第三章(6)
全員の視線が集中したのは、―――――この場で一番の決定権を持つ者。
東宮。
「…民は不安がっている」
志貴の声が、室内に気怠げに響く。無視し難い響きで。
「民を守れぬ権威とは何だね」
口調はひどく乾いている。なんの感情も伺えない。だが。
―――――真相を素直に語らない名家三人への痛烈な皮肉にも聴こえた。
けれどあまりに無感動で、言った当人の感情がどこへ向いているのか、片鱗も読めない。
彼らが反応を見せる前に、志貴は伊織に呼びかける。
「鎮守の司」
「はい」
伊織がもの柔らかに応じた。
「離宮に百鬼夜行を通せば、南方に起きている一連の騒動、早急な解決が可能かね」
難しい質問だ。その上、志貴は、断言を求めていた。
とはいえ、迂闊に確約などできはしない。
保身のためには、逃げ道を用意しておきたいところだ。なのに。
間髪入れず、伊織は答えた。
「可能です」
なんの、気魄も気負いもなく、一言。
なまなかな人物では、できない行動だ。
―――――…この、小柄で柔和な人のどこに、これほどの肝があるのか。
「よい答えだ」
東宮の声に、はじめて笑みがにじんだ。
「では、…そのように?」
まったく普段通りの様子で、伊織が確認する。東宮は頷いた。
「そうしよう。まずは」
続く、衣ずれの音。志貴は悠然と立ち上がる。
「大皇と面談する」
一瞬、私は面食らった。唐突な申し出と思ったからだ。
寸前までの話とは関係がない話とすら思えた。
誰もが呆気に取られている。
ただ伊織だけは理解できたか、穏やかに応じた。
「心得ました」
大皇と会って何の話を、と思ったが。
―――――現在、離宮で一番の権力を持つ存在は、大皇だ。
いくら志貴が東宮であろうと、これは、まずは大皇の了解を得なければならない話だ。
離宮に、忌むべき人外の群れ、百鬼夜行を通すなど。とはいえ。
難攻不落の相手と思えた。
高い頂に、山裾から手を伸ばして触れようとしているような感がある。
どのように、説得するのか。
方法など、私はひとつも思いつかない。
見上げれば、志貴はあっさりと答えた。
「大皇には大神の分社へお渡り頂こう」
…拍子抜けしてしまう。
呆れたわけではない。あまりに当たり前の言葉に、納得して。
その通り。大皇家が南方離宮を訪れたのは、そもそも、大神の分社へ参るためだ。
「分社へ渡る準備ならば」
夜彦が素早く応じた。
「とうに整っている」
「分社での宿泊準備もね」
綾月が、はじめて彼らしく微笑んだ。
「大勢が動くな」
夜彦が低く呟いた。綾月が楽しげに頷く。
「忙しくなりそうだ」
大皇が動く。
となれば、大半のものがついていく。離宮はほとんど空になるに違いない。
「はじめるなら、時はない。急げ」
志貴が、言葉を重ねた。
その通りだ。いっきに、雰囲気が慌ただしくなる。
「―――――南方の」
ふと、志貴が南方の三人に声をかけた。もう決定事項のように。
「百鬼夜行に興味があるなら、今夜離宮に泊まっていかれよ」
それを最後に、志貴は踵を返す。朔が速やかに彼のあとを追った。
続いて、伊織が立ちあがる。
「綾月、頼んだよ」
「承知」
恭しく頭を下げた綾月を横目に、伊織は南方の客人三名に声をかけた。
「では、これで失礼させて頂きます」
対する三人も、さすがは名家子息だ。
感情は完全に覆い隠し、小さく頭を下げた。
彼らの態度に目を細め、伊織はちいさく呟く。
「…残念ですよ」
直後。
一瞬だ。ほんの一瞬だけ、永志の表情が歪んだ。
取り返しのつかない失敗をした、そんな態度で。
ただ、私はそれ以上に伊織の態度に引っ掛かりを覚えた。
今回の彼はあまり、彼らへの詰問に加わった様子はない。
妙に平静で、何を思った態度でもなかったが。…やはり、あったのではないか。
私には分からない、理由が。
惑う間に、
「凛さま、後ほど」
伊織から、そつなく挨拶が向けられた。
顔を上げた時には、その背は部屋から出るところだった。とたん。
肩から、力が抜ける。
これでもう、いきなり驚かされる羽目にはなるまい。
安堵に、気まで抜けそうになった。慌てて引き締める。まだだ。
まだ、客人が御簾の向こうにいる。
綾月が、先ほどの辛辣さが嘘のような親しげな態度で永志に声をかけた。
「どうです、百鬼夜行に興味はおありですか?」
千華が顔を輝かせる。その隣で、
「せっかくだが」
固い声を放ったのは永志だ。
「離宮はこれから忙しくなるだろう。余計な手間を取らせるわけにはいかない」
一見、謙虚な物言い。だが、本音は明白だ。端から逃げてかかっている。
