第三章(10)
「それで呼ばれたらまた戻るのか? 手間だな」
面倒そうな虎一の袖を掴み、蛍は大きく頭を下げる。
「では、失礼します」
「おい、まだ話は」
真緒に噛みつこうとした虎一は、
「取締役に怒られたいのかい?」
あっさり蛍にいなされた。
遠ざかる二人のやり取りはやたら賑やかだ。
仲がいいのか悪いのか、一見、判断しかねる。
立ち去る二人の背中が視界から消えるか消えないか、という時だ。
それは、起こった。
――――――ジャララララララララ…
全身を揺さぶるような鎖の音が、周囲を圧する。
思わず耳を押さえた。
「凛さま?」
驚いて咄嗟に動いた私に、何が起きたのかと面食らった琴葉が振り向く。
遅れて、真緒が。
不思議そうな彼女たちの様子に、私は目を瞬かせた。
(聴こえて、ない?)
―――――然様。
突如、肯定の意志が、脳裏で木霊する。同時に。
…ぱぃんっ、と小さな空気の玉が弾けるような音を上げ、私の目の前に、何かが現れた。
―――――しばしの昼寝と思ぅたら、いつの間にかたいそう時間が流れたようじゃな。
…亀だ。しかも、小さい。掌の大きさ。あろうことか、宙に浮いている。
水中で泳ぐように。
その質量差こそあれ、すぐに理解した。
これは、先日から声をかけてくる亀に違いない。
―――――わしがここにいることで、結界に支障はないか、祓寮の娘。
私の鼻先で浮いたまま、亀は眠たげに語りかける。
私の脳裏に響いている声は、ちゃんと真緒にも届いたらしい。
ただし、先日のように頭を割らんばかりの巨大な思念ではない。加減してある。
囁くような思念に、真緒は目を見張った。
「まさか、あなた様は」
唖然と言葉を呑んだ。対する亀はのんびりと、
―――――そうさな、わしは南方の群島をすみかにしとる長老じゃ。
思念は、確かに届いている―――――だが、妙な違和感があった。
声の響きが、遠くなったり近くなったりしている。
―――――祓寮の長に、用事があっての、この、稀なる娘の身体を間借りしておる。
先日ほど、明瞭でない声音は、夢うつつを行き来しているようだ。
―――――刻限が、近ぅてのぅ。結界に、支障がでていなければいいのじゃが。
おっとり、亀は小さく首を横に振った。
―――――早急なる目通りを望むが、無理か。
それならそれで仕方ない、と今にも消え去りそうな態度に、真緒は慌てる。
「お待ちをっ。すぐに…」
言いさした真緒が、あ、と私に目を止めた。
現在の彼女の仕事は、私の護衛だ。
いっとき、真緒が動きかねた、そのとき。
ふわ、と私の前に―――――正確には、私の前に浮かぶ亀の前に、白い紙の人形が舞いおりた。
それを見遣った真緒が、肩から力を抜く。
琴葉が冷めた目でそれを見つめた。
直後、私が借りている部屋が、脳裏に閃く。
とたん、瞬く間に紙の人形が溶けて消えた。
「…凛さまの部屋へ来い、と言う指示でしょうね」
琴葉にも同じ光景が見えたか、実に嫌そうに呟く。
真緒は困った態度で頷いた。
私は鼻先に浮かんでいる小さな亀に声をかける。
「…長老様?」
うむ、と思念が返った。よかった、対話は成り立つようだ。
私は重要なことを口にした。
「そのままですと、人目につくかと思うのですが…」
―――――隠れるとまた寝入ってしまうでな。
空中で、くるん、と危なげなく回転、―――――亀は小さな前足を振り、私に手を出せと示した。
掌を上向きにして差し出せば、
―――――よい、よい。
満足げに言い、亀はそこに収まってしまう。
飛んでいないならいい、という問題でもない気がする。
「…確かに、それなら、不自然はないでしょうが…」
琴葉が言い淀む。
高貴な女性が小亀を捧げ持って歩くのは外聞がよくないと言いたいのだろう。
亀は一向に構わない。
―――――瑣末にこだわり、時間を無駄にするか?
