第三章(13)
消えたい。思うなり。
(…え?)
それまで何の反応もしなかった豆乃丞が、肩の上で、ぽんっと膨らんだ気がした。
すぐ近くの緑の羽毛を横目にする。
と、豆乃丞が全身で力んでいた。力の入れ過ぎで、ぷるぷるしている。
何がどうなっているのか。思う端から、
「悪企みで頭がいっぱいの人間に」
私が隠れている木の幹に、志貴の手がかかった。
「あんな音は出せないよ」
向こう側からあっさりと、志貴が顔を見せる。
私はいっぱいに見開いた目で彼を見上げた。が。
「…おや」
違和感に気付いたのは、すぐだ。
志貴は虚を突かれた表情で、私を見下ろす。
そんな表情は、意外なほど幼い。戸惑いの眼差しを私の周囲にたゆたわせた。
どういうわけか、何もない場所を眺めるように、視点が定まらない。
すぐ、離宮の方を見遣る。
「いた気配は、あるんだが」
頼りない志貴の声が、不意に落ちた。
私は息を呑みそうになった衝動を、必死に堪える。
間違いない。今、彼に私は見えていない。
咄嗟に、肩口に意識を向けた。
―――――豆乃丞?
この子が、何かしている。隠形か。こんな力があったなんて。
とはいえ、限界があるに違いない。
志貴は目の前で呆気に取られ、立ちつくしている。
早く立ち去ってくれないと、危険な気がした。
嫌な汗をかいた、刹那。
遠くから、波濤のように何かが押し寄せ―――――生臭い風が、粘つく蜘蛛の巣のように乱暴に絡みつきながら吹き抜けた。
嫌な感覚に、息が浅くなる。
志貴も感じたのだろう。改めて、周囲を冷静に見渡した。刹那。
「志貴さま」
幼い声が、毅然と夜の青い闇を震わせる。志貴の表情が引き締まった。
「始まったかね、朔」
蹲っている私からは、茂みに隠れて朔の姿は見えない。
向こうからもそうであろうことは、幸いだった。
志貴には見えないとはいえ、同じように祓寮の者の目からも、逃れられると楽観はできない。
第一、朔はほとんど気配がないから、探りにくいのだ。
「…こっち」
朔の言葉は断片的だ。撒かれた割に、恨み言の一つもない。
志貴にしても、逃げ続ける理由はないのだろう。朔に従い、黙って踵を返した。
足早に立ち去る気配に、私はゆっくり緊張を解く。
慎重に木陰から這い出した。目で見ても誰の姿もないことを確認する。
そこまでしてようやく、私は肩の鳥に声をかけた。
「もう大丈夫です、豆乃丞。ありがとう」
とたん、豆乃丞の身体が、空気が抜けたように萎んだ。
小さく丸くなって、もう休む姿勢に入っている。
この子は一体、どんな能力を持っているのか。
一度色々試したいものだ。
とにかく、今は。
私は一度、深呼吸した。気持ちを切り替えなければ。今考えるべきは、
(百鬼夜行)
志貴は、それらを離宮に『通す』と言った。ならば。
人外には、道を開ける。ただ。
―――――盗賊たち、は。
別と言うことだ。
彼等とは、ここ決着をつけるつもりだろう。
祓寮も、今宵ばかりは対人間の戦いに駆り出されるのではないか。
盗賊の首領と思われる男の狂気を思い出す。
一瞬、身が竦んだ。怖い。もう関わりたくはない。
そもそも、盗賊たち相手では、私は役に立たないのは分かり切っていた。
ならば、そちらからは逃げてしまおう。
あっさり私は心に決めた。
気になることは、他にあるのだ。
それは、柘榴に関わる事実。つまり。
『髑髏を抱く男』のことを、私は知りたい。
いや、知らなければならない。でなければ。
このまま見過ごしてしまえば、柘榴との縁が消えてしまいそうな予感があった。
千華姫が語った昔語りは、どこまで真実なのか。
私は、木立の中で立ち上がった。冷静に、身体をほぐす。
伊織たちから、何を望まれているかを考えれば、大人しくしておくこと、としか思えなかった。
ゆえに、決意する。
―――――見つかれば束縛されるなら、一人の内に、勝手にさせてもらおう。
幸い、現在、私を縛る人は、誰もいない。
離宮に向き直った。一風変わった気配が吹き付けてくる。
嫌な風と言うよりもむしろ、…浮かれ騒ぐ気配が。
賑やか。その割に、空虚。
派手な足音が縦横無尽に轟いているのに、部屋を覗くと誰もいない、といった風な奇妙な違和感に満ちた気配だ。
怯みそうになる。頭を横に振った。竦む足を叱咤し、駆け出す。
横目で、帯に挟んだ霊笛を確認した。
百鬼夜行が目指すは、裏門。彼らが最終的な目的地は古戦場だ。
進み具合から考えて、百鬼夜行は離宮の正面から入ったはず。
きっとその先頭に、彼がいる。
『髑髏を抱く男』が。黒い狐面の男。
ぐるり、離宮を回り込み、建物の壁伝いに私は駆けた。
ずっと夢を見ていた気がするが、肉体はきちんと休息がとれていたらしく、身が軽い。
視界は不意に、開けた。
裏側に来たのはこれが初めてだが、数歩先に見える、木立に隠れるような出入り口が離宮の裏口だろう。
まだ何の気配もない。
見張りがいないどころか、誰も辿りついていないらしい。
そこで、ぼんやり待っているのも間抜けだ。なら。
「迎えに、行きましょうか」
誰も控えていない上り口で、私は履き物を脱ぎ捨てた。
離宮の屋内を、内部へ向かって疾走―――――あり得ないほど無人だからこそ、できる行為だ。
最中、向かう先から、わっと鬨の声が上がった。
向かう先に、誰かがいる。
その事実に、命の気配が乏しい無人の空間の中、私はホッとした。
戦いの気配に、…あってはならない反応だが。
おそらく、盗賊が、離宮に現れたのだ。ならば、『髑髏を抱く男』は、もう。
気を引き締めながら、私は角をまがった。その、先に。
…立ち尽くす、人影が見える。男ではない。女。額には、…角。
驚いた。思わず、声を張る。
「柘榴っ!?」
前後して、柘榴が振り向いた。珍しく、意表を突かれた様子で目を見張る。
「凛?」
とたん、彼女は助かったと言いたげな顔になった。
…どうして?
