然り」
真牙は、ひとつも迷わない。言い切った。
「やったのだから、やり返される。それが、世界が均衡を保つ術だからだ」
柘榴が鼻白む。
「何を言っておる? わたしは生きておるが」
「思い出せとは言わない」
柘榴は不快気に眉を寄せる。構わず、真牙は続けた。
「だが、魂は知っているはずだ」
真牙の口調は、淡白で、億劫そうな気配がある。
だからこそ逆に、誰が聞いても、嘘や誤魔化しが言える相手とも思えないはずだ。
「もっと目をこらせ。衝動に流されるな」
真牙の言葉の何が、心の琴線に触れたのか。
不意に、柘榴の表情に、不思議そうな色合いがにじんだ。
「…お前は…」
「誰が忘れようとも、起こった出来事のすべてを世界は覚えている」
彼はかつて、何を見たのだろう。
真牙の言葉は、確信に満ちていた。
「しっかり目をこらせ。今の行いは真実、己の望みか」
戸惑いがちに唇を震わせた柘榴を前に、真牙は強く言い切る。
「俺たちの間でかつて終わったことを、ここに持ち込むな」
直後。
私は弾かれたように天井を見上げる。いや、これは真牙が。
次いで、目の端で柘榴がバツの悪そうな顔になった。
豆乃丞が廊下の端に降り立ち、身を縮める。
「―――――来臨なさるか」
真牙が呟いた。刹那。
―――――空気が、爆ぜた。
たちまち全身に走った、痺れるような衝撃は近くに雷でも落ちたかのようだ。
力が抜けた。堪らず、座り込む。
同時に、柘榴と私の間に現れた人影を見た。
それが誰か、なんて。
背を向けられていても分かる。
思わず彼の名を呼んだ。
「史郎さま」
史郎の名を口にできたことで、気付く。
真牙の気配がない。
瞬く間に消えていた。
呼び止める暇もない。
むしろ、真牙は私との対話を避けている感があった。
戸惑うが、確かに彼は、死者なのだ。
当たり前のように対話していい相手ではなかった。
あまりに迂闊な自身を戒めながら、私は座り込んだまま史郎の背を見上げた。
彼越しに見えた柘榴は、どこかが痛むように顔をしかめている。
「よぉ、柘榴」
対する史郎の口調は、いつも通り。
乱暴。雑。不機嫌。なのに、品がある。
手にした煙管を面倒そうに上下させ、面倒そうに言った。
「面白ぇくらい―――――腑抜けてんな?」
応じるように、柘榴の双眸から温度が抜ける。
「北竜公ともあろうものが、解決に時間がかかって居るではないか」
分かりやすく、挑発を仕掛けた。
背後にいても、史郎が目を細めたのが分かる。
大概のものが震えあがる物騒な彼の表情を前に、柘榴といえば、素知らぬ顔で続けた。
「力で平らげてしまえば早いものを」
直後。びり、と空気が帯電した心地になる。私は思わず腕をさすった。
気付いたか、史郎が私側へ一歩下がる。案じてくれる態度に、ホッとした。
ただし、柘榴へ向ける声は容赦ない。
「…おいおいおい、なぁ、分かってんだろ、あ?」
突如、目の前で、史郎の拳が。
強く固く、握りしめられる。血の色をなくすくらいに。
「お膳立てしてやったんだ。凛に甘える暇があるなら、いい加減、」
殴りつけるような怒声が、いきなり降った。
「腹ぁくくれ!!」
応じるように。
―――――ど、ごんっ!
廊下の向こう、そう離れていない場所に、…穴が開いた。
向こう側から吹っ飛んできた何かが開けたようだが―――――唖然と見遣れば。
「ふぅむ、困ったものだ。いつになっても慣れんな。手加減、というものは」
穴の向こうから、おっとり刀で現れる、水干姿の男。
相変わらず、乱れがない。
力技で壁に穴を作成した人物とは思えないほど優雅だ。
のんびり袖で鼻と口を覆い、ふと、目をこちらに向ける。
人外の王の一柱、北竜公の侍従と名乗る彼は、場違いに呑気な所作で手を振った。
「すまんな、主。吾はまた迷ったようだ。辿りつけたようで重畳」
火滝は、にこり。
何事もなかったように頷いて返す史郎の態度に、慣れを感じる。
史郎は、すぐ柘榴に向き直った。
「柘榴」
呼びかけは、胃の腑を抉るほど重い。
聴こえているのかいないのか、柘榴は火滝を見遣った。否。
赤い目が映すのは、彼からわずかにそれた、場所。
そちらを見遣った私は目を見張った。
ゆぅらり、幽鬼じみた動きで起き上がった人影がある。
男。黒い、狐面。その腕には。
―――――髑髏。
史郎は厳かに命じた。
「責務を果たせ」