第三章(12)
彼は俯く。手の内の太刀に目を落とした。
握ったものが、太刀であることを確かめるように。
「すこし…」
志貴の双眸に、月光に冷たく光る刃の輝きが反射した。
直後、自嘲気味に声を揺らす。
「身体を動かしたくてね」
表情は冷静に、志貴は丁寧に鞘へ収めた。
「朔に言われたかい? 撒かれたから捜してほしいと」
朔の名が出てきたのは、『蘇芳』を祓寮の人間と思っているからだろう。にしても。
撒いた。朔を。護衛を? つい、疑問に思う。
志貴は要人としての自覚をどこに捨ててきたのだろう。とはいえ。
独りになりたいと言う気持ちが分からないでもない。
ひとまず、注意を促すために、今は離宮こそ危険な場所だと遠回しに口にする。
『離宮に百鬼夜行を通すとお聞きしております』
志貴はふと、楽しげに笑った。ごく普通の親しみやすい青年といった風情で。
謁見の間で見た油断できない相手と言う雰囲気は欠片もない。
「面白い娘がそう言ったのでね」
一瞬、心臓が跳ねた。私の話がでるとは思わなくて。
「乗らせてもらった。僕が言い出そうと思っていたんだが、先を越されたよ」
内心、青ざめる。無礼な行動だったろうか。思わず、不快気に応じる。
『失礼な娘もいたものですね』
あのときの私が、出過ぎたのは事実だ。志貴は肯定も否定もしなかった。
「勇敢には違いないね。最初、おとなしいお人形だと思っていたのだが」
幸い、声に怒りはない。
へんに邪魔をしないで済んだのなら、よかった。
「なんにせよ、丁度よかったのだ」
不意に声から笑みが抜ける。
「事態を早めに解決したい以上はね」
志貴は淡々と言葉を紡いだ。
「必要なことだった」
自身に言い聞かせるような口調だった。
それが正解であると繰り返し確認しているような態度。
逆を言えば、迷って、…いるような。
大皇と面談した時、何かあったのだろうか。
『…大皇さまは、すぐに同意なさったのですか』
親子だ、通じるものがある―――――そう思いたいが、相手は大皇家だ。
私の思う『普通』なぞ、あてはまるだろうか。
「不思議そうに、言うものだな」
志貴は面白そうに喉の奥で笑った。私の惑いを感じたか、志貴はただ笑みを深める。
「僕が試されていることを逆手に取った。おかげですんなり、事は運んだよ」
試されている? なにを。
北方における現東宮の噂を思い出す。
聡く、賢明で、何者にも平等。
北方の田舎ではさして問題にはされないことだが、中央にいる権力者が優秀であるに越したことはない。
詳細は知らないが、流れてくる噂を聞く限りではその地位を脅かすものはないように思われた。
…違う、のだろうか。
『権力の中枢におられる方が』
何を聞いても阿呆な質問になりそうな気がして、私は気になった別の部分を戒めた。
『…簡単に言うものではありませんよ。試されている、など』
手の内を―――――置かれている状況を―――――晒すな、と言外に告げる。
どのように利用されるか知れたものではない。
私の…兄の声は、しずかだ。ただ他人事として感想を述べているような。
相手が志貴だと、親身になるのは少し違う気がする。
東宮、などという立場に立った経験がない以上、何を言っても上っ面にしかならない気がして。
「中枢にね、立つからこそ」
だが、私以上に他人事の口調で志貴は言った。
「転落すればあっという間だ。裏表は簡単に入れ替わる」
まあ聞いて、と志貴はのんびり空を見上げる。双眸に映るのは、月。
「これでも僕、子供の頃、たくさん友達がいてね。東宮と決まる前までの話だけど」
志貴は微笑んでいた。だが、どうしてだろう。
過去を懐かしんでいるようで、疎んでいるような。そんな、気配がした。
「後から思えば、皆、それなりに身分の高い者たちの子息だった」
ただし、子供に身分など関係がない。
大人の思惑などよそに、当時子供の間で結ばれた友誼は純粋なものだったろう。
「やがて僕は東宮になり、だんだんと互いに距離を取ったのだがね」
自然の流れだ。仕方ない。
そう思う一方で、やるせないものが残るのも事実だ。
私の沈黙をどう取ったか、志貴は優しい声で言った。
「そのうちの幾人かとはまだ連絡を取り合っているよ」
安心させるように言った端から、とんでもない言葉が続く。
「何人かは途中で存在もろとも消えたがね。まるで最初からいなかったように」
どうしてだろうね、という口調。
そのくせ、理由なら思い当ると言った気配を志貴は隠しもしていない。
「中でも、最も血筋の良かった一人がいるのだが」
志貴の声から、次第に感情が抜けて行く。
「十代の半ば、取り返しのつかない失策を犯してね」
木の影で、私は目を瞬かせた。
妙な言い回しだ。失策。失敗、ではなく?
