第三章(8)
反射の動きで、真緒が追いかけようと動いた。
間一髪、琴葉が鋭く呼びとめる。
「貴女の仕事はなんです?」
―――――琴葉の、芯のブレなさには敬服する。心底。
真緒が我に返った。私を見る。バツが悪そうな顔になった。
すぐ、刃を鞘へしまいこむ。素直に私のそばへ戻った。
彼女を尻目に、動揺を隠せない下女たちを琴葉が鋭く叱責した。
「勤めに集中なさい」
彼女たちが、慌てて姿勢を正した。
「も、申し訳、ありません」
それでも、動揺は簡単には去らない。
赤桐は、正体をみせるだけで、簡単に場の空気を歪めてしまった。
動揺を呑みこめず、誰かが尋ねた。
「まさか、あれは」
厳格とも言える声で、真緒が断言する。
「人外だ」
誰もが蒼白になった。不安げに周囲に立つ仲間たちを見遣る。それも当然だ。
先ほどまで普通に話していたものが、人外だったのだ。
まだいるかもしれない、と疑心暗鬼になる心地も分かる。
「で、すが、離宮には結界が」
女官の一人が、足掻くように呟いた。琴葉は冷たく見下ろす。
「甘えた考えは捨てなさい」
琴葉は質問を容赦なく斬り捨てる。だが、それが正解だ。
下女たちがまだ察していない事実を推測させないためにも。
実のところ、現実はもっと手に負えない。
結界の力を破るより高位の人外―――――骸ヶ淵伯が離宮に忍んでいるのだ。
とはいえ、不要に不安を煽る必要はない。
彼女たちに、そこまで告げる理由はなかった。
頼りない目を見交わす女たちに痺れを切らしたか、琴葉が厳しく尋ねた。
「問います」
庭先で身を竦めた女たちの目が、上役の彼女に集中する。
「お前たちは『二度』を許す愚か者ですか」
煽るような物言いに、彼女たちの表情が引き締まった。
それだけで、分かる。彼女たちは、煽られた。いい意味で。
琴葉は、駄目押しの一言。
「ならば今すぐ、この場を立ち去りなさい」
動こうとした女性は、一人もいなかった。
なるほど、琴葉は、恐れられている。だが同時に、慕われているに違いない。
そう確信できる一幕だった。
容赦なく言い捨てた琴葉は、結果を気にするそぶりも見せず、私を一瞥する。
「では、客人の元へ」
私は、何事もなかった態度で頷いた。
幸い、誰にも、ことさら何かを訴え出る気配はない。
虎一を待たせているのだ。長く足を止めている時間はなかった。
私たちは玄関口へ向かう。
背後で、下女と女官たちがそれぞれの仕事に戻るのが気配で察せられた。
彼女たちから十分に離れたところで、
「いずれにせよ」
真緒は鋭く周囲を見渡す。
「百鬼夜行を通すのならば、結界は解かれる」
真緒は冷静に告げた。結果、何が起こるか。きっと、誰も読めない。
「とはいえ、凛さまが、長に語った話によれば」
人外とはち合わせたためか、真緒の警戒心が先ほどより高まっている。
肌に痛いほどだ。
「既に、離宮には高位の人外…神格が入り込んでいるようだな」
黒蜜のことだ。私は前を向いたまま、頷く。
「先ほどの人外は、…その方の、眷属です」
真緒が呻いた。
「会ったことが?」
「一度」
「ではあれも、西の」
「確か名を、赤桐」
能力の詳細や本性は知らない。が、基本的には戦闘が得手に見える。
「ところで、真緒」
不意に割り込んだ琴葉の声音は厳しい。
「人外が結界に触れて、祓寮の長が気付かないことがあり得るのですか」
聞くだけで、ごめんなさいと言いたくなる口調だ。
「あの男、結界内部へわざと人外を招き入れ、」
そのまま、琴葉は続ける。
「黙って泳がせているということは、ないでしょうね」
問いかけが脅しになるなど、今日はじめて知った。
「…琴葉さま…」
真緒は、何かを諦めたように呟く。
「そんなに長を…あ、いえ」
真緒は力なく言葉を消した。すぐ、生真面目に応じる。
「いくら長の性格が悪くとも、そこまではしな…いと、思う」
そこは断言してほしかった。琴葉の沈黙に物騒さが増す。
琴葉の怒りを解くためにも、曖昧な点を明瞭にしなくてはならない。
とりあえず私は、今のところ、伊織の義理の娘なのだ。
戸籍など、どこまで手を回されているのかは知らないが。
「では、伊織が今回の、人外の侵入に気付かなかったと仮定すれば」
言うなり、私は思った。
ないな。
ぐっと踏ん張り、私は質問を続ける。
「人外が結界に触れずに入ってくる方法があるということですね」
少し考えるように、真緒は沈黙した。次いで、微かに頷く。
あるのか。
思いつきの質問だったが、肯定が返るとは意外だ。
まぁ単純に考えて、結界をつくった術師の伊織が侵入者に気付かなかったのなら、侵入者が結界に触れなかったということだ。
あとは、術の使い方について、伊織を上回る存在がいるか。
とはいえ、人外の霊力は人間のそれをズバ抜けて高い。
あえて複雑な術比べをする前に、力技で壊してしまう方が手っ取り早いと考える。
そうなると、伊織が気付かないはずはない。
見つかった人外が、無事で済むとは到底思えなかった。
彼に気付かれず、かつ、面倒な手段を取らない方法があるなら、それに越したことはない。
結界に触れず入る方法があるなら、一番だろう。
真緒は今、それがあると頷いたわけだ。驚いた。
言うなれば、結界に穴、弱点があると言ったも同然だ。
それは、なんのために? そして、
「どのようにすれば、可能なのですか」
真緒はあっさり答えた。
「あえて真正面から入れば、可能かと」
真正面。また、意表を突かれる。だが、相手は人外だ。
人間と同じ姿をしている存在は、そうはいない。
真正面から突入など、まず無理だ。第一、そこまでして入ろうとは考えない。
だがもし、人間と寸分変わりない姿の人外が、真正面から入るとなれば、方法はある。
琴葉が低い声で言った。
「女官や官吏になりすませばいい、ということですね」
さきほどの、赤桐がいい例だ。
黒蜜も、官吏の格好をしていた。まず、間違いない。
「しかしなぜ、真正面なのです?」
妙な所に抜け道を用意したものだ。
つい尋ねれば、真緒が考え考え、言葉を口にした。
「あまり強力な術を人間が通る場所に設けておくと、人体もしくは精神への影響が懸念されますので」
琴葉が眉を潜めた。
単なるイジワル、と答えられるよりマシな気もするが、ちょっと物騒な話だ。
「結界が毒霧ででもあるかのような物言いですね」
真緒は訂正しない。生真面目に説明する。
「組み込む術式によって演算の解は複雑に異なります。よって、大規模のものとなると」
対象の取捨選択が難しい、のだろう。
「まかり間違えば、ただ悪意を浮かべただけで、痛めつけてしまうかもしれない」
守護の道具も、行き過ぎれば凶器だ。
微妙な沈黙が落ちた、そのとき。
向かう先から、明るい声が届いた。どうやら、何らかの商品を売り込む声のようだが、
(…離宮で?)
目の前には、掃除に手間取りそうな広い玄関口。
そこで、槍を抱いた痩躯の男が、冷めた目で外を見ていた。
―――――虎一だ。
私は足を止めた。真緒を振り向く。心得たような頷きが返った。
「では、凛さま、琴葉さま。祓寮を代表して、話を聞いてまいります」
琴葉も立ち止まった。
しばしお待ちを、と真緒が足早に横を通り過ぎる。
見守る先で、虎一、と真緒が声をかけた。
応じ、彼がこちらに顔を向ける。
真緒の背中越しに、私は先ほどまで虎一が見ていた方に視線を向けた。
先ほど聞いた明るい声は、そちらから流れている。
真夏の眩しい光の中、見えた光景に、私は目を疑った。
庭の、はるか向こう。
立ち止まっているのは、千華だ。永志や国臣と言った御曹司たちもいる。
彼等に対し、物怖じもせず商売人の表情を見せているのは、一人の娘。
―――――蛍だ。
そこには奈美もいたが、蛍はちっとも負の感情を見せない。
先日、通りであれほど揉めていたと言うのに。なんにしろ。
彼女も、来ていたのか。虎一だけと思っていたから、意外だ。
だとすれば…祓寮へ用件を持ちこもうとしているのは、蛍の方だろうか。
彼女を彼方に見遣り、真緒が低く咎める。
「虎一、離宮内で商売は…」
「御法度なんて規則でもあんのかよ」
面倒そうに虎一が応じた。態度も声も、切れそうな鋭さだ。
普通の娘ならば臆す態度を受け流し、真緒は肩を竦めた。
「ないが。いざというときは、自力で対処してもらう。庇わないぞ」
「あてにしてねーよ、んなもん」
虎一が鼻で笑う。
「だいたい、アイツは」
虎一は親指で、庭先の蛍を指差した。
「将来、真珠通りを掌握する女だ。強かだぜ?」
この時、私は少し、言葉の意味を取り違えた。
商売人として強かな彼女は、公私混同しない。
だから、あのようにモメた千華姫にも笑顔で接する、と。
そう、思った。
しかしそれは少し違っていたと知ったのは、後日―――――古戦場でのことだ。
真緒と虎一の対話が聴こえていたように、蛍がわずかに身を引いた。
同時に、御曹司たちの集団が移動を始める。離宮の外へ。
蛍は深く頭を下げ、見送った。
それらの動きを見ながら、真緒が虎一に尋ねる。
「祓寮に用があるということだったが」
真緒が一度、ちらと私に視線を流した。
「わたしが聞こう」
次いで、虎一がいつもの刃じみた視線を私と琴葉に向ける。
その眼差しが、一瞬浮かべたのは蔑みだったか。
いや、――――嫌悪に近い感情だ。刹那。
「こら」
足音高く駆け戻ってきた蛍が、ぐいと虎一の袖を引く。
彼は忌々しげに見下ろした。その目に何を察したか、蛍は威勢よく言い放つ。
「勝手にお役目を終わらせて逃げようとするんじゃないよ」
虎一はいつもの倍物騒な眼差しで蛍を見下ろした。
彼女はどこ吹く風とばかりに、取り合わない。にこやかに真緒へ向き直る。
「失礼致しました。あたしは真珠通りの蛍と申します」
流暢に名乗り、流れるような所作で頭を下げた。慣れを感じる動きだ。
応じる真緒の方は、すこしぎこちない。
「ご丁寧に。わたしは、祓寮・太刀式の真緒と言う。…先日は、どうも」
「こちらこそ」
顔を上げた蛍が、一瞬だけ、とても嬉しそうに微笑む。
「本日は、急な訪問にも関わらず、お会いいただき、ありがとうございます」
すぐよそ行きの表情になった。冷静に言葉を紡ぐ。
「南方商人としてお願いしたい儀があり、真珠通り取締役・玄丸の代理として参りました」
南方商人として。
大きな物言いに、真緒が一瞬戸惑ったのがわかった。すぐ、力強く頷く。
「聞こう」
「感謝します」
蛍が真摯な表情で口を開いた。
「この昼までに起こった話ですが」
その前置きに、私は何かが終わったと確信する。嫌な予感に胃の腑が冷たくなった。
「南方商人の大半が、殺されました」
―――――一瞬、何を告げられたか、理解できずに戸惑う。
蛍が声から、感情を完璧に拭い去っていたからこそ、余計。私は一瞬息が詰まった。
今彼女は、何が起こったと言ったのか。
殺された。商人が、大半? それは…つまり。
脳裏に、存在すると聞いていた血判状の存在が過ぎる。
それだけの人数が、関わっていたということか。