一晩、見学がてらに敵だらけの離宮で過ごすか。
それとも、安全な自室にこもっているか。
天秤にかけなくても、答えは出ている。
「我らもこれで下がらせて頂く」
なにより、祓寮が求めた証言に関しては何の解決もしていなかった。
逃げるが勝ちだ。
私としても、彼らに顔を見せるわけにはいかない。
引き止める理由はなかった。綾月が、社交辞令か、名残惜しげに呟く。
「…それは残念」
千華が、何か言おうとした。が、言葉は放たれない。
永志の視線に気圧され、口は閉ざされた。
「では」
永志が、頭を下げる。御簾の中の、私に向かって。
「御前、失礼致します」
他の二人も、彼に倣った。私は当たり障りのない言葉で応じる。
「お気をつけて」
帰して、いいのか。悩むが、引き止める言葉は思いつかない。
「夜彦」
「ああ」
綾月に頷き、夜彦が立ち上がった。
「先導いたします」
彼に続き、三人が退室する。
控えていた女官が幾人か続いた。侍女たちも波が引くように動く。
残った幾人かが、片づけに駆り出されるのだろう。
思うなり、控えの間から琴葉が低く呼びかけた。
「凛さま。我々も」
「…はい」
これでよかったのか。とは、―――――怖くて、誰に聞くこともできない。
なるようになれ、と開き直るしかなかった。
立ち上がろうとした、刹那。
「…失礼致します」
ひとりの女官が、謁見の間の入り口で深く頭を下げた。
私は、咄嗟に座りなおす。少し、待った。誰も何も言わない。
沈黙の中、間を置いて、あることに気付いた私はいきなり冷や汗をかく。そう言えば。
この場で一番上の立場は仮であっても、―――――――私だ。
よって。
ここで応じるべきは、私なのだ。
でも何を言えばいいのか。入室許可? いえ、そもそも一体何の用事で。
思ったところで、解放された気分になる。
それを尋ねればいいのだ。
「何用です」
放ったのは、事務的で、冷ややか、とも取れる声だ。一瞬、焦る。
だが親しい相手でもなければ、これで丁度いいだろう。
女官が、おそるおそる顔を上げた。発言の許可まで必要だろうか。
悩む私に代わって、綾月が尋ねた。
「いいよ、話して」
「はい、申し上げます―――――」
女官が、見るからにホッとなる。安堵の声で言葉を紡ぐ。
「真珠通りの取締役から、虎一と言う名のご使者がいらしたのですが」
綾月と真緒が顔を見合わせた。
彼らがその名に覚えがあると察したか、女官が声から遠慮を取り除く。
「祓寮の方に面談したい、と…願っておりますが、いかがいたしましょう」
伊織は大皇のところだ。
ゆえに、この女官は綾月がいるこの場に声をかけたのだろう。だが。
綾月は思案気味に尋ねた。
「彼は今、どこに?」
「玄関口にて、お待ち頂いております」
…これから、離宮は忙しくなる。綾月と真緒の悩みが、一瞬、透けて見えた。
この時に、貴重な時間を割いてまで、会うべきか、と。
ただ、私は。
全身から血の気が引く思いを味わった。
聞いていたからだ。
商人たちの会合で、小さな老人が告げた不吉な言葉を。
―――――昼にはすべて終わりましょう
何かが、起きたに違いない。
「申し訳ないが、」
断ろうとしたのだろう、
「綾月」
彼の言葉を私は途中で遮った。立ち上がる。
前触れなく、いかにも気紛れに言葉を放った。
「私、庭の散策をしてきます」
「はい」
突然の言葉にも、綾月は従順に頷いた。次いで、目を瞬かせる。
「はい?」
構わず、私は御簾を潜った。慌てたように、女官をはじめ、侍女たちが平伏する。
精神の安定のために、彼女たちには目を向けず、私は廊下へ向かった。
私が動けば、真緒もついてくる。
綾月の前を通り過ぎながら、囁いた。
「ついでに、すこし回り道をしてきます」
散歩ついでの回り道に、玄関口が入るかもしれない。
言おうとした何かを呑みこみ、綾月は同僚の名を呼ぶ。
「真緒」
彼女が、無言で私のあとに続いた。
廊下へ出る。
そこには、既に琴葉が待機していた。彼女は一礼し、私の先導に立つ。
…一瞬、少し、怖くなる。
動けば動くほど、世界のすべてが私の考えや行動に従うようで。
これは何かがおかしい、と心のどこかが叫んでいた。
それとも、上に立つ人間の場合、これが当たり前なのだろうか。
私にとっては、どうも、居心地が悪い。
この、型のない感じが。
今すぐ逃げ出して、どこかの隅っこで家事に勤しんでいたい。
だが当面、我慢が必要だった。
うろたえては、だめ。
丹田に力を入れ、逃げ出したい心地を堪える。
無言のうちに廊下を進めば、ふと、行く先から潜めた声が耳に入った。
「とうとう分社へお渡りになるの?」