『では公の仕事で?』
返ってきたのは、肯定だ。
驚いた。十代半ばで、そのような重大事を任されるとは。
ゆえに、『取り返しがつかない』と言われた結果がどのようなものか。
心の平穏のためにも、知らない方が身のためだろう。
志貴は、素知らぬ顔で続けた。
「結果、その家の跡取りは彼一人だったのだが、もう表に出ることはかなわない状況となってね、彼は―――――蟄居」
志貴は淡々と言葉を紡ぐ。私は驚いた。
『…厳しくは、ありませんか?』
「そうかね?」
不思議そうな志貴の反応に、私は悟った。ああ、それが彼らには普通なのだ。
たった一度の失敗が、身の破滅を招くのだ。とはいえ。
『蟄居と言っても』
結局は、高貴な身分の者だ。
『生活に困るわけではないのでしょう?』
気を取り直した私に、志貴は小さく笑う。
嫌な笑い方だ。彼は私をばかにしたわけではない。だが。
私がばかなことを言ったのは、自覚した。田舎者の私でも知っている。
貴族社会で、表舞台から存在を消し去られるとは、死活問題だ。
『その、彼に』
隠居して悠々自適の生活に入った。
それなら、めでたしめでたし、と言えなくもないのに。
そんな話は、きっとない。
『何が起こったのですか』
おそらく、放っておいてはもらえなかったろう。
表舞台から放逐されても、静かな生活など望むべくもなかったはずだ。
「彼はね、閨に押し込められたのだよ。毎日毎日」
志貴の声は、平静だ。立ち姿には、品さえある。けれど、続いた言葉は。
「朝から晩まで、―――――女をあてがわれたのだ。食事より、自由な時間より先に」
一瞬、意味が理解できなかった。次いで、ゾッとする。それは、つまり―――――…。
凄惨な話だ。
志貴が漂わせる静寂と言葉の内容の相違が、眩暈を覚えるような歪みを私に与えた。
「そのうちの幾人かが出産したのち、彼は死んだよ。毒殺か衰弱死かは知らないがね」
それではまるで、道具ではないか。
高貴な血の生まれであるが故に一度の失敗を許されず、家畜のように処断されるなんて。
民の方がよほど情に満ちている。
『…助かる道は、なかったのでしょうか』
志貴は曖昧に首を振った。肯定か否定か分からない、力の無さで。
「僕だって、下手を打てばそうなる。…心底、あんなふうになりたくないと思ったよ」
あんな、ふうに。驚いた。その言い方はまるで。
『実際に、その目で状況を見られたのですか』
そんな確信を持たせる言い方だ。言いにくそうに、婉曲な肯定が返った。
「人伝いに話を聞いて、…助けようと思ったのだ」
それこそ、子供の正義感で、と呟いた志貴の表情には、諦念があった。
直面したのはどのような光景だったのか。問いを重ねることは、憚られた。
だが、知り合いの惨状を聞いて、助けようと思うのは、普通の人情だ。
志貴は悔いる声で呟いた。
「甘かった。僕は、とことん、…甘かった」
言った志貴は、…けれど。
どんどんと、双眸に鋭さを湛えていく。
私は目を見張った。
もともと、志貴の風貌は、真牙とそっくりだと思っては、いた。
だが、雰囲気はまるきり別ものだ、と思っていたのに。
しかし、…挑むような今の表情は。
真牙が抱えるものと同等の、重い暴力の気配を感じさせた。
「そして、思い知らされたよ。僕も一歩間違えれば、ゴミ同然に処理される」
志貴に、恐怖への震えはない。あるのは、覚悟。
綱渡りから逃げはしない、…そういう、類の。
ただ、少し違和感があった。
志貴は風貌のみならず、真牙を思わせるほどには精神も強い人間だ。
私が感じる限り、そういう人間は、決して簡単には明かさない。
自身のことなど。
にも関わらず志貴は、私に―――――『蘇芳』には、素直に話し過ぎていないだろうか。
『なぜでしょう』
「ん?」
『なぜ、志貴さまは私に、そのような…』
咎めたつもりはない。責めてもいない。ただ。
戸惑いが、あった。
初対面の女―――――凛には何も読み取らせなかったのだ。
顔も見せない相手に、無防備に本音を晒すことは志貴らしくない気がする。
不意に志貴は、明るく笑った。
「蘇芳、キミ、不思議そうに言うけれど、そう言うなら」
志貴はいきなり、一歩を踏み出す。私の方へ。
思わず私は木陰で身を縮めた。だからと言って、消えられるわけもないが。
間が悪いのかいいのか、そのとき、手の内で呪符が消える。
これでは、声も出せない。
「あの笛の音はいけないな」
志貴は近付いてくる。容赦なく。私に。
このままでは見つかる。
いや、見つかっても構いはしないが。
『蘇芳』が私だとバレることは、まずい気がする。
色々な意味で。