眉を潜めた私に近づきながら、柘榴は上機嫌に言う。
「いかんな、凛。ここは危険じゃ」
私は思わず立ち止った。柘榴が手を差し伸べる。
「安全な場所へ送ろう」
声は、優しい。けれど私は、彼女の手から身を引いた。
どうして、と言われても説明は難しい。
ただ、ここで柘榴の手を取ってはいけない気がしたのだ。
なにより、私は先へ進みたい。ゆえに、彼女に従うわけにはいかなかった。
「―――――凛?」
柘榴が幼子めいた戸惑いを顔に浮かべる。
私の態度が理解できないと言いたげに。…それは、分かる。だが。
次いで、彼女の顔に浮かんだ警戒は、いったい何を意味するのだろう。
ひとまず、私の望みを伝えるのが先だ。
私は彼女が背を向けた廊下の先を、示すように指差した。
「柘榴、私は、…先へ進みたいのです」
一瞬、柘榴の顔に、理解が浮かんだ。背後を疎む態度で目を背ける。
「何があるか、承知の上で、かの」
頷けば、柘榴は苛立たしげに私を睨んだ。
「凛では邪魔にしかならん」
容赦ない断定。でも怯めない。
「柘榴は違うでしょう」
私は足手まとい。でも柘榴は立派な戦力だ。
場の外で私の護衛につくより、ここに残った方がよほど有用だ。ところが。
私の、指摘に。
柘榴の双眸が、一瞬、怯んだ。動揺に、揺らぐ。やにわに、悟った。
「柘榴、まさか」
―――――逃げたいの?
思わず、私は言葉を呑みこんだ。
言えば、柘榴を意固地にさせそうな気がした。
それは単純に、強力な敵を前に怯む、と言う態度ではない。もっと、別の。
「…凛の、安全は、―――――北竜公の願いぞ。命を賭して凛を守るのが、わたしにかけられた呪いじゃ。忘れたか?」
彼女が言っているのは、西方でのことだ。それは、事実。けれど。
「ねえ、柘榴」
厳しく響かないように、私はそっと言葉を紡ぐ。
「私を言い訳に使わないで」
柘榴は目を伏せた。唇を噛む。
私の中で、疑念が確信に変わっていく。柘榴は怖いのだ。
根っからの戦士である彼女が、戦いを恐れることはない。怖いのは。
…『髑髏を抱く男』との対面だ。
南方で会ってから柘榴は妙に、切れ味が悪い。
余計なこと、かもしれなかった。だが私は、このままでいいとは思えない。
「…百鬼夜行を終着地点までいかせれば、それで事態は解決するのかもしれないけど…」
だから、言いにくいことを、無理に口にする。
「『髑髏を抱く男』と話す機会は、今を逃せばもうないのではありませんか」
「話なぞ、わたしは望んでおらぬ」
早口で応じた柘榴の双眸は、暗かった。
私は、地下のあり様を思い出す。
今崩れ去ろうとしているあの場所は、守護の意志に満ちていた。
柘榴が、両親に対して何も思っていなかったはずはない。
だが、柘榴の心が事態に追いつくのを待つには、本当に、時間がなかった。
「柘榴」
私の呼びかけに、柘榴の顔に険が走る。
「うるさいのぅ」
呟くなり。
柘榴は嫣然と微笑んだ。
背が冷たくなる。
肩の上の豆乃丞が身を固くした。
「…もう、ままごとは終いにするか。それなりに楽しかったがの」
突如、すっきりした声で、柘榴は私を呼んだ。
「ではな、凛」
見えたのは、子供のように無邪気な笑顔――――――だが柘榴はこう言うときが危険だ。
私は咄嗟に横へ跳ぶ。
豆乃丞が天井近くに舞い上がった。
空いた空間を柘榴の拳が薙ぎ払う。
ほ、と柘榴が息をこぼした。
「師として小春は優秀のようじゃ」
確かに。
小春の修行がなければ、私の頭部は今、果実のように割れ弾けていただろう。
倒れそうになり、強か肩を打った壁を向こうへ押しやるように、私は振り向く。
ただし、今の回避は偶然と言うか、奇跡だ。
いや、柘榴は加減していた。正確には。
私を舐めていた、だけ。
殺意は本物。違う。殺意なんてものなくても、彼女は他人を殺せる。
足元に見えた邪魔なものを片づける、その程度の感情しか柘榴にはない。
柘榴の出方を必死に探りながら、私は口を開く。
「史郎さまの呪いは、どうするの」
私を害せば、その痛みは自身へ跳ね返ってくる。
私の物言いに、柘榴は一瞬、目を見張った。次いで、楽しげに微笑んだ。
「ふふ、ついた首輪を掴んで容赦なく振りまわすような言よな。だが」
柘榴は私に向き直った。来る。次の、攻撃が。ああもう。
彼女に、相手を嬲る趣味はない。つまり、攻撃一つ一つが一撃必殺。
避けられるか。悩む暇などない。
避けなければ、次はなかった。