第三章(11)
―――――確かに。
私にできることは、ないかもしれないが。
背後から追いたてるような焦りに、私はふと自分の内に目を転じた。
何がこの焦燥と罪悪感の正体か。
そこから生まれる行動は、――――――…この状況で、正しい判断なのかどうか。
答えは。
ふぅ、と私は肩から力を抜いた。見てとった琴葉が、しずかに告げる。
「夜具を、準備します」
なんにしろ、備えろということは、百鬼夜行が現れた場合の戦力に数えられてはいるのだ。
何ができるかは分からないが、ひとまず今は…確かに、備える以外にない。
琴葉が去った後、たいして眠くはないと思いつつ横になる。
だが、障子から差し込む陽光は私の意識を邪魔することなく、気付けばすとん、と眠りの中へ落ちていた。
気を張ってはいたが、疲労は相当蓄積していたようだ。とはいえ。
―――――この、眠りは…。
訪れたのは、意識のありかが掴めない、気を失うようないつもの眠りではなかった。
むしろ、冴えわたっている。
大気に溶け込みがら、消えうせるのではなく、鮮明に。
この感覚になら、覚えがあった。
前兆だ。
眠りに入り、動かなくなった肉体に代わって、もっと自由な意識が飛翔し、肉体では捕らえられない何かを掴もうとしている。
ただ、それが何なのか、事前に察せないのが問題と言えば、問題だ。
だから、驚いた。
突如、闇の中から響いた声に。
「謹慎ですってっ!? 冗談じゃないわ!」
いきなりの怒声に面食らう。すぐ、気付いた。
これは、千華だ。
周囲を見渡すが、あるのは闇だけ。誰の姿も見えない。
それでも、すぐそばにいるかのような声の大きさに、頭が割れそうだ。
「まさか…宰相さまからの呼び出しは、そのような用件だったのですか?」
応じる声が、誰のものか、すぐには理解できなかった。
次いで、気付く。驚いた。奈美だ。
彼女に、これほど優しい声が出せるとは思いもよらなかった。
千華が、悔しげに歯噛みする。
「父さまの隣に、あの女がいたわ」
宰相。父さま。
一瞬、繋がらなかった。すぐ、思い出す。
そうだ、千華は領主の宰相の娘だ。
「まぁ」
「謹慎だなんて、父さまのお考えとは思えない。あの女の入れ知恵よ!」
地団太を踏む子供のような言い分で、一面で哀れにも感じる。
千華はあくまで父親を愛しているのだ。
だが、宰相と言う地位にいるような人物が、簡単に女性の言いなりになるものだろうか。
首をひねると同時に、私は慎重に耳を澄ます。
もしかして、この会話は。
―――――『現在』の、もの?
このような形で私が手にする情報は時間が曖昧だ。
果たして、奈美は力づけるように告げた。
「仰せの通りかと。でなければ、宰相さまが姫さまに罰を与えるなどないはずです」
…それは、おそらく。
千華が望んだ言葉。この場で、一番に。けれど。
幼子におもねるようなそれには、実が、ない。
むしろ、道を過てと唆しているようにも聞こえた。しかし。
―――――望む言葉を望むように与えられた千華は、その言葉に、ちょっとした疑念すらかき消してしまう。
あの女が悪い、と。父が、自分の悪いようにするはずがない。
奈美の言葉で、千華は、現実を自分のいいように解釈してしまった。
「なんて嫌な女! ――――――ねぇ、奈美」
憤然と吐き捨て、千華は侍女を暗い声で呼んだ。
「いつになったら、あの北方女を始末できるの」
想像による喜悦の毒を含んだ声。
どこまでも無邪気だからこそ恐ろしい響きに、私は思わず身を引いた。
間髪入れず、奈美はあやすように応じる。
「大皇の御幸が過ぎ去りましたら、…おいおいに」
長く聞いていたい話ではなかった。
とはいえ、逃げる方法が分からない。
周囲は、闇。どこへ向かえばいいのだろう。
とはいえ、いくらか場数を踏んだせいか、狼狽は前ほどではない。
とりあえず、目を閉じた。
見えるのは、同じ闇だが、外側ではなく、内側の闇だ。
両手と思われるものを、存在を確かめるように持ち上げる。それで、耳を塞いだ。
声が遠くなり、ほっと息を吐く。
なんとはなしに、理解した。
千華が奈美を気に入りにしている理由を。
だとしても、これは。
…ひどい状況だ。少なくとも、上に立つ立場の人間に用意される環境でない気がする。
そのことに、父親が気付かないわけがない。
どうして、こんなことになっているのか。
先日のやり取りから察するに、奈美は千華の父親が彼女につけたはずだ。
この地の宰相ともあろう方が、いったい何を考えての行動だろう。
これでは彼女は孤立する一方――――――、と、考えさした時。
突如、静謐な声が、私の意識を貫いた。
―――――独りになるつもりか。自ら。
え?
思わぬことに、私は面食らう。
なにせ、今は耳を塞いでいる。なのに、聴こえた。
ではこの声は、外側のものではなく。
…内側からの声、ということか。
(今度は、なに)
おそるおそる、目を開く。刹那。
強い太陽の光が視界を焼いた。
遠くで、蒼穹が果てなく広がっている。
あまりの壮大さに雑念が吹き飛んだ。いっきに、意識が洗われた心地になった。
そんな、抜けるような天の青を背景に、眼前、褐色の肌の男が陽気な笑顔を浮かべている。
見覚えのない顔だ。
だが、つい、一緒に微笑んでしまいそうなほど、開けっぴろげの笑顔だった。
…なのに、なぜだろう。
ひどく胸が締めつけられた。直後。
私は息を呑む。
私を見つめ、やさしげに細められた彼の双眸が、―――――真紅だったから。
柘榴の目と、同じ色だ。
気付くなり、ふ、と彼はその目を伏せる。いや。下を、見た。
つられたように視線の先を追った私は。
思考が、止まった。
堂々と立つ彼の胸に、刃が埋まっている。
柄を握る手は、…私、の。
―――――端から、俺はひとりだ。
私の驚愕とは裏腹に、唇は動き、冷静な声が放たれた。
否。私、ではない。この声は。
真牙。
混乱が怒涛の勢いで脳内を巡る。
私は今、いったい、何を見ているのだろう。
太刀を握っている手は、私の…真牙の腕だ。間違いない。では。
真牙が、この、南方の男を、今、まさに。
なのに、男の声は明るかった。
―――――ばーっか。自分から、壊したろう。
―――――もとから、壊れていた。
扉を閉ざす物言いに、彼は動じなかった。
―――――わかるんだよ、おれには。お前には、人外への情がある。
囁く声に重なって、泣くような叫びが蒼穹を貫く。
―――――南翔公!
頑是ない、子供の声だ。
目の前の男の視線が、真牙の背後を向いた。何かを制すように。
それにしても…南翔公?
それは人外の南方の王の名ではなかったか。
男の真紅の双眸が、真牙に戻る。
―――――なのに、殺せるのか。
諭すように、言葉が続いた。
―――――愛情をかけている者を、殺すなど。
それはまるで、慰めるような声だ。
―――――…自身を殺すも同じことだぞ。
―――――おやめ下さい、真牙さま、真牙さまっ!
先ほどと同じ声がまた響き、誰かが走り寄ってくる小さな足音が聴こえた。
すべてを断ち切るように、真牙は告げる。
―――――俺に似合いの死に方だ。
かなしいほど不動の声に、
―――――残念だがな、
また、南方の男はからりと笑った。
―――――おれはお前を見限らねぇぞ。それが仕返しだ。
死相を浮かべながら、まだ続きがある、と言わんばかりの態度で。
さすがに、真牙が目を見張った。直後。
―――――ではまたな。…親友殿。
彼が、真牙を突飛ばす。そのまま、自身は。
―――――南翔公!
悲鳴が棘のように胸に突き立つ。
刹那、真牙の横を小さな影がすり抜けた。
ひとつの躊躇いもなく、目の前の崖から飛び降りようと動く。寸前。
その首根っこをひっ捕まえ、真牙は暗い声で呟いた。
―――――ひどい、仕返しだな。
淡々とした声。…なに?
疑問を覚えたのは、私ばかりではない。
真牙に引き留められた子供が、彼を振り仰ぐ。
その、双眸は。
蒼穹もかくや、というほどに澄み切った碧い瞳。ただ、白目の部分がないのが異様だ。
どこかで見た色だ。思うなり。
あの、亀の声が天から降った。
――――――ああ、よもや、娘を招いてしまうとはの。
とたん、私の脳裏で、記憶がつながる。
この目。そうだ、あの亀と同じ。
たちまち、私の意識が真牙の肉体を離れた。
引き上げられるように、上昇していく。蒼穹へ。
―――――これはただの記憶。遠い、遠い日の、既に誰にも変えようがない出来事。
その通り、だけど。
崖っぷちにいる二人の姿が、どんどん遠くなっていく。
思わず手をさしのばした、そのとき。
真っ白な光が、崖下で爆発した。
音もなく。風もなく。鮮やかな無数の白い羽のような光が、大気に拡散していく。
私の指先から力が抜けた。ああ。
―――――逝ってしまわれた。
ごっそりと身体を抉られるような喪失感に、息が詰まる。
空高く舞い上がっているのに、水底へ沈んでいるような感覚が全身に迫ってきた。
だめ。目を。目、を。
――――――覚まさなきゃ!
いえ。違う。冷静に考えろ。
目なら既に開いている。なら?
正解は、この視界を、遮断すること。
目覚めなければならないと思う気持ちを抑え、私は無理に目を閉じた。とたん。
ばち、と目を見開く。
…開け、た。
ばく、ばく、と心臓が躍るように脈打っている。
宥めながら、起き上がった。
顔を押さえ、頭を振る。いけない。
おそらく私は、あの、長老と呼ばれた亀の夢に迷いこんでしまったのだ。
現実感を取り戻すため、私は深呼吸を数回繰り返す。
腹の底まで、空気を入れた。丹田に力を込め、立ちあがる。
既に外は暗い。
だがすっかり、目は冴えていた。
着替えた私の肩に、起きていたのか、豆乃丞が止まる。
小さな重みに、亀がくれた珊瑚のことを思い出す。
結局、返しそびれた。また会う機会があればいいのだが。
…楽観的に、期待はできないけれど。
小さな飾り櫛で髪をくしけずり、私は廊下に出た。
夜の空気は、月の光に冷やされている。
昼の熱気が嘘みたいに、しずかだ。
分社への移動はつつがなく進んだのだろうか。
気にはなったが、夢の名残を振り払いたくて、私は少し庭を散策することにした。
懐に、必要最低限のものは入っている。
帯にさした豊音を指先で確認し、意識を外へ向ける。
幸い、縁側の下に、草履も用意してあった。
広い庭だ、迷わないように慎重に景色を見ながら、私は離宮の庭へ一歩踏み出す。
満月が近いのか、大きな月は明るく、足元に不安はない。
次第に、のびのびと、私は木々の間を軽い足取りですり抜けていく。
穂鷹山の森の方がもっと深い。
この程度の庭は、特に警戒も必要ないようだ。
(いきなり低位の人外が飛び出してくることもなさそうだし)
どれほど歩いた頃だろうか。
視線の先、不意に瞬いたひかりに私は思わず近くの木陰に身を潜めた。
耳に届いたのは、何かが空を裂く音。
身を縮め、どこから、と耳を凝らす。と。
断続的に続く音の方で、何かが動いているのが見えた。
獣。一瞬そう判断したのは、動きのせいだ。あまり、理性的に見えなかった。ところが。
よくよく見れば、違う。
あれは、ひと、だ。
月光の下、あかるい青い夜の中、袖が飛燕のように翻る。
目を凝らしてみれば、それは意外な相手だった。
(志貴さま)
太刀を手に、鋭く動いているのは、志貴――――――東宮そのひとだ。
腰に太刀を下げているのは知っていた。だが、彼は守られる側だ。
実際に使えるとは思ってもみなかった。
いや、守られる側だからこそ。
最後の最後で身を守るのは、自身の腕以外にないのかもしれない。
月光の下、私は木陰からしばらく、彼を見守った。
志貴という人物が優しいのか厳しいのかは、よく分からない。はっきりしているのは。
権力者の冷酷を彼も確かに身の内に宿しているということ。
それを、知っていて。いえ、知っているからこそ。
月光の下に見えた彼の表情に、私は戸惑った。
怖いほど、真剣だ。苦しげなくらいに。
昼に見せた穏やかな余裕はどこに消えたのか。
何かあったのだろうか―――――大皇と会った時に。
だが、私では。
(聞いたところで、答えてくれない気がする)
なら。
私は懐を探った。
取り出したのは、―――――変声の呪符だ。残り二枚のうちの一枚。
見下ろし、私は再度志貴を見た。
近くに朔は見当たらないが、あまり近付き過ぎれば志貴本人にすぐ見つかるだろう。
声が届くと思うある程度の距離を詰め、呪符を指で挟んだ。
その真ん中あたりを唇にあてる。
一瞬の躊躇いの後、…木陰から呼びかけた。
蘇芳として。
『―――――…今宵は』
ぴたり。志貴の動きが止まる。
『笛を、お持ちではないのですね』
志貴の口元に、苦笑が閃いた。
「…蘇芳、かね」