のんびり告げ、つぶらな目を閉じてしまった。
琴葉はその言葉に、すぐ意識を切り替えたようだ。
「では、凛さま、こちらへ」
先導する琴葉に続き、私は亀を見下ろした。
まったく重みを感じない。
姿は見えるが、血肉は通っていないのだろう。
何にしろ、この亀こそ、祓寮が会おうとしていた相手だったはず。
部屋へ戻れば、豆乃丞が熱烈な歓迎をしてくれた。
私は緑の羽根の勢いに、窒息しそうになる。
琴葉は飛びまわる小鳥に動じることなく目で黙らせ、黙々と廊下に控えた。
はたして豆乃丞の主人は誰だろう。
中に入れば、既に伊織と綾月が待機していた。
「…マジで?」
私の状況に、伊織が苦笑する。彼の隣で、綾月は表情豊かに呆気に取られた。
次いで、こめかみを押し揉んだ。
そのまま次第に弱った表情になり、えぇ~…、と弱く呟く。
「いつからそんなことになってんの?」
「真珠通りでの食べ歩きのあと、くらいです」
私はまじめに答えた。綾月は肩を落とす。
「いや真面目に答えないで、よけい落ち込む」
「気付きませんでしたねぇ」
穏やかに言って、伊織は片眼鏡を押し上げた。
言われて、私は綾月の態度に納得する。気付かなかったことが不甲斐ないのだ。
綾月はぶつぶつ続ける。
「教えて頂きたかった、と言うのも、今さらだし…自分の未熟さが歯がゆいったら」
私の室内で、どうにか、綾月は姿勢を正した。
―――――隠れていたわけではない、寝入っておったのよ。
小亀はゆったり言葉を紡いだ。
―――――お前さんは伊織かね、ほ、歳を食ったのぉ。
「なかなか引退できず、―――――…お久しゅうございます、長老」
下座に座った伊織は丁寧に頭を下げた。次いで、隣の綾月を示す。
「こちらは綾月と申す者。祓寮・術式にございます」
「お初にお目にかかります。綾月と申します」
―――――若いな。眩しい限りじゃ。
見た目のことばかりでもないのだろう。
上座に座る私の掌の上で、小亀は目を細めた。
―――――時が迫っておってな。先触れもない訪れを許せ。
「とき、ですか」
繰り返した綾月を一瞥し、小亀は冷静に言った。
―――――分かっておろう。
綾月が表情を消す。伊織が困ったような顔で呟いた。
「…見えるのですね。命数が」
―――――おう、あと、砂粒ひとつ分も、あるか、どうか。
寿命がつきる、と。…言っているのか。
―――――西の戦の揺り返し。あれは、老骨に堪えた。
ふ、と綾月が天井を見上げる。見えもしないものを透かし見るように、鋭い目で。
「勢力図が、塗り替わる」
ぼそり、熱のない声で呟いた綾月に、伊織は穏やかに囁いた。
「人間も、人外も、だね」
―――――おう、そうじゃ、南方の商人たちも大半が死んだそうじゃな。
「…なんですって?」
小亀を見遣り、綾月が目を見張った。
伊織は知っていたかのように、肩を竦める。
「長」
綾月が咎める声で伊織を呼んだ。
「何があったのです」
―――――ま、落ち着くところに落ち着くものよ。
死を目前にしたものの、達観と落ち着きに満ちた思念に、綾月は詰問を堪える。
