第三章(9)
「ばかな」
真緒が呻く。言葉を失った。
彼女はまだ知らない。今朝、商人たちの会合で何が告げられたか。
私が、それらのことを話す暇はなかった。
蛍のような女性が、わざわざ離宮まで訪れて、悪い冗談を口にするとは思えない。
が、現実味もなかったのだろう。
真緒は、咄嗟に何を言うこともできないようだ。
彼女に助け舟を出したのは、私と共に彼等から離れた場所に立つ琴葉だった。
「失礼」
彼女は、冷静に確認した。
「それは間違いなく、事実なのですか」
「はい」
疑うのか、と蛍は怒りだしたりしない。
疑念を理解したうえで、どれだけでも言葉を尽くす覚悟はある、といった気迫を感じた。
「確認はすんでおります」
半信半疑ながらも、少なくとも琴葉は、蛍を信じることには決めたようだ。
事実はどうあれ、今は。
真偽にこだわることは、ここでは無意味だ。
琴葉は、質問を変えた。
「元締めは、なんと?」
蛍は一瞬、唇を噛んだ。
「―――――…腹を切り、息を引き取られました」
うすら寒い心地になる。
私は見ていた。朝の会合、その去り際の、老人の表情を。
あのとき彼は、既に決していたのだ。
この結末を。
「血と死の禊だ」
虎一がつまらなさそうに呟いた。真緒が彼を睨むように見上げる。
「なんの、だ」
「―――――血判状」
何かを吐き捨てる態度で虎一が告げた。
「殺されたのは、そこに名を連ねた商人だ」
「なんだと?」
真緒が詰問口調で言葉を続ける。
「例の血判状が手に入ったのか?」
「まさか」
虎一は肩を竦めた。
「まだ盗賊の手の内だ。中身を確かめる方法はねえよ」
「ならなぜ、断言できる」
真緒の厳しい声に、虎一は面倒そうに応じる。
「今朝、商人の会合が合ったらしいが、その場で元締めの爺さんが言ったんだとさ」
蛍が身を切られるような顔になった。
その背後で、他人事のように虎一が言う。
「血判状の問題に関しては、この昼までに解決するってな」
だんだんと現実味が増してきたのか、真緒が唸るように呟く。
「まさか。それで、己が自害したとなれば、元締めのご老体も…」
言い淀んだ真緒に、蛍がやるせない態度で頷いた。
そう、誰もが思ったろう。
己の始末も己でつけたとなれば、彼もまた、血判状に名を連ねた一人であると。
ただ、誰も確認はできない。
真相は、闇の中だ。
「殺して回ったのは元締めの手の者だ」
虎一が鼻で笑った。血のにおいがする笑みだ。
「混ぜてくれたらよかったのによ」
その一瞬、落ちた沈黙の深さと言ったら。
まるで、奈落。
重い空気を振り払うように、
「既にあの方は、元締めの地位を退いております」
蛍は一瞬、血がにじむような声を絞り出す。
「ただ、おそらく」
願うような語調で蛍は告げた。
「元締めが血判状に名を連ねたのだとしても、それは、…きっと最後」
「なぜ、そう思うのです」
琴葉の冷静な問いかけに、一度、蛍は声を張る。
「思うのではありません。確信しています。その理由は、」
蛍は強く言い放った。
「他の商人の名を知るためだったはず」
一拍間を置いて、琴葉が思わぬほど優しい声で尋ねる。
「それは、皆の総意ですか」
蛍が唇を噛んだ。琴葉はため息を吐く。
「それにしても…元締めは、一筋縄ではいかない方だったはず」
面識があったのか。彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「何者が、元締めの老人にそのような無茶な約束を…決意を、させたのですか」
虎一は素知らぬ顔で外を向いている。蛍はゆるく首を横に振った。
「あたしも詳細は知らされていません。ただ」
次いで、掠れた声で告げる。
「雪鳥衆の大樹」
真緒と琴葉が息を呑んだ。
「その、来臨があった、と―――――取締役の玄丸より聞かされております」
その報告一つで。
琴葉すら説得する何かが、そこにあったようだ。
「事実なら、商人たちの勢力図が全体的に塗り替えられる話だ」
「巷は大騒ぎだ。すぐ、確認できるだろ。祓寮なら」
虎一が唆すように言う。
一度彼をじろりと睨み、真緒は蛍へ改めて向き直った。
「ところで先ほど、あなたは『願いたい儀』があると言った」
確かに、蛍は最初にそう告げている。
祓寮への報告に寄ったわけではあるまい。その義理もない。
「それは」
真緒が厳しい目で蛍を見つめた。
「この報告と関係があることか?」
蛍から一瞬、表情が抜け落ちる。
直後、怖いくらいに真摯な顔で、言葉を紡いだ。
「取締役・玄丸の見立てでは、百鬼夜行は、この離宮を通る、とのこと」
真緒の沈黙が固い。
玄丸は離宮の動きを呼んでいるのだろうか。
ただ、状況はまだ曖昧だ。大皇と交渉中なのだから。
そして、もし要求が通ったとしても、迂闊に頷ける話ではない。
真緒の反応に構わず、蛍は玄丸の言葉を確信した態度で身を乗り出した。
「ということは、あれらを隠れ蓑にしている盗賊たちも、ここを通るはず」
真緒の顔に、はじめて蛍に対する強い警戒が浮かんだ。
構わず、蛍は目を逸らしもせず続ける。
「…いえ、そもそも盗賊の狙いは、はじめから、―――――離宮でしょう」
絡め手どころか、直球だ。清々しいほど。
傍から聞いていた琴葉は呆れたようだ。
「となれば、よっぽどうまくやらないと、奴等にとってここが墓場になる」
蛍は愚直に告げた。
「それじゃ困るんです」
一瞬、彼女が何を言いたいのか分からなくなる。
殺されたら困る、と言うことは…あ。
「討伐せねば、南方は乱れたままだぞ」
真緒が真意を探るように低く言葉を挟む。
「いえ、討伐はぜひ、お願いします。ただ、その前に」
蛍は強い声音で真緒に訴えた。
「あたしは盗賊たちに接触し、血判状を手に入れたい」
蛍にあるのは、その一念だ。
早急な解決を計ったとはいえ、あの老人が行ったことは、残った者の心に傷を残した。
そしてまだ、彼等は疑惑に揺れている。
彼女はそれを、ただしたいのだ。
「
そして願わくは、元締めにかかった皆の疑いを確実に打ち払いたい」
たじろぐほど真っ直ぐな眼差しで、蛍は訴える。
「そのためにも、―――――お願い申しあげる」
蛍は深々と頭を下げた。
「あたしを…あたしたちを、百鬼夜行の退治に、戦力として組み込んで頂きたい」
真緒は虎一を横目にする。
「だから虎一を連れてきたのか」
虎一は嫌そうな顔になった。不貞腐れた態度で、槍の柄を撫でる。
「オレの戦力は無視できねーだろ」
「お前はな」
渋々認めた真緒は、だが、と厳しく言葉を紡いだ。
「結界は繊細なものだ。予定外のものが中に入り込めば、維持が困難になる」
「今は平気みてぇだが?」
ぐるりと周囲を見渡した虎一に呆れた目を向け、真緒はため息をついた。
「平時ならば、多少の融通はきく。だが、お前たちが望んでいるのは」
虎一は鼻で笑う。
「なんだ。祓寮の長とやらもたいしたことねーな」
「…挑発にはのらんぞ」
「つっまんねーの」
頭の後ろで腕を組んだ虎一を一睨みし、真緒は頭を下げたままの蛍に向き直った。
「―――――百鬼夜行の動く夜までにはまだ時間がある。それまでには長と話し合い、使いを走らせよう。…宛先は、玄丸殿で良いか」
弾かれたように蛍が顔を上げる。顔を輝かせ、前のめりになった。
「い、いいよ、いや、それで、お願いします!」
勢い付きすぎて転びそうになった蛍の襟首を、虎一が乱暴に掴んだ。
「喜ぶのは早ぇ。うまくいくとは限らねえぞ」
「悲観的だねえ!」
姿勢を立て直しながら、蛍は人差し指を虎一の鼻先に突きつける。
「話を通してくれると思わなかったことすら、かなったんだ。なんとかなるさ」
それこそ楽観的、と評価されそうだが、蛍の場合、許されなくても忍び込んできそうだ。
虎一はどうでもよさそうに手の甲で蛍の手を横へ押しやった。
「へいへい。オレは人外が殺せりゃどうでも…っと、そういや」
何かを思いついた表情で、虎一は真緒を横目にする。
「祓寮に青い目の女はいるか」
予想もしない問いかけに、私は内心、ぎくりとなった。真緒が不審気に呟く。
「青い目? …いいや。お国に認知のない異国のものでも発見したか」
「盗賊とか言ってたが」
さらりと虎一は応じた。真緒の視線が尖る。
「例の、か」
「違うよ」
慌てて口を挟んだのは蛍だ。
「百鬼夜行に関わる盗賊連中とは敵対してたみたいだ。追われてたし」
叱るように、虎一の腕を叩く。虎一がどこ吹く風とばかりに首をひねった。
「おっかしーな、あの強さ、祓寮だと思ったんだが」
「今度はどこで何をしたのだ」
真緒は眉間を押さえ、唸るように呟く。すぐ、気持ちを切り替えた。
「…話は通しておこう。お前たちは一旦戻るといい」