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霊笛  作者: 野中
霊笛・第一部
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第二章(2)

「大丈夫だ。史郎殿はお強い。ここからが、史郎殿の変わったところだが、誰かを押しのけて居座るようなことはしなかった。王と呼ばれながら、元来の支配権はそのまま他の公や伯たちに任せ、この穂鷹だけを相続したのだ」

「それは、可能なんですか?」


「人間がやってるのと同じことだ、と史郎殿は言ったな。人外の世でそれを徹底させ納得させるのは三百年ほどかかったそうだが、結果は凛殿も知るとおりだ」


私は思い出す。

史郎の屋敷を入れ替わり立ち代り訪れ、声をかけ、土産を置いていったり、何がしかの報告や世間話をしていく人外たちを。

獣や虫、植物の姿をしたものが多く、征司のように人の姿を取ったものは少ない。


彼にしても、史郎にしても、本性は別の姿らしいが。


なんにしろ、訪れる彼らの表情や空気から、史郎が慕われていることは明白だった。


引き結んでいた私の口元が、ふと綻ぶ。

「そう、ですね」

「この方法は、不思議だな。信頼されている気になる。それに応えねば、と思う。やる気が出る。皆、そうなのだろう。感心したオレは、史郎殿にそう言ったのだが、史郎殿は、これは自分の考えではないと言った。かつて伴侶と呼んだその人の考えなのだと」

思わず、身体が強張った。


誤魔化しようもない変化だったが、幸い、征司は自分の思考に没頭して、気付かない。

「お会いしてみたかった、と思うな。そんなふうに、史郎殿を教え導いたその女性に」

「…私も、そう思います」


「ああ。と、すまない、ここでいいか?」

史郎の屋敷に入り、玄関の脇で、征司は急いで肩から笈を下ろす。

「ではまたな、凛殿。これにて失礼」

征司は急ぎ足で、結界の外へ消えた。

引き止める間もない。

私は面食らった。

史郎に用事があるのではなかったのだろうか。


首を傾げるなり、気付く。

そう言えば、征司が隣にいる間は、日頃結界の外で感じるあのいやな視線を感じなかった。

守って、くれていたのだ。

「…ありがとうございます」


もう聞こえないだろうが、私は消えた征司の背中に、深く頭を下げた。

人外とは、かくもやさしい存在なのだ。

史郎といい、青柳伯といい、征司といい。

ただ、青柳伯はいつも、釘を刺す。






アナタは人、我々は人外、それを忘れないように、と。






首を横に振って、薪をそのままに、私は井戸へ向かった。

まずは、掃除だ。

水をくみ、裏口へ回る。


そのとき、聞き慣れない声がした。

高く澄んだ、鈴を転がすような。

開いていた引き戸から何気なく中を覗けば、書状らしき紙の束を見下ろす史郎の横顔が見えた。


のみならず、彼の隣に、女が立っている。


ここにきて一週間になるが、はじめて見る顔だった。

きれいな女性だ。

大ぶりな造作は、挑んでくるような野性味に溢れているのに、涼しい気品に満ちている。


高貴でうつくしい女性なら、侍女として、幾人か目通りかなったことがあった。

その誰とも違う、咲き誇るような生命力に圧倒される。


史郎を見上げていたかがやくような目が、ちらと私を横目にした。

たちまち、に、と笑う。嘲笑ではない。

その笑みは、どこか悪戯めいた猫を連想させた。

水をくんだ桶を持った私が反応する直前。

彼女は史郎の左腕にしなだれかかる。


私は目を見張った。






驚いたのだ。

史郎にも、そういう関係の女性がいるのだ、と。






これまで一切、史郎に女性のにおいがしなかったから。

「…なんだ」

苛立ちを隠さず、史郎はようやく、書状から目を離した。

首を傾げ、私は桶を壁際に置く。

その音と、女性の視線に、史郎ははじめて、私に気付いた。

煙管をくわえた口元が、声なく私の名を紡ぐ。


凛。


刹那、史郎の目に閃いた暗いひかりに、私は慌てて頭を下げ、外へ飛び出した。

あれは、後ろめたさだ。


井戸まで一直線に駆け戻る。

俯き、桔梗を縫いとめた前掛けの端を、指で握りこんだ。

不自然ではなかったはずだ。

村でお邸にいたときも、ああいった場面に出会えば、とにかく部屋を辞すのが普通だった。


どこで時間を潰そうか、と自分の足先を見つめたとき、背後から、






「おい」






不機嫌な声に、私は飛び上がった。

大袈裟でなく、一歩前へ跳ねる。

そのまま井戸へ転がり込みそうになり、慌てて縁に手をかけて堪えた。


驚きに涙目で振り向くと、神妙さと笑いをないまぜにした史郎が立っていた。

目が合うなり、史郎はぐっと顔を背ける。

「…いや、驚かせてすまん」

声が笑いで揺れていた。

噴き出すのをこらえるみたいに、肩が震える。


申し訳なさと気恥ずかしさで、私は目を伏せた。

「いえ。こちらこそ、すみません。お邪魔してしまって…その、私、外で時間を潰していますから、史郎様はお気になさらず、ゆっくりと」


「アァ?んだって?」


ぎろりと向いた目に、針金みたいな鋭さがあって、私の全身が石になった。

史郎のガラの悪さには、未だ慣れない。


金縛りになった私に、史郎は面倒そうに息をついた。

私はますます身の置き所をなくして、これ以上は無理だというとこまで、身を縮める。

「すみませんってなぁ…ま、いい。とにかく、凛」

「はい」


「お前、表向き、俺の嫁さんってことになってんだから、もっと堂々としてろ。俺もそう扱うからよ」

史郎は、信じられないことを当然みたいに言いきった。

私が反応できないでいるうちに、どういう脈絡か、史郎は自分の左の袖をめくり上げる。

むき出しになった肩に手をかけた。






「で、これが俺のケジメだ」


史郎が真摯に言い放った瞬間。






メキ。


聞こえた嫌な音に、息が止まる。


直後、ボタリ、史郎の左腕が、地面に落ちた。


視界を朱が染め、むせ返るような血のにおいが広がる。






とたん私の足がふらついた。


全身の血が、ごっそり抜け落ちた気分だ。




史郎は自分で自分の腕を千切り取ったのだ。




彼は、ほんの少しだけ顔をしかめた。

「つぅ…、やっぱ、痛むな」

声ににじむのは、擦り傷の始末に困る子供めいた戸惑い。

刹那、怒りに似たものが私を突き飛ばした。

実際できたことは、よろけて史郎の襟に縋りついた程度だ。


声もなく蒼白の私を見て、史郎はほんのすこし血の気が引いた顔に、片頬を上げて微笑んだ。こんなときでも、皮肉げだ。






「女ってのは、浮気が嫌いだろ。あ、男もか。さっきのは別に浮気とかじゃねえけど、他の女に触られちまった手で触るなんてもってのほかと思うわけだ。だからよ、手っ取り早くばさっとやった」


「そ、んな」


「あーあー、ひでぇ顔色だな。大丈夫だ。新しいのなら、すぐ生えてくる」






私をあやし半分、陽気な史郎に、頭が真っ白になる。


生える?


硬直した私に、史郎は何かにはじめて気付いたって顔をした。

「そうか。人間は、千切れたらおしまいだったな。忘れてた。だったら再生なんて、見ないほうがいいぜ。気持ち悪いから」

とたん、無事な片手で私の目元を覆う。

手の温かさに、崩れ落ちそうなほど安堵した私の喉を、悲鳴がせりあがった。






「やめてください…っ」


「あ?」


恫喝するような、低い史郎の声にも、怖がる余裕がないほど、私は混乱していた。






視界が、温かい闇で覆われてるから、拍車がかかる。

「二度とこんなことしないでください!わ、私より、ご自身を労わってください…っ。お願いします、お願いします、お願…!」


舌打ちの音がして、骨が軋むくらい強く抱き寄せられた。

史郎は、黙れとばかりに、私の唇を、彼の胸元へ押し付ける。






「なんで怒んだ?別にこういうの、普通だろうが。…いや、悪ぃ。二度としない。だから泣くな」






不満げな声が、次第に深刻な困惑に変わっていく。


泣く?誰が。

言われて、気付いた。私だ。

頬が濡れている。

息を吸おうとすれば喉に引っかかって、うまくいかない。


私は、このときになって、ようやく骨の髄まで理解した。






やはり史郎は人間ではない。


こんな誠意の見せ方なんて、ない。


誠意に喜ぶどころか、むしろ私は痛めつけられた。

心の底まで、徹底的に。






けれど、史郎にとって、私の非難は理不尽だろう。

尊大な彼が、許しを請うべくして取ったのが、先ほどの行為なのだから。


ここにいる以上は、この場所の法に慣れなければ。


泣くのは間違っている。

当然だと受け入れろ。

泣きやめ、と繰り返し自身に言い聞かせるのに、私はなかなか震えを止められなかった。


「すみません。すみません、でも…」


強張りきった身体が元に戻らない。

見せ掛けの契約に過ぎない夫婦関係なのに、こうまでされると居たたまれない。

私は何も返せないのだ。




いや、返させてもらえない。





これ以上余計なことを言わないように、私は必死に歯を食い縛って口を両手で押さえた。






読んでくださった方、ありがとうございました!

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