代わりに、気を取り直した様子で、居住まいを正した。直後。
なりふり構わない勢いで、畳に打ち付けるように頭を下げる。―――――土下座だ。
私は面食らった。
「この世を後にする前に、お教え願いたい儀がございます」
一呼吸置いて、彼は続けた。
「南王は、」
咄嗟に息を潜めずにいられない、真摯な声で。
「この時代に、存在いたしますか」
生死を決める、刃を突きつけるような雰囲気に、胃の腑がひやりとする。
―――――答えねば、
感じているだろうに、応じる思念は柔らかい。綾月の気負いをいなすように。それでいて、
―――――祓うかね。
台詞は挑戦的だった。相手の意志に任せると言いたげな態度と裏腹に。だが。
囁きに、私はようやく思い出した。
そうだ、祓寮は人外を滅すための機関だ。
害を為さない人外を一方的に消すわけではないにしろ、…『監視』・『管理』しようとする一面がある。
つい忘れそうになるが、それは肝に銘じておかねばならない。
祓寮に、気を許し過ぎてはならないのだ。
「…それを決める立場に、オレはいません」
―――――答えの代償が命としても、求めるかね。
意地の悪い質問の自覚はあるのだろう。小亀はゆるく笑った。
次いで、呆気ないほど簡単に答える。ただしそれは、
―――――いるとも言えるし、いないとも言える。
謎かけも同然だ。綾月が、顔を跳ね上げた。
「誤魔化しを…っ」
―――――何の覚悟もなく手に入れる真実ほど安いものはない。
価値はガラクタ同然、と呟く思念は厳しい。
綾月は、畳についた手で拳を握る。強く。
南王が存在するか否か。
数々の状況から、それは、たった一人を指している気がする。
ただ、確かに、現状を見れば、はっきりとは答えかねる。
いるとも言えるし、いないとも言える。
本当に、それこそが唯一の正解である気がしてならない。
ゆえに、私も簡単に口にできる話ではなかった。
伊織は小さく息を吐いた。
「…困りましたねえ」
呟いた彼の意見は、綾月とは異なるようだ。
「黒か、白か。そう断言できる状況ではないと言うことでしょうか」
どちらかと言えば、伊織の意見は私に近いようだ。
思念は密やかに応じる。
―――――然り。
「あや」
伊織は、宥めるように若い部下の名を呼んだ。
「今は、仕方ないよ」
綾月は、何かを呑みこむように俯いた。静かに姿勢を正す。
「さて、長老」
伊織は、話を変えた。
「あなたは自ら祓寮を訪れた。何を、お求めです? …いえ、」
尋ね、すぐさま伊織は首を横に振る。
「あなたが動くことで何かが起こり得る、ゆえに動いた、ということでしょうが…」
―――――挨拶にな、…参っただけよ。
しれっと言い放ち、小亀はふわ、とその場に浮き上がった。
―――――さすがにもう厳しいわい。…錨が、消える。
その言葉と同時に。
身体の芯から、何かがぼこっ、と抜け落ちる感覚があった。
直後、身体がやたら軽くなる。
思わず、身体が浮きあがるような心地に、慌てて腹の底に力を込めた。同時に。
ざん、と波に似た音を、耳が捕らえた。
波。いえ。砂? …が、落ちた、音?
だが、周囲を見渡しても何もない。
あの鎖が朽ちて落ちた音だと思った時には。
―――――なにより、懐かしい魂と会った。もう、じゅうぶん。
私は直感した。それは。
真牙。
思った時には、小亀の気配はもう消えていた。
余韻に浸るような沈黙が、場に落ちる。
大きく息を吐き、私は尋ねた。
「あの方は」
伊織が顔を上げる。
「人外の中で…、いえ、人間にとって、どのような意味を持つ存在なのですか」
重要視するからこそ、綾月は会ってその言葉を聞こうとしたのではないか。
あの存在は、祓寮があえて面会を求める人外であるわけだ。
相応の、相手なのだろうが。
私の問いに、伊織は柔らかく微笑んだ。
「人外は、一枚岩ではありません。人間と同じく」
ご存知でしょう、と言う目で見られた。私は、黙って見返す他ない。
伊織と相対すると、うっかりすれば、すべてを見透かされそうな危機感がある。
私の警戒を気にもせず、伊織は続けた。
「人外を端から否定する人間がいるように、人間が相手だと話し合いにすら持っていけない人外がいる場合、繊細なとりなしができる存在がいると心強いとは思いませんか」
人間側にも、人外側にも、と小さい声が付け加えられた。
「長く生き、人外・人間関係なく信頼されていたあの方は、それが上手でして」
確かに、あの亀は、不思議と簡単に懐へ入ってきた。
本来なら、肉体に宿られるなど、気持ち悪いとでも思いそうなものだ。
が、そんな負の感情は片鱗も過ぎらなかった。
あの惚けた雰囲気がよくないのだ。
思うなり、不意の喪失感に襲われる。
―――――ああ、そんな存在が、言ったのだ。死が近い、と。
それゆえの、今部屋の中で漂う雰囲気、なのだろう。
それを打ち破ったのは。
「ぼんやりしている暇はあるのですか、伊織」
廊下で控えていた琴葉だ。
綾月が身を竦めた。伊織は厳しい声に動じもせず、
「…あなたの手が借りられると助かるのですが、琴葉」
柔和ながら、図々しく願った。
「では、決定したのですね」
私は一瞬、何の話だと思う。だが。
確か、先ほど伊織が向かったのは、―――――大皇のおわす場所。
伊織があまりにいつも通りだったから、すっかり忘れていた。
その上で、伊織が琴葉に助力を求めた、と言うことは。
琴葉が静かに告げる。
「これより、大皇は分社へお渡りになる。同時に」
続けた声から、温度が抜けた。
「離宮は百鬼夜行を迎え入れる」
「で、あるならば、琴葉は」
人畜無害の笑顔で、伊織は挑発。
「大皇に従い、分社へ同道しますか」
仲がいいのか悪いのか、判断に困る二人だ。返した琴葉の声も平静だ。
「凛さま次第です」
私は虚をつかれた。まさか、私に振られるとは思わなかったのだ。
私の中で、どうするかはもう決まっていたから。
伊織と綾月が揃って私を見た。悩まず、答える。
「私は離宮に残ります」
大皇と同道するなど、胃に穴があくに違いない。
「だよね」
私と同じ考えだったらしい綾月が、琴葉の言葉に意表を突かれた表情を消し、探るように隣の伊織の様子を横目にした。
彼としては、即答したのが伊織ではなく私だったことに違和感を覚えたようだ。
伊織は無言で私を見つめていた。
片眼鏡の縁を指でなぞり、不可思議な色合いを宿した瞳で、念を押す。
「…よろしいのですね?」
え?
この選択に、慎重になる理由があるだろうか。
危険は百も承知だ。
ただ、伊織が言いたいのは、そこではない気がする。
疑念が膨らむ。だが、ひとまずここでは頷く以外に方法はない気がした。
伊織が一瞬、何かを小声で呟いた気がした。
聞き返す前に、彼は一つ頷く。
「わかりました。それならば」
立ち上がり、伊織は琴葉を見遣った。
「凛さまは、早々におやすみになられてください。琴葉、休む準備を」
伊織はあっさりと、失礼致します、言い置き、もう用は済んだとばかりに踵を返す。
「そうだねぇ。事態は夜に動く」
綾月は合いの手を打ち、何事もなかったように伊織に続いた。
「凛さまは夜に備えて。ま、今夜は何も起こらないかもしれないけどさ」
備える? ああつまり、…眠れ、と言うことか。
「ですが」
皆は、まだ働かなければならないはず。なのに私一人休むなんて。
「じゃ、失礼します」
ひらり、手を振って出て行った綾月と入れ替わりに、部屋へ入ってきた琴葉が告げる。
「休むことも